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 うっとりと自分のことを語る女に三人は無言だった。どんな言葉も通じない、届かない。それどころか気味の悪いものに変換されるのだと察してしまったからだろう。
 蔑みと恐怖と憎悪を受けながら女は幽鬼のように佇む。その両眼だけはぎらつき、執着を滲ませていた。
「特別な私があの人との子どもを持った方がみんなのため、あの人のためなのに。あの女が邪魔をするの。だから殺そうとしてるのにそれは駄目だっていうの。大体あの女だって、あの女の子どもだって生きてたってろくなことにならないのよ。だってあの人を苦しめてるじゃない。私が守ってあげるっていつも言ってるのに、それは駄目だって迷惑だなんて私を気遣って優しい人」
 いつ止まるのだろう。もう止めてくれ。
 そう懇願したくなる気持ちでじっと耐えていると総一が動いた。
「うるさいよ。死ねばいいのに」
 何でもないことのように片手を上げたと思ったら、ぱしんと乾いた音が響き渡る。女の頬を張り倒したのだ。
 かなり強くやったのだろう。女はよろめき、近くにあったテーブルに手をかけてようやく自分を支えた。
(すげぇ、容赦がない)
 怒りが振り切れると人はこれほど鬼気迫り、また性別など関係なくなるものか。
「女に手をあげるなんて酷い!最低じゃない!警察に訴えてやる!そうすれば貴方は犯罪者よ!それが嫌で今まで私をどうにも出来なかったくせに!」
 ぎりっと悔しさを噛み締めるような音が兄弟から聞こえてきたような気がした。
 もし許されるのならばとうに殺していたのだろう。
(こんな身勝手な思いにずっと苦しめられてきたんだ)
 謝っても許さないだろうが、こうして開き直り強硬な姿勢に出られると、感情の幅も限界を超えることだろう。
「だからあのババアを使って私を閉じ込めたんでしょう!?でもそんなことはもう出来ないのよ!ババアは死んだんだから!ようやく死んだの!もっと早く死ねば良かったのに!」
 自分の祖母をババアと呼び、悪し様に罵る姿に久幸が足を踏み出した。苛立ちは収められ、視線は女をしっかと捕らえている。妙に重苦しい決心を感じて、灯は手を取りその動きを止めた。
 いっそ黙って殺せばいい。
 そんな雰囲気が伝わってきてしまったからだ。
 久幸が手を下してしまえばここに来た意味がない。
「みんな死ねばいいのに!みんな死んでいなくなればいいのに!死ねばいいのに!死ねば!」
 女はもはや何を言っているのか分からない中身を延々叫んでいる。
 灯の耳には女の声だけでなく、別の声も全く同じ言葉を吐いているのが聞こえていた。生きていない、消えてしまった存在が「死ね」と叫び狂っている。
 部屋の四方から届いて来ては反響しているそれに頷き、灯は女の横を擦り抜けて奥へと入った。
「灯!?」
 驚く久幸の声を背後に、灯は壁際に積まれていたゴミ袋の一つを掴む。持ち上げてみるとずっしりと重い。
 意識に突き刺さる声に、自分が予想していたことが正しかったと再確認した。
「アンタはいつまで生きてるの?ちっちゃい子どもの頃からずっと呪ってるのに。痛かったでしょう?苦しかったでしょう?あんなに泣いてたもんね。背中は真っ赤に腫れた?ちゃんと文字が出たでしょう?死ねって書いたもの。私の呪い、ずっと身体に残るのよ。だから何十年経っても、貴方を呪うことが出来る。どこにいても何をしてても、私と貴方は繋がってるの。私からは逃げられない」
 つらつらと呪詛を吐いている女の声を聞きながら灯はゴミ袋の蓋を開けた。
 鼻を突くその臭い。だがまだ時間が経っていないことは見る限り分かったので、込み上げるものを堪えながらもなんとか自分の足下にそれを置く。
 背後ではぎゃあと短い悲鳴が上がった。また総一が女を叩いたのかも知れない。
「お母さんを連れてこなくて正解だったな」
「たぶんこれを見たら絶対殺してる」
「檻の中に入ればいいのにあの雌豚!」
 女は叩かれても懲りないのか、招木の母を罵ってはまた頬を張られたらしい。今度は肌を叩く音だけで悲鳴はなかった。その代わり小さな呻きになっていた。
 灯はそんな兄弟にも女にも興味はなかった。次々に積み上げられたビニール袋を開けて、中身を確かめていく。
 灯が開けるたびに部屋には異臭が立ちこめ、小さな気配が露わになる。
「……灯君。何してるの?」
 女に向けるよりかはやや優しい。けれど酷く怪訝そうな声で尋ねられ、灯はビニール袋に手を突っ込んだ。
 柔らかな感触、指に纏わり付くそれに泣き出しそうになりながらもなんとか自分を律した。
「アンタ何してるの。止めてよ臭いんだから」
 女はただ一人。この中身が何であるのか知っている。だからこそ不愉快そうにそう言ったのだろう。
 だがその台詞にすら灯は自分の精神が削られるのが分かった。
 どうしても黙っていられず、また女に突き付けずにいられずに灯はそれを持ち上げる。
「っ、それ…!」
 灯が持ち上げたのは痩せ細った猫の死体だ。腹の部分を引き裂かれ内臓が流れ落ちていく。細長い臓器がぶら下がっている様に兄弟は凍り付いているようだった。
 灯の指を汚しているのは血か、それ以外の体液なのか。もはや分からない。
 どす黒い液体が畳の上に落ちてはシミを作っていく。
「死体だよ」
