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「ここどこ?ユキの実家?」
 障子の外をちらりと見ても分からなかったので首を傾げる。まさか久幸も分からないなんてことはないだろう。
「伯父さんの家」
「久幸の?」
「そう」
 久幸の伯父というのは女の部屋に後からやって来た人だろう。険しい顔をしていたような気がするけれど、正直もうあの時精神的に限界だったのでよく覚えていない。
 しかし久幸の伯父の家ならば安全なのだろう。
 朝の寝起きだというのに久幸は滑らかに喋っている。いつも寝起きが悪くて喋ってもくぐもった声しか出さないのに。
(ろくに寝てないってことかな)
 だとすれば申し訳ない。自分でもまさかここまでとは思っていなかった。
「もう大丈夫そうだな」
「大丈夫じゃなかった時を覚えてないから。大変だった?俺酷いことしてた?」
 正気を失った人間は何をするか分かったものではない。
 暴力など振るったのではないかと心配になる。
 体格は久幸の方が良いが、力の加減も出来ない男の相手はきついだろう。
「いや、泣いてただけ。でもあんなに泣かれるとさすがに参る」
 苦笑する人は泣きじゃくる灯に随分困惑したのだろう。疲れ果てたという顔がちらりと見える。いい年した男が子どものように泣いては持て余すのも当然だ。
「ごめん」
「いや、俺のせいだ。おまえに辛い思いさせて。その上あんなに泣かせて」
「それは俺が望んだことだよ」
 久幸が苦しんでいることを知って、数日悩んだ。久幸のために自分はどこまで出来るだろうかと。
 色んな可能性が頭に浮かんだ。だがそのどれも怖かった。自分がどうなってしまうのか恐ろしかった。
 正直母が言ったように専門家に丸投げしてしまいたかった。
 そうしても誰も責めないはずだとすら思った。
 ただ、自分に何が出来るのかではなく、どうしたいのか、後悔しないためにどうすればいいのか。そう考えを変えるとじっとしていられなかった。
 久幸のために何かしたい。
 そんな分かり易い簡単な思いが消えなかったからだ。
 自分の気持ちに従ったまでだった。
「おまえはもう平気?身体痛くないか?」
 久幸から呪いを受け取った時に走った内臓の痛みは綺麗に消えただろうか。
 後遺症があるかどうかは分からないけれど、まだ何かしらの処置を必要としているのか。
「平気。昨日からすげぇ調子いい」
「そりゃ良かった。ちゃんと出来たんだな」
「……おまえは俺の命の恩人だよ。二度も助けてくれた」
 久幸は居住まいを正しては灯に頭を下げてきた。気の置けない人にそうして頭を下げられるとくすぐったい気持ちになる。
「そうしたかったんだ。奥さんを助けるのは旦那の役目だよ」
 放っておけば何度も繰り返されてしまいそうな感謝についそうやって茶化してしまう。
 ただの関係ではない。友達でも恋人でもない。そんな段階をすっ飛ばした間柄なのだ。
 最大限の努力をしなければ、何のための夫婦なのか。
(そんなこと言っても結婚もしてないし、婚約もこの間発覚したばかりなんだけどな)
 だが久幸のためにがむしゃらになるのは心地良かった。
「じゃあ俺は嫁のために命も身体も張るよ。おまえのためなら何だってしてやる」
 大袈裟ではなく本心なのだと、凛とした声で真っ直ぐ灯に誓う。
 心身共に丸ごとを差し出してくれる人に灯は目を丸くして視線を交わした。どこか嬉しそうなその顔は女でなくともどきりとさせるだけの威力があった。
「すごい殺し文句だな」
「おまえがやったことに比べれば安いもんだ」
「そうかな」
 やりたいことをやった。
 結局灯にしてみればその結論に達してしまうのだが、久幸にとってはどうもそうではないらしい。
 そんなに重々しく取らなくても良いだろうに、久幸は気になるのだろうか。
「死霊と同調した人はしばらく向こう側に引き寄せられやすいって聞いたけど。その辺はもう何ともないか?昨日も一晩中祝詞上げてなんとか保ってたけど」
「え、そんな手間かけさせたの?」
 一晩中祝詞を上げるなんてなかなかに大変な作業だ。まして灯を抑え込みながら、向こう側に意識を取られやすくなっている人を正気に戻すなら、集中力も必要だっただろう。
 集中力の切れやすい灯にしてみれば苦行である。
「伯父さんがそうしなきゃやばいって」
「マジか。いや、それは俺も予想はしてたんだ。だから終わったらすぐに実家戻ってなんとかして貰おうと思ってたんだけど」
 死霊に寄せられやすいのは予想していたので、なんとか新幹線で実家まで戻ってそれからは母や叔父に頼んで正常に戻して貰おうと思っていた。
 だがそんなゆとりはなく、すぐさま意識が取り込まれてしまったが。
「ああ、連絡があったからこっちでなんとかするって言ったよ」
「ありがとう」
 実家と連絡が取れていることは有り難いが、きっと母はここまで戻って来られなかった灯を心配していることだろう。
 今すぐ電話をしなければ叱られるだろうか。そう思いスマートフォンの画面を見ていると、廊下を歩く足音が近付いて来た。
 朝日を浴びて障子に影が映るとそれは膝を突き、障子に手をかけたようだった。
