寝起きの久幸は大抵ぼーっとしている。
 完全に気が抜けており、目を離すと布団に戻って二度寝してしまいそうな様子だ。
 けれど今朝はそれとは違っていた。
 顔色が明らかに悪い。
 外では蝉が高らかに鳴いて忌々しい気温だというのに、顔色は白く血の気がない。
 今にもぐったりと倒れ込みそうな状態だった。
「大学休むか?」
 習慣で起こしてしまったのだが、もしかするとそっとしておいた方が良かったのかも知れない。
 昨日もくしゃみはしていたのだが、これほど酷い顔色はしてなかった。
 久幸は首を振っては気怠そうに起き上がる。
 朝はトーストにしたが、米の方が良かったかも知れない。それならおかゆに作り替えられただろう。
 だが灯の心配を余所に、久幸は食卓に着いては無意識のように両手を合わせた。
 それでも口へ運ばれたトーストが咀嚼される様はいつもよりもずっと遅く、食べるのが億劫であろうことは見ていて分かる。
「今日大学行くのか?医者行った方がいいぞ」
 熱があるのではないだろうか。この部屋に体温計はあっただろうか。
(確か救急箱はあったから。その中に入ってるかな)
 灯がここに引っ越してくる際に、母が救急箱を渡してくれた。その中に体温計も入っているだろうか。
「試験だ」
 もごもごと不鮮明な答えに、灯はああと不安が膨らんだ。
 ちょっと動くだけでも汗が滴り落ちるような季節に、勉学も何もあったものかという感覚なのだが。
 夏休みに入る前に試験がある。単位を取るために必要なそれを受けなければ、これまで真面目に講義を受講してきた意味がない。
「今日が最後だから」
「そっか。バイトは?」
「休み」
 淡々と答えられ、灯はバイトがないことにほっとした。こんな顔でバイトだなんて冗談ではない。
 久幸は真面目だから多少の無理を押してでも働こうとするのだ。バイト先の人だってこんな状態の人間が来れば戸惑う。
 まずその危険が回避されたことは良かっただろう。
「試験が終わったら寝込め。午前で終わりだろ?」
「ああ。たぶん、風邪だと思うけどな」
 トーストを食べ終わり、牛乳を飲みながらようやく頭が起きて来たらしい久幸が憂鬱そうに喋っている。
「夏風邪ってあれだろ」
「おまえが言える立場か?」
「……すみませんでした」
 夏風邪に関して有名な迷信を言おうとすると久幸に先手を打たれた。こんなことだけ素早い。
 しかし手厳しい言葉を返しながらも苦笑する久幸に、目覚めた時ほど体調は悪くないのかも知れないと胸を撫で下ろした。
 身体は鍛えているのに中身はちょっとだけ弱い部分のある人だ。気を遣わなければ、そう改めて意識する。
(やっぱクーラーの温度かな。でも昨日は高めにしたのにな)
 滋養の付く食べ物は何だろう、後で調べよう。
 


 実は今日、灯も試験があった。
 だが一限のみという、実に面倒な日程だった。
 そもそも一限から試験というのが物凄く嫌だ。眠い。やる気が出ない。
 そして一限だけというのも実に億劫だ。二限、三限まであるのならば登校するのも仕方がないかと納得も出来るが。たった一教科だ。
 けれど単位は欲しい。渋々登校し、筆記試験を受けて帰った。
 灯は本番に強い。まして今回の試験は記号の問題が多かったのでカンと運で単位は取れたことだろう。
(買い物して帰るか)
 じりじりと焦がすような太陽の光を浴び、自転車にまたがりながらそう思ったけれど、冷蔵庫の中身を把握してくるのを忘れていた。
 適当に買い物をすると同じ物が二つあったり、あると思っていたものがなかったり。いざ調理の段階で問題が起こることが多い。
 なので一度家に戻ることにした。通学用の鞄も邪魔である。
 つぅと背中を汗が伝う不快感に耐えながら、熱気を上げるアスファルトを駆け抜ける。蜃気楼が見えてくるのではないかと錯覚するほどの暑さだ。もはや熱さとも言える。
 日本の夏は年々灼熱と化しているのではないだろうか。
(溶ける溶ける。あー、もう暑い!)
