16 玄関から出てドアを閉めるとそこで緊張の糸が切れたのが自分でも分かった。 だが後ろから暗がりが追いかけてくるようで、立ち止まるようなことは出来ずに歩き出す。 早くアパートの敷地から離れたかった。けれど駐輪場らしきところで出た辺りで足がもつれた。 それを合図に身体が傾いた。 「大丈夫か灯」 すぐに久幸が支えてくれたので、許されたように体重を預けながら背負っていた鞄をその場に下ろした。 急かされるように鞄の口を開けてペットボトルを取り出してまずは口をすすいだ。それから血と内臓に穢れた手を洗い流す。 だが持って来た水が無くなっても綺麗になった気がせず、両手を見下ろしたまま無性に哀しくて溢れ出てくる涙を止められなかった。 ぽろりと涙が落ちると身体が震え始め、全身が凍えるように寒くなる。 「灯。おい、灯」 「俺、俺……どうしよう、ユキ、俺」 頭の中がぐちゃぐちゃに掻き混ぜられて真っ黒な泥に塗り替えられていくようだった。死にたくないという声が聞こえてきては灯の命を獲ろうとしているのが分かる。 ここまでは来られない。所詮どれほど恨んでも、憤っても、因果の元は灯にはないのだ。あの女の元に行くのならばともかく灯に訴えたところで意識を乗っ取ることは出来ない。 まして灯は才を持ち、祟りという方法を思い付いた際にそれが己を支配出来るかどうかも計っている。 その上で無理だと判断したのだ。 気を確かに保てば声も完全に無視することが出来た。けれど初めて死霊と向き合ったことで、その感情の振れ幅が制御出来なくなっていた。 引き摺られてしまったのだ。 「灯、しっかりしろ!灯!」 自分が汚泥に埋もれていく感覚に怯え、久幸にすがりつく。抱き返してくれる人の腕を感じるのに、酷くそれが遠い。 「灯君は言祝ぎのみを学んでいると聞いている。死霊など相手に出来ないどころか感じることすら出来なかったはずだ。それをどうしたのか、祟りをなしえるほど死霊に近寄ってしまったんだろう」 招木の伯父が灯の様子を見下ろして何やら語っている。だが灯は上を見ても人の顔など見えずに視界が薄暗いもので塞がれていた。空にあるはずの真夏の太陽も見えない。 「精神が死霊に近付きすぎて、共感しているんだ。このままだとまずい」 「灯!ちゃんと返事しろ!おまえは生きてる!ここにいる!灯!」 「痛い痛い痛いいたい、いたいよ、いたい、すごくいたい。イタイ」 腹から胸にかけて激痛が走り何かが溢れ出ていくのが分かる。失われていることが怖くて藻掻くのに、動けなくて痛みだけが膨れあがっていく。 (これは俺のものじゃない。俺は生きてる) それは理解していた。この感覚は死んで逝ったものたちが感じさせる、恨みの残滓だ。 この嘆きを誰かに分かって欲しくて流していることだ。 だから目を伏せ、耳を塞ぎ退ければこの感覚は消えていく。 しかし意識を集中させようとしても苦痛と悲哀が灯を揺さぶって逃がさない。 「イタイ、イタイの、かえして、かえして、かえして」 止めて、痛い、ここから出して、帰して、助けて、助けて、助けて。 暗い、痛い、出して、怖い、怖い、怖い怖い怖い怖い。 「帰ろう、俺たちのうちに帰ろう。灯。もう大丈夫だから」 大丈夫だから。 そう告げる人の腕にしがみついて、涙を流した。 視界は真っ暗で何も見えず、四肢を何かに掴まれて引き裂かれるような激痛に襲われる。 絶叫が喉から突き抜けた気がしたけれどそれもまた曖昧で、頭の中が真っ赤に染まった。 目を開けると知らない部屋の中で横たわっていた。 クーラーが起動している音と蝉の声。締め切られた空間には微かに線香の匂いが漂っていた。一瞬招木家の離れを思い出したけれど、それよりもずっと狭く六畳ほどの和室だ。 敷かれている布団は柔らかく、その隣には同じように布団で目を閉じている久幸がいた。 眠っているらしく、規則正しい寝息を立てている。離れで見た時よりずっと顔色は良くなっていて、その事実にまずはほっとした。 呪いが途絶えただけでこれほど変わるのだ。その分酷く呪いに苛まれていたことが分かる。 (でも、終わったから) もう呪いはここまで届いてこない。 そう思うと自然にあの女のことを思い出しては、アパートの部屋のこと。女が行っていたこと、そして自分が何をしたのか記憶が蘇ってきて口元を押さえた。 吐き気がする。それを思い出してはいけないと全身が拒絶していた。 (あれから、どうなった……?) 泣き叫んだ後、どうなったのだろう。そしてここはどこなのか。 待遇や、久幸が眠っているところからして危険な場所ではなさそうなのだが。 