15






 た、た、り。
 女は幼児が初めて聞いた単語を身につけようと響きを繰り返す様と、全く同じ動作をした。
 知らないはずがないだろうに。
「そう。死んだ生き物たちの怨嗟を形にして貴方を祟ります」
 宣言すると女の顔から嘲笑が消えた。
 得体の知れない何かが自分の前に立ち塞がった。
 そう感じたのかも知れない。唖然とした唇はまだ何を言われたのか理解していないだろう。
「私はそのための媒体でしかない。そして祟りは返すことが出来ない。返す先がありませんから」
 何故なら全て死んでいる。
 どれほど呪ったところで死んだものまでは届かない。
「人を祟るのは、いつだって死んで逝ったものたちだ」
 その死んだものが人であれ、動物であれ、命を無残に奪われたそれらの恨みは生きている者の比ではない。
 だからこそ生きている人間は祟りが起こると、彼らを神として崇め奉り怒りを鎮めようと必死になるのだ。
 捨てるものがない彼らは酷く強い。この世の全てを恨んでしまったのならば、尚のことだろう。
 灯は持っていた死体の、弾けたような腹の中に手を入れ、内臓の柔らかさに眉を寄せながら手を穢す。
 そこから伝わってくるのは気持ち悪さというより悲哀だった。女に捕まり無理矢理鉄籠に入れられ、いきなり襲いかかってくる激痛に藻掻き苦しんだ記憶。四肢が砕け腹が裂ける、そんな生々しさすら感じられる。
 途切れる意識の中で映った女の顔に、抱えきれないほどの憎悪を生み出した。殺してやりたい、同じ目に遭わせてやりたい。強固な殺意がここにある。
「はあ…?意味分かんない。アンタ、人間でしょ?人間のくせに祟り?」
 女は灯の手に初めて怯えを見せた。だがそんなものに惑わされるものかと、再び嘲りを見せるが強張ったその口元では威圧感などあるはずがない。
 灯は穢れた手で女の額に触れる。べっとりとどす黒い血が女の額を汚した。
 ひっと悲鳴を飲み込んだ音が聞こえる。
「祟りなんて人間に出来るわけないじゃない!大体こんなものが祟るわけない!ただの野良猫じゃない!ゴミじゃない!祟りなんて有り得ない!」
 それまで余裕を見せていた女がぎゃんぎゃんと叫び出す。灯の手から逃れようと身体をよじるけれど、兄弟がそれを押さえつけていた。
 ようやく恐怖を感じ始めた人の額に手を置いたまま、灯は言霊を口にした。蔵の中にあった書物に書かれていた文字を頭の中でなぞっていく。
 だが大切なのは呪文のような言葉たちではなく、怨嗟を組み上げて叶えてやることだ。死んだものと心を添わせて、自らも死霊の一部となってその恨みを女に注ぎ込むこと。
 そのため灯の中には形に表すことなど到底出来ないほどの死に対する恐怖と、激痛や苦しさに対する憤怒があった。
 自我が揺らぎ、泣き叫びたくなる。
 だがそうしてしまえば全て無駄になってしまうのだ。
 女の呪いを止めることも出来ない。久幸を救うことも出来ない。
 それに死霊たちの無念を果たすことも出来ない。
 こんなにも理不尽に殺されて、ゴミのように捨てられて、このまま終わりにして良いはずがない。彼らにも救済が必要だ。
 でなければ死んだ後もこの地獄に閉じ込められる。
 震え叫ぶ人の口元へと、言霊と共に息を吹きかけた。
「やっ、なに、何するの!?止めてよ!何を入れたの!?」
 灯の中に入り込んでいた憎悪と死の淀みや穢れが吐息として体内から出て行く。多少軽くなった心臓を抱え、灯はゴミ袋の山へと戻った。
 そこに猫の死体を横たえ、連なっている袋の中から一つを持ち上げる。
「貴方は運が良い。殺された生き物の中には随分長生きなものもいましたよ。あと蛇を殺すのは止めろと子どもの頃に教えられませんでした?」
 そう言って持ち上げた袋の中から蛇の死骸を取り出す。
 だらりと伸びた身体は血に汚れている。長い身体の丁度真ん中に大きな亀裂が走っていた。臓器は身体に纏わり付くように垂れ下がり、まだ生々しさが残っていた。
 1メートル30センチほどのそれを女の目の前に突き付ける。そして女の手首を掴んだ。