 叫び出したいが叫ぶのも怠い。
 そんな欲求を抱えつつアパートに辿り着き、二階にある自分の部屋に帰るために階段を上がろうとした。
 すると汗ばんだ背中に冷たい風が通る。
 蒸し暑く、大気が熱せられたこの季節にいきなり街中で冷たい風が吹くはずがない。
 現実にはあり得ない、異様な体感に足がピタリと止まった。
(なんか、ある)
 何であるのか分からない。ただ目に見えない何かしらが近くにあるということだけが分かった。
 まして冷たさが灯に危機感を募らせる。
 一瞬動きを止めたが、危ういと感じたところに立ち尽くすのは賢明ではない。灯はやや急いで鞄から鍵を取り出しながら二階に上がった。そして部屋のドアを開けようとした時、かちんと階段を上ってくる足音がした。
 ここには他にも住人がいる。当然二階もだ。
 隣にも学生が入っていることは知っていて、階段を上がって来る人がいるのは不自然ではない。
 だが灯にとってその音は異様なものだった。
 ぞわりと肌が粟立つ。
 それはいけないものだ。関わってはならないものだ。
 直感がそう警告する。
 だが近寄ってくるそれを無視して、何かも分からないまま放置するのも恐ろしかった。正体不明の異物を人が異常に恐れるのは、本能に近い。
 つい視覚で確認しようと階段へ目をやる。
 すると現れたのは女だった。
 真っ白な、血の気もない肌の色をしている。
 そのくせ唇だけ真っ赤で、まるでそこから血を流しているかのような色をしていた。
 そういう化粧なのだろう。
 だが作っていると分かっているのに、それが禍々しいような有様に見えて灯は息を呑む。
 真夏の暑さの中だというのに黒い服は長袖で、一人だけ季節から切り取られているような雰囲気がある。
 黒髪を一つにくくり、高い位置で団子にしているのだが綺麗にまとまっておらず。多くの髪の毛が跳ねている。ボサボサに乱れて、幾つもの髪の束が肩に垂れている。
 荒れ果てた廃屋からのっそりと出てきたかのような姿だ。生気のない顔には、見ている側を不安にさせるような不気味さがあった。
 その女は階段を上り終わる前に灯を見た。
(う、わっ)
 目が合った。
 ただそれだけのことなのにまるで静電気が走ったように痛みが走って、目を逸らした。
 いけない。あれは見てはいけない。
 何か危険なものを宿している。
 全身から汗が噴き出す。
 逃げたしたくなった。ここが自宅前でなかったのなら全力で走って逃げただろう。それくらいこの女は危険だった。
 刃物でも持っているのではないかと思うが、手ぶらで歩いている。
 鞄すらない。それはそれでおかしなことに思えて、全身が硬直していた。
 握り締めた鍵を穴に突き刺して部屋に引きこもった方がいいのか。しかしここに住んでいるとばれるのも怖い。
 悩んでいると女が二階の廊下に立った。
「貴方、ここに住んでるの?」
 ゆっくりと近付きながら女が問いかける。
 声は見た目よりましだった。だがきちんと聞こえているはずの声が朧気に感じる。
(死んでる……?いや、そんなはずない。俺はそれは見えない!)
 灯は言祝ぎ屋などという目に見えない言霊を操れる。だがその特殊な力は死んだ者を見るなどという方向には向いていない。
 ならばあれは生きている人間だ。
 なのにどうしてあんなにも歪な、悪意の固まりのような空気を纏っているのか。
「ねえ」
 問いかけを重ねられ、灯はびくりと肩を震わせた。だが真実を答えてはいけないと感じる。
 この者に真実を掴ませてはいけない。それは必ず良くないことになる。
 灯は自分のカンを何より大切にしていた。何もそれは試験の時だけではない。
「いえ、俺はここに住んでるわけじゃ」
 そう言いながら女を見るとまた目が合いそうになって、慌てて逸らす。いけない。この女と目を合わせてはいけない。
 しかし見ずにいても女から冷気のようなものが漂ってくる。こんなことは初めてだった。
 足下が震え始める。
(もし、もしなんかあったら、こっから落ちるか…!?)
 アパートの廊下には転落防止用の柵がある。けれどそれを乗り越えて下りればなんとか逃げられるのではないか。二階ならば足をくじく程度で済まないだろうか。
(でも足をくじいたら逃げられないか)
 どん詰まりの廊下を背にして、どうにかこれを回避出来ないだろうかと考える。
「ならどうしてそこにいるの?」
 女はまだ尋ねてくる。灯の答えを掴むまでどこにも行かないと決めているようだ。
「友達に、泊めて貰ってるんです」
 久幸を人に紹介する場合、最も適しているのは友達ということだろう。
 それ以前にここに住んでいない設定で部屋に入ろうとした場合の言い訳など、一つしか思い付かない。
「ここは招木久幸君の家よね」
(ユキの部屋を知りたがってるのか?)
 本当のことは言いたくない。だが違うと言ったところで表札を出してしまっているのだ。
 そこには灯の名字もあるけれど、女が灯を「寿」という名字だと認識しているかどうかは不明だ。
「あの、どちら様ですか」
 何故久幸の部屋と確認したがるのか。この女と関わっても決して良いことはないだろう。
 警戒しながらも今度は灯が尋ねる。だが女はそんなことは聞こえなかったとばかりにドアを指さした。
「久幸君はここで暮らしてるのね。今はいないけど」
(もう調べたのか?)
 インターホンでも鳴らして、久幸が在宅ではないことを知った上でのことだろうか。
「今は大学生かな」
「あの、ですから」
「きっと立派になってるんでしょうね。ご両親のどちらに似てるのかしら」
「ちょっと、なんなんですか」
「背は高い?ここから通っているなら大学はどこなのかしら」
「いい加減にして下さい!」
 灯のことは一切無視して一人で喋り続ける。しかも久幸に関しての勝手な想像を連ねているのだ。
 気持ちが悪く、すぐにでも消えて欲しいくらいだった。
 怒鳴ると女はぴたりと口を閉ざした。
 いきなり黙り込んだ様に、怒っただろうかと身構える。一度怒ると手が付けられないほどに狂い出す人種のように思えたのだ。
 だが女は数秒沈黙するとゆるりと斜めに傾く。まるで作り物の人形がバランスを崩したような動きだ。
 人間から逸脱しているようなその有様にぞっとする。
「また来るわね。久幸君に、よろしく」
「あの!」
 女を見た時はあんなに怖かったのに、久幸に用事があると知った途端に女をこのまま帰して良いのか不安になった。久幸との関係は分からないがたぶん良いものではない。
 だが女は引き留めてもまるで聞こえないように去っていく。
 その背中に触れて、引き戻すだけの勇気はなかった。寒気が身体の芯まで入り込んでは指先から凍えそうな感覚すらあったのだ。
 先ほどまでうだるような暑さの中にいたはずなのに。
 結局女の姿が見えなくなるまで灯は呆然と立ち尽くし、握り締めた鍵を掌から離すことも出来なかった。


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