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 灯を止めようとしている言葉を探して、だが上手く見付からないらしい久幸の困惑した顔を眺めながら、灯は持って来た鞄の中から硯を取り出した。
「何するんだ?」
「んー、ちょっとな」
 次に出したのはペットボトルだ。中には水が入っており、それを硯に注ぎ込んだ。
 適量と思われる量を入れたところで墨を硯の上で擦る。昔は習字をする前にこの作業を行うものだったが、現代ではすでに溶かされた墨を使うのが一般的だろう。
 だが灯はこの作業をしなければならない。
 一回一回、意志を込めて墨を溶かし出すのだ。
「灯。おまえが何するつもりなのかは分からないけど、止めよう」
「この作業って地味な上にすげぇ時間かかるよな。それが面倒でさ」
 久幸の制止など一切聞かず、灯はひたすらに墨を擦った。
 単調な作業は次第に腕が怠くなるのが目に見えている。それでも途中で止めることは許されない。頭の中では決められた言葉たちが駆け巡っている。
「灯」
 傍らで灯が何を思っているのか、何の目的があって墨を擦っているのか。理解出来ない久幸は途方に暮れたような声を出した。
 いつもの久幸には似合わないような情けない声に、灯はつい口元を緩めた。
 呪いに蝕まれる身体であんなに気丈に振る舞うのに、灯のやることが分からないと困るらしい。
(久幸らしくないっていうか。意外と可愛いっていうか。変な感じだ)
 このまま沈黙を続けても面白い気がしたが、ただでさえ弱っている久幸を苛めるような真似は良くないだろう。
「ユキはさ、付き合ってた子がいるって聞いたんだけど」
 自分たちの結婚の契約が知れる理由になったのが、彼女が出来たからだ。その彼女と付き合っている際に障害と思われるものが出てきたので明らかになった。
 なので久幸にも彼女がいたということだけは知っていた。
「なんだよ突然」
「いたんだろ?どこまですすんだ?」
「はあ?」
 こんな事態だというのに何故付き合っていた女の話になるのか、久幸は怪訝そうだ。
「俺もいたんだけどさ、デートしたり手繋いだりしたくらいで駄目になって。初キスしてないわけよ」
「はあ」
「しようとしたら相手が気絶して、あれショックじゃないか?そんなに嫌なのかよ!みたいな」
 そんなことを明るい口調で喋りながら、灯は手元にある墨が削られ、黒い液体が出来上がっているのを確認した。
 二の腕も手首も始めた時の倍くらい重くなったような錯覚を覚えるほどに擦ったのだ。そろそろ色濃くなって貰わなければ降参するところだった。
「ユキはした?」
「いや、あの、なんで今その話?」
 当然の問いに灯は墨を擦っていた手を止めて顔を上げた。そして意外に近くにあった久幸の唇に自分の唇を重ねた。
 驚愕したらしい久幸の身体が緊張するのが空気越しに伝わってくる。だがそれを気にする余裕はなく、灯はうっすらと開かれた唇から久幸の中にあるものを吸い上げた。
 どろりと苦く、舌が痺れて痛むそれらを飲み込む度に、吐き気が込み上げた。
 それが久幸の中に満ちていると思うと痛みに耐えられた。それどころか憤りで痛みを無視することも出来た。
 一呼吸の限界まで吸うと灯はきしみ始めた心臓を抱えて顔を離す。すぐに内臓