「…………」 喉が渇いた、と言いたかったのに負荷を掛けられたらしい喉は掠れた吐息しか出てこない。どんな声を上げたことか。 ひりついたこの感覚からして、おそらく相当大きな声を出しているはずだ。近所迷惑になっていなければ良いが。 起き上がってみると枕元にペットボトルの水が置かれていた。灯が持っていたものではない。見たこともない海外のものと思われるラベルをしばらく見詰める。 (飲んでもいいのかな?) 蓋は開いており、三割ほど減っている。枕元に置かれていることを考えても、飲んでも良いという形ではあるだろうし、飲んだのはきっと久幸だろう。 それでも人のものを勝手に飲むのは悪いかと思い、手を出しあぐねる。 (……寝てるしな) 安らかに眠っている人を起こすのは憚れる。呪いのせいでうなされていたらしいので、ぐっすり寝るのも久しぶりだろう。 躊躇いながらも喉の渇きに抗えずに水を飲んだ。 するりと入っていく水に喉から胃を洗浄されているかのような気分になる。内臓が働き始めると意識も多少鮮明になってきた。 (あれから何時間経った?) まだ外は明るいようだが、果たしてどれくらいの時間が過ぎたのだろう。 障子に手をかけて少しだけ外を見ると庭園と言いたくなるような庭が見えた。 (招木の家かな?) 庭などまじまじと見ていなかったが、ご立派であった印象は残っている。それに相通ずるものがあるので、やはり招木の家なのだろうかと思いながらも陽光を見上げるとその角度に口をぽかりと開けてしまった。 (眩しい………) 斜めに降り注いでくるそれは、明らかに夕暮れのものではない。金色の真新しい光は朝のものだろう。 ということはあれから一日過ぎていることになる。 その間の記憶がない。 (マジか。朝?日付が変わってんの?俺全然覚えてないんだけど!?) 軽いパニックになりながらそっと障子を閉め、眼前から逃げつつも自分の荷物を見付けて手を伸ばす。 恐る恐る鞄の中から取りだした携帯電話には確かにあれから一日過ぎた日付が表示されている。 (明日か!本当に明日になってんのか!ええぇ!?いいのこれで、現実はこれでいいの!?) 混乱しつつも一日経過していると分かった途端にくぅ〜と腹が鳴った。 記憶がないということは食事も取っていなかったのだろう。そう分かると途端に空腹感に背を丸めた。 「腹減った……なんか食いたい」 水しか入っていない胃袋に切なさを覚えていると、腰の辺りに何かが触れた。 振り返ると久幸がうっすらと目を開けて灯を見上げて来ていた。 「おはよう」 「おまえさ……起きてまず腹か」 掠れた声で朝の挨拶をすると呆れた声でそう言われた。だが久幸は安心したように破顔する。 「うん。腹減った」 思っていることをそのまま口にすると久幸は喉で小さく笑いながら起き上がる。ぼさついた髪を掻きながら深く息を吐いた。 「はあ……もう平気そうだな」 そこには安堵だけでなく疲労も色濃く滲んでいる。 きっと灯が平気ではない状態があったのだろう。 「えっと、俺あれか。錯乱、してた?」 「してた」 「あんま覚えてないんだけど。あの、ごめんな」 覚えていないのに謝られても困るだろうかと思ったのだが、久幸はむしろ笑みをはっきりとしたものに変えてくれた。 それでいいのだと言われたような気がして、空腹ではないもので身の内がきしんだ。 覚えていないと言いながら、意識が飛ぶ前に痛みと孤独と恨みの心で絶叫したのは記憶にある。 そして断片的にだが泣き叫びながら必死にその引き裂かれそうな感情を訴えた気もする。 何故自分だけがこんな目に遭うのか。痛い苦しい助けて欲しいと言っていた。 ぎゅっと誰かの腕にしがみついていた。それを離されれば殺されるとすら感じていた。 容赦ない力で握っていたというのにその腕は灯を振り払わなかった。それだけが希望であった。 「いいよ。覚えてないだろうなと思ったし。覚えてなくていい」 「ユキにしがみついて泣いてた気がする」 「そうかもな」 鮮明な記憶がないせいか、久幸は言葉を濁して笑った。そして灯の頭を一度、慈しむように撫でてくれる。 何も覚えていないこと、そしてあっけらかんと腹が減ったなどと言い出したことを喜ぶかのような手だ。 (……ユキはたぶん、俺のこと頑張って支えてくれたんだろうな) 錯乱した人間の相手など想像を絶する大変さだろう。 それでも弱音を吐いたり愚痴ったりするどころか灯を案じてくれている。 有り難いと思うと同時にやはりこの人は優しい人なのだと痛感した。失って良い人ではない。 自分が行ったことに対して胸を張るつもりはない。だが決して悔いることもないと断言出来た。 next |