 持ち上げた死体はまだ状態がましな方だ。この夏場、死体など数時間で腐乱が開始される。開けたビニール袋の中では虫がわいているものもあった。
 大体内臓がぶちまけられており、部屋に満ちていた腐臭はここからだろう。
「何この子、頭おかしいんじゃない?そんなもの持ち上げて」
 女は灯の行動に信じられないと気味悪げに告げた。
 それに灯はかっと胃の中に熱いものが渦を巻くのを感じる。
「貴方が殺した生き物の死体だ」
「そうよ。だって呪いが私に返ってきたら困るもの」
 いとも平然と、それが何かと言わんばかりの態度だ。
 招木兄弟は灯が持っているものがどんな経緯でそうなってしまったのか察知したのだろう。気持ち悪いと言いたげな顔に哀れみが浮かんだ。
「私は力が強いから。返ってくると倍以上になるの。そんなの受けられるわけないじゃない。形代だって壊すくらいの力よ。こんなの他の人は持ってないんだから」
 自分の力を誇ることは決して手を抜かない。喜々として語っている女の目に死体は確かに映っているはずなのに、どうしてそんな風に笑えるのか、灯には理解出来なかった。
「だから形代を生き物で代用したんですか」
「昔からよ。でも今は手に入れるのに苦労したわ。今って野良猫が少ないのね」
 探し回ったのよ、と手柄を褒められることを待つ言葉に返事する者はいない。
 灯には目の前にいる女が化け物にしか見えなくなっていた。
 でなければこんな風に喋っていられるはずがない。
「幾つも呪いの盾にして殺し、こんな風にゴミのように積み上げた」
「だってゴミでしょ?野良猫だって野良犬だっていたら困るから。私が代わりに殺したの。別にいいでしょ。処分する手間がはぶけたんだし」
「みんなたった一つの命だったのに」
「でもゴミじゃない。そんなの」
 大切なものだったのにと訴える灯を馬鹿にしたように女は鼻で笑った。
 それにふつりと灯の中で切れるものがあった。
 きっとそれは灯の内側だけでなく、この部屋に満ちているものの総意でもあったのだろう。
 黒く漂っていた靄が一つの固まりになっていくのを感じる。だがそれは灯や招木たちを包む者ではない。女の近くへと集中しては縄を編んでいる。
「だからおまえは分からない。だから力があるのに分からない」
 灯の目にはこんなにもはっきりと靄の形が見えている。それが勢い良く編まれてはいつでも女を縛り付けて飲み込めるように、ぐるりぐるりと回っている。
 だが狙われている女はそれが全く見えないのだろう。
 自分の目の前を暗闇のようなものが通り過ぎても何の反応もしない。
「おまえにはずっと呪いが纏わり付いている。怨嗟だ。殺された生き物の怨嗟。何十年の恨みが絡み付いて離れない」
 久幸にかけた呪いが何十年経って刻まれ残っているというのならば、女が元にも同等のものが残っている。この女のせいで死んで逝ったものは多い。
 たとえそれが人間でなかったとしても、恨みは残る。
「だから?そんなもので私に何が出来るの?可哀想だって思って私を呪うの?でも私は返せるわよ。返せるもの」
 女にとって呪いというのは自由に操れる道具なのだろう。たとえそれを他人が使ったところで手も足も出せずに翻弄されることはない。
 だからこそ灯をせせら笑う。どうせ自分より力がないくせにと蔑むのだ。
 それが女に纏わり付く怨嗟を深めることになっているとも知らず。
「自分のところに呪いが返って来たら、アンタだって私みたいに別の命を差し出すでしょう?久幸だってそうしたはずよ。何人もの祓い師が来て私の呪いを返そうとしたのを知ってる。でも返せなかった時はどうしたか、あの女とこいつが」
 それ以上女は喋れなかった。総一が女の頬をまた叩いては首を掴んだからだ。喉元を締められ声が出せず、女は藻掻いて総一の手を外そうとしているが物理的な力の強さは比べるまでもない。
 総一の顔からとうとう感情を消えていた。絶対に触れてはならない部分に女は触れてしまったのだろう。
 扼殺してしまいそうな総一に灯はもはや動揺も薄かった。自分の感覚もとうとう壊れたのかと曖昧に思う。
「総一さん。そのまま抑えて貰えますか」
 願うと総一は律儀にも女をその場に跪かせて片手を畳に付かせた。もう片手は背中に回して動けなくしている。警察が犯罪者を拘束しているかのような図だ。
 それでも尚片手でなんとか足掻く様に、久幸までも乗り出しては兄弟で痩せ細った女を無理矢理座らせている。
 圧倒的不利な体勢だというのに女の目には恐れなどなく、殺してやると言う眼差しが灯に突き付けられていた。
 それとは違い久幸は心配そうな様子で灯を探ってくる。言動がおかしいと感じているのだろう。だからこそ正気を失っている可能性も頭に入っているはずだ。
 決して安心させられるだけのものは持っておらず、灯はその瞳を視界に入れないように努めることしか出来ない。
「俺は呪い返しは受けない。そもそもこの呪いに返しはないから」
「はあ?アンタ何言ってるの?返しのない呪いなんてあるわけないじゃない。アンタ何も知らないのね。それなのに私を呪おうとするなんて、本当に馬鹿。やっぱりあの女に関わったらみんな馬鹿になるんだわ」
 高らかに宣言している女に灯は死体を持ったまま近寄った。そして跪く女の前にしゃがみ込み嘲笑するその顔を見据える。
「そう。これは正しくは呪いじゃない。祟り、ですよ」


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