「止めて!触らないで!気持ち悪い!アンタなんなの頭おかしい!祟りだの何だの訳分かんないこと言って!そんなこと出来るわけないしそんなの近付けないでよ!」
 灯は女の言うことを無視し、女が着ている長袖の袖口を掴んでは肘まで上げた。露わになった手首には幾つもの自傷の痕があった。
 その内の数本はまだ生々しく血が滲んでいた。
 おそらくこれも呪いに使っていたのだろう。
「これは執念深いですよ。大変ですね。蛇は再生と死を連想させる上に、恨みが長い。その中でもこの子はかなりの執念のようです」
 憤怒と怨恨が溢れては灯の誘いに真っ先に飛びついてきた。この死体の山の中でも飛びきり怨嗟の強いものだろう。
 これ自体がすでに呪いのようなものだ。
「ただ祟りと言っても無駄に貴方が苦しめられて終わるのでは意味がない。ここは一つ私と約束をしましょう」
 灯は己が行おうとしていることの重大さ、そして禁忌であるという意識を無理に抑え込んでいる。
 そのせいでうなじがじりじりと焦がされ、喉を見えない縄で絞められているような錯覚に陥っていた。
 引き返したい。出来ることならこんなことはしたくない。
 だがもう灯が戻る道はどこにもないのだ。
 いつの間にか呼吸は浅くなり、口の中が乾き切っていた。
 人が罪を犯す際にはこうして飢えてしまうものなのだろう。
 約束、という言葉に女がぴたりと口を閉ざして灯を見上げた。救いをそこに見ようとしているのかも知れないが、この世のどこにも女に対する救いなどない。
「貴方がもう二度と誰も呪わないと言うなら、誰も呪わず祟りを鎮め、大人しく生きていくというのなら命は長らえられるかも知れない」
「灯君」
 女が生きていくための方法を、祟りによって苦しみ、すぐに朽ち果てるのをなんとか避けるための道筋を示す。
 それに難色を示したのは総一だった。
 殺したいと顔に書かれている人にとって、女が穏便に生きていけるかも知れない道など気にくわないに決まっている。
「いいから」
「だが」
 総一の不満を止めたのは久幸だった。
 それでもまだ納得出来ない様子だったが、総一はあくまでも直接被害を受けているわけではない。久幸を押し退けてまで自分を通すことは出来ないだろう。
 総一が黙ったのを確認してから、灯は改めて濁った感情を宿す双眸を見る。
「でも呪いを行うなら貴方は祟り殺される。これまで久幸が貴方に苦しめられた以上のものが貴方に襲いかかる」
 そう宣言し、灯は蛇を女の手首の上に置いた。丁度裂かれた腹を女の傷口に押し付けては溢れ出ている内臓と傷口を擦り合わせては滲み出てくる血を混ぜる。
 女の絶叫が部屋にこだまするが、おぞましい灯の行為を誰も止めなかった。
 黒と赤が混ざると灯はそれを指に取って女の手首に文字を描いた。
 もはや現代ではとうに死んだような文字たちだ。実質そう力などない。
 だが女の目に「呪いをかけれられている」という現実を突き付けるためにやっている。
 同時に頭の中で様々な声が駆け巡っている。悲哀であり怨嗟であるそれは呪いに変わり、祟りに変わり、灯から女へと渡されて息づいていく。
 鼓動に応じて脈を打ち、内臓に棲み着いては痛みを吐き出すことだろう。
 異物に身体を乗っ取られる感覚と共存しなければならないのだ。正気を保っていられるとは思えない。
「こんなの!何にもならないゴミがいくら集まったってゴミじゃない!殺される時も何も出来なかったくせに!呪いを返されてもただ殺されただけじゃない!力があるならあの時どうにかすれば良かったでしょう!呪いに使っても大して強くもならなかったくせに!今更なんで!?なんでぇ!?」
 こんなこと認めない!知らない!と絶叫する女を兄弟は冷静に見下ろしていた。
 この事態を生み出した灯自身も自分の中から出ていったものの大きさや感覚にぼんやりと眺めていた。
 死んで逝った生き物たちの声が聞こえてきては、ここが現世はどうかも危うい感触だ。
「おまえたち、何をしている……?」
 不意にドアが開かれたかと思うと男が一人入って来た。背が高く、精悍な顔立ちをしている。年頃は五十前くらいだろう。厳しい表情はこの部屋の異様さを警戒しているようだ。
 当然だろう。一人の女を三人がかりで押さえつけたあげくに絶叫させているのだ。部屋には異臭が漂いゴミ袋が山積みになっている。
 どう見ても異常だ。
「伯父さん」
 久幸がそう呼び、この人が招木の母の言っていた伯父なのかと思う。よく見れば目元が招木の母に似通っている。
 現地集合と言っていたが、間に合ったらしい。
 もっとも灯のやるべきことはすでに終わったので、本当に間に合っていたかどうかは謎だ。
「寿君、なにを?」
 灯が何かとんでもないことをしてしまったということは感じ取れるらしい。伯父の顔は強張っている。
「祟りだって」
「祟り!?祟りだなんて…!」
 この異様な気配をあまり感じることはないだろう総一があっさり答えると伯父は顔色を変えた。有り得ないだろうと示すその表情に久幸だけが顔を顰める。
「ここには生き物の死と無念が積み重なってますから。放っておくわけにもいかないと思いました」
 淡々と告げているがこれが尋常でないことは灯とて分かっている。しかし他に言いようもない。
「アンタなんかに祟りが出来るわけがない!こんなものでたらめだ!嘘だ!おまえなんかが私を祟りに堕とせるわけがない!」
「信じられないなら呪えばいい」
 嘘だ偽りだと言うならばやってみればいい。その結論を自らの身体で確かめれば良いのだ。
「たとえ祟りが弱く貴方をろくに束縛出来なかったとしても、もう二度とユキを苦しめることは許さない。俺が貴方を何度でも捜し出してやる。どこにいても追い詰めて、必ずアンタを引きずり出してやる!」
 あんな風に床に伏せて身体を壊し、血を吐きながら灯のために笑みを作る久幸の姿などもう見たくない。
 こんなにも我慢してきたのだ。それなのにまたあの苦しみの中に突き落とすというのならば相手が誰であっても許さない。
「俺はユキと繋がり、ユキの命は俺の命と同じだ。だから俺は今回みたいに式を使ってアンタを捜し出すことが出来る。今度は祟りなんて使わない。もっと別の方法でアンタを終わらせる」
 それが罪であっても、きっと躊躇わない。
 絞首台に載せられた女は呆然と灯を見上げていた。今すぐに刃を振り下ろしても良いのだが、その役目は女自身に渡した。
 何も自分で引き、女の命を奪うことはない。自らの手はすでに充分に穢れてしまったのだから。せめて人間の命くらいは自身に引き渡したかった。
(……終わろう)
 そう思った。
 まともに思案するのがとても久しぶりであるような気がして、灯はその場にへたり込みそうになる。けれどここで情けない様を晒すわけにはいかない。
 久幸を見ると不安でいっぱいになった瞳とぶつかった。それにぎこちないながらも苦笑を返し頷く。
 それだけで終わりは伝わった。
 久幸は女から手を離しては灯に近寄って来てくれた。
「帰ろう」
 何より言いたかった台詞を先に言われて、身体から力が抜けるのを感じる。
「いいのか?」
 総一はまだ女を拘束したまま、不服げに二人を見てきた。もっと過酷な罰をと言いたいのだろうが、すでに灯の精神力は限界を超えている。
 これ以上を望まれても応じられる力がない。
「呪えば死ぬだけです。ユキの安全は確保しましたし、それ以上のことは」
「呪えなくなったならそれでいい。灯に無茶させることの方が怖い」
 気遣う久幸に総一も渋々という顔で女から手を離した。その際に舌打ちをし「死ねばいいのに」と吐き捨てることを忘れない。
 それもまた呪いの一つだろう。
 効力はない。ただ憎悪をぶつけて死を願うことは呪いの始まりだ。
(人はみんな呪うんだ)
 耳に入り込んで来る悲鳴を聞きながら、灯は鉛のような足を踏み出して外へと向かった。


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