「起きてはる?」
 そっと窺うようにかけられた声は招木の母のものだ。きっと二人の話し声が聞こえてきたので様子を見に来たのだろう。
「はい。もう起きてます」
 返事をすると障子は滑らかに開かれ、水色の着物を纏った招木の母はまずは頭を下げた。
「おはようございます」
「あ、おはようございます」
 予想以上に丁寧に接せられて、灯も慌てて頭を下げた。
 挨拶を済ませ顔を上げた招木の母は昨日よりもずっと柔らかな表情をしている。顔色はまだ冴えないけれど、穏やかな心境が目元などに滲んでいた。
 ようやく肩の荷が下りたというところだろう。
「灯君。もう大丈夫?」
「はい。全然何ともありません」
 腹が減っているだけで身体のどこにも異常は感じない。意識もはっきりしており、いっそ何事もなかったと言いたくなるような様だ。
「ほんまにありがとうね。どれだけ感謝してもし尽くせへん」
 再び深々と頭を下げられ、灯は苦いものが込み上げた。以前こうして招木の母が灯に頭を下げた時には随分複雑な気持ちで、悩んだものだ。
 その気持ちが蘇ってきては居心地が悪くなる。
「いや、俺が望んでやったことです。自分のためでもありました」
「それでも貴方は私たちの恩人よ」
 自分がやったことが恩人に当たる行為だということは分かっているけれど、散々迷っていた。自分が嫌な思いをすることに尻込みもした。
 久幸より自分を守ろうとしたのだ。その思いを自分自身はよく知っている。だからこそ完全に好意でやったかのように言われるのは後ろめたい。
「貴方の手が汚れることも、心が痛むことも分かりながら私は貴方に頼み込んだ。それなのに貴方はその卑怯さを咎めもせえへん」
「俺は、俺がしたいと思ったことをしたまでです。後悔もしてません。招木の方々を批難することなんてありません」
 きっと久幸と一緒に暮らした時間がなければ、久幸の優しさを感じていなければ、灯は未だに悩んでいたはずだ。
 どうしようと決心出来ない情けない自分に膝を抱えていた。
 背中を押してくれたのは、久幸だ。
 大切にしてくれた記憶が灯を奮い立たせた。
(俺は久幸に大事にして貰ったことを返したかっただけなんだ)
 それが少しばかり大きくなってしまったけれど。気持ちはそこからきている。
 だがそう言うと久幸は大袈裟なくらいに重く受け取りそうで口には出さなかった。
「ありがとう」
 招木の母は涙を堪えるように目元を抑え、震える声で感謝を述べる。
 積もり積もった苦労が報われたことに込み上げるものがあるらしい。きっとこれからはもっと気楽に穏和に生きていけることだろう。
 良かったな、と心の底から思う。
「こちらこそありがとうございました。一晩中祝詞を上げてくださったそうで」
「そないなこと大したことやあらしまへん。それで収まってくれたんやからほんま良かったわ。それとお母さんがお見えやけど、お通ししてもええかしら?」
「母が」
「飛んで来はったわ」
 きっと朝一にこちらに駆け込んできたのだろう。
 灯から連絡が途絶え、招木の家からは祝詞で抑えていると言われて気が気ではなかったはずだ。死霊と共鳴出来るようにしているという状態を知っているだけに、最悪の想像もしていただろう。
 招木の母は廊下の向こうに顔を出しては「お通しして」と誰かに声を掛けた。
 すると招木の母よりずっと落ち着きのない慌ただしい足音が響いた。ドスドスと重みを感じる音は我が母ながら雑だなと思う。
(心配させたもんな)
 足音を気にしている場合ではないのだろう。
「灯っ!」
 母は部屋まで辿り着いたかと思うといきなり灯に抱きついて来た。半分泣きそうな顔をしており、きっと灯が死霊に憑かれて精神を崩壊させることも考えて不安に押し潰されそうだったのだろうと思う。
 ぎゅうぎゅうに抱き締められて若干苦しいけれど、それをふりほどく気にはなれなかった。
「あんた、本当に無事なのね!?何ともないのね!?無理してない?」
「ごめん。あんまりにも何もないし記憶もほとんど残ってないから、申し訳ないくらいにいつもの俺。つか腹減った。すき焼き食いたい」
 母相手に思っていることをそのまま伝えると、不安でいっぱいだった母の動きが止まった。
 顔を上げると廊下には総一と久幸の伯父と思われる人も来ていて、灯の発言にぽかんとしていた。
 こんな台詞を到底言いそうもないくらいに灯は昨夜荒れたのだろうか。
 後ろで久幸一人がぶふっと吹き出した気配がする。
「すき焼きかぁ。俺も久しぶりに食べたいなぁ。うちの奥さん呼んでいい?」
 唖然とした人々の中で一番早く回復したのは総一で、のんびりとそんなことを言ってはポケットからスマートフォンを出している。
 こののんびりとしているようで非常に冷酷な面を持つ男の嫁とはどんな人だろうか。純粋に興味があるのだが、それを尋ねる前に母の手に頭を撫でられた。
「もう、この子は」
 本当に、と言いながら微笑む母の顔にまた腹がぐぅ〜と鳴り、その場はとうとう抑えきれなかった笑いが生まれた。






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