13 危険な場所に自ら足を踏み入れるというのは、全身の神経が肉体の中ではなく肌の表面に付いたような錯覚を覚える。それだけ全てに敏感になってしまうのだ。 それは自然と灯が目に見えないものを感じる感覚にも直結している。 おかげで建物に近寄るたびに吐き気が込み上げてきては、頭が痛くなった。 「灯。酷い顔してるぞ」 「生まれつきだ」 「そういうことが言いたいわけじゃない」 冗談も冗談として遊びに切り替えられない。 それだけ鬼気迫るものがあったのだ。 「ユキは大丈夫か?この辺、呪いに近いような気配が漂ってるけど」 灯は靄がかかっている空気や、内臓が軋むような感じを呪いのようだと思うのだが。これは久幸も体感していることなのだろうか。それとも灯が敏感なだけか。 「まぁ多少は感じるさ。でも慣れてるから」 「なんだよ慣れって」 こんな気持ちの悪い、もしくは息苦しさを慣れで割り切ってしまうなんて。苦痛に晒されている時間がそれだけ長かったということか。 平然としている横顔が悲壮なものに見えてくる。 「僕はそういうのよく分からないけど、嫌な感じはするね」 それまで穏和な表情をしていた総一も明らかに顔を顰めている。 肌がびりびりするような剣呑さは才能がなくともなんとなく分かるのだろう。 「人気がなさそうだけど。ここにいるの?」 「そうだと思います。たぶん一階の一番奥です」 総一の疑問に灯は靄が生み出されている暗がりの部屋を見た。あそこから非常に嫌な感じがするのだ。 離れにいた時も感じていた。じっとりと心臓を舐め回すような不快感と恐れが込み上げる。 足取りが重くなり、出来れば行きたくないと本能が訴えている。夏の暑さでかいていたはずの汗は冷たいものになっており、呼吸が浅くなっていく。 「行くよ」 総一は二人ほどの恐怖はないらしく、こちらに確認を取ると躊躇いなく一番奥の部屋に突き進んでいく。 ほこりやごみが散らばっている廊下に靴音が響く。色褪せて時が止まったような壁には、取り壊し予定と書かれた紙が貼ってあった。 やはりこのアパートはもう壊れることが決まっているのだ。 住民の立ち退きが完了しているのではないだろうか。 総一は奥の部屋の前で立ち止まるとインターフォンを押した。 ピンポーンと見ている人間の脳裏には響くのだが、実際には無音でありインターフォンは機能していないようだ。 総一は数度ボタンを押したかと思うと、焦れたようにドアを叩く。 「すみません。誰かいますか?いませんか?」 無人だろうかと首を傾げる総一に、ようやくドア付近まで来た灯は「いますよ」と断言する。この中から人間の恨みだの憎しみだの、そして呪いという泥のようなものが溢れてきている。 これほど強い不快を生み出しておいて、いないはずがない。 「折内さん!いるんでしょう折内さん!」 「おりうちさん、って相手の名前?」 「ああ」 久幸と小声で喋っている間も総一はリズム良くドアを叩く続ける。 「折内さーん、招木ですけどー?」 「名乗っちゃうの!?」 「いい加減にしてもらえませんかー?怒ってるんですけどー?」 (この暢気な口調で怒ってるとか!つかこの状況でそのノリいいの!?) 友達の家に押しかけに来ました、みたいな雰囲気で喋っているのだがこれでいいのか。 唖然とする灯の横で久幸は笑い出しており、その反応にもまた驚いた。 「え、え、え?」 「そうですよー、いい加減にして下さいよ折内さーん。いくら温厚な俺でも怒りますよー」 「おまえまでそのノリなの!?それでいいの!?」 総一のノリを真似して久幸までのったりとドアの向こうに話しかけている。 緊迫していた空気はどこに行ったのか。 一人だけ困惑している灯を余所に招木兄弟は「聞いてますかー?困っているんですけどー?」とご近所トラブルレベルの声のかけ方をしていた。 だが中では久幸の声に反応した気配があった。 汚泥の固まりがのそりと地を這うような想像が頭の中に生まれる。 鳥肌が立ってはじりっと足が一歩後ろに下がった。 (近寄って来てる……) ドアに誰か、女が寄って来ている。 そしてカチャンと鍵が下ろされるような音がした。 開いた!そう灯が思った時には、すでに総一がドアノブを回してドアを蹴り飛ばしていた。 勢い良く開かれたドアのせいで、内側に立っていたのだろうと思われる人物が玄関に倒れ込む。 黒い髪が散らばっている。きっとあの女が倒れ込んだのだ。 またあれと対面しなければいけないのかという恐怖と覚悟を抱いていると、総一は土足で玄関に上がっては女を容赦なく蹴った。 「うぇ!?」 女性には優しく。手を上げるなんてもってのほか、暴力を振るうような男は生きている価値がない。 そんな風に育てられた灯にとっては目を疑うような光景だった。 背中を蹴られた女は短い呻き声を零して丸くなる。黒い長袖にデニム姿はあの日見た姿とそう変わりはない。 そして部屋の中からは酷い異臭が漂ってきている。 それは一瞬邪気だの殺意から生み出されている、普通の人間には感じられないようなものかと思った。けれど思わず口元を覆ってしまうようなそれは現実味があった。 それもそのはずで、分厚いカーテンが引かれた薄暗い部屋の隅を見ると黒いゴミ袋が並べられていた。腐臭はそこから来ている。 生ゴミらしきものは白いスーパーの袋に詰められ、傾いてバランスの悪いテーブルの上にあった。畳は色褪せ禿げており、もはや板の間であると言えるほどに殺伐したものに果てていた。 灯ならばこんなところには一日であっても生活出来ない。 だがこの女はずっとここにいたのだろう。その時点で正気では無い。 久幸も顰めっ面で「ひでぇ匂い」と呟いている。口元を覆っても耐えられない。 それに灯は唇を噛んだ。 「まだ生きてたんですねぇ。早く死ねばいいのに」 痛みに丸まった女を見下ろして、総一はそれまでとは正反対の凍り付いた声音で吐き捨てた。 侮蔑と憎しみばかりのそれは聞いているだけで背筋が凍り付きそうだ。 玄関には女だけでなく紙で作った鶴も落ちていた。よくここまで辿り着いてくれたものだ。 「招木……」 女は痛みが収まったのか、ゆっくりと顔を上げては総一を見上げた。 長い髪に顔が半分覆われている。きっと何年も髪など切っていないのだろう。 艶がないそれはただずるずると伸びているだけで、縄のようだ。 「そうです。招木ですよ。知っているでしょう?」 知らないはずがないと総一は高圧的に告げる。だが女が見たのは総一ではなくその後ろにいた久幸だった。 「招木、久幸」 女が確認するように名前を口にすると久幸は醜いと言わんばかりの目で見下す。 「死ねばいいのに」 こんなにも冷たく、また明確な殺意の籠もった声を聞くのは初めてだった。ましてそれが久幸から聞こえてくるなんて、半月前まで信じられなかっただろう。 そして兄弟揃って言う言葉は同じである。仲が良いのかも知れない。 「あんたよ……あんたが死ねばいいのに。あの女の子どもでしょう。大きく育ったね、私が見ない間に」 女は喜々として喋り始める。 ずるりと身体を引きずるように起き上がっては久幸を正面から見ようとしていた。 真っ黒でどろどろとした固まりが動いたように、灯には見えた。総一がその間に立ち塞がり、触れることなど出来ないように距離を取らせる。 「背が高いのはお父さんに似たのね。顔立ちも似ていたら殺すのは止めようかと思ったけど、でも駄目ね。あの女によく似てる」 父に似ていると言われることも、母に似ていると言われることも不快であるらしく、久幸は舌打ちをしては女を睨み付けている。隣で見ているとかなり凶悪な顔になっている。 優しげな顔立ちの人はどこにもいない。 「やっぱり殺さなきゃ駄目ね。そうじゃないとあの人と一緒になれないもの。貴方のお兄さんはお父さんによく似てるのにね。だから殺さなかったんだけど、やっぱりあの人がいいわ」 久幸だけでなく兄である総一も殺そうと思っていた、などということを他愛ないことのように喋りながら女は兄弟を眺めていた。 何を思っているのか、痩せこけて生気のない顔には笑みが浮かんでいる。 「父はおまえなぞ見ない」 総一は笑う女に気持ち悪いと吐き捨てながら突き放した。 だが女は笑みを深くする。 「あの人を初めて見た時から決めてたのよ、これが運命の人だって。でもあの女がいるから、あの人はあの女に捕らわれているの。きっと呪いか何かなんだわ、あの女は才能があるだなんてちやほやされているけど、全然よ。私のほうがずっと強いんだから」 総一でも久幸でも、まして灯でもない。壁の一点を見詰めながら女は延々喋り続ける。 誰と喋っているのか本人にだって意識はないだろう。ただ喋っているだけだ。 そしてその口調には見た目よりも幼さが目立った。実家の座敷牢に十何年も監禁されていたせいか、到底成人しているとは思えない年頃のように喋っている。 「私は特別なの」 恍惚とした声音でそう告げる女に、灯までも寒気が走って女から目を逸らした。 おぞましい。 そう感じることが生きている中にどれだけの遭遇することだろうか。少なくともこんなにも短時間で吐き気と恐怖をこれほど覚えたことはなかった。 女は自分をまるでこの世の奇跡か神様かのような扱いをしている。腐臭と暗がりの中でぼんやりと立ち尽くし、今にも朽ち果ててしまいそうな姿をしているのに。女にとってはそれが素晴らしいものに思えるのだろう。 現はもう見えない。 そう何より強く、その姿が示していた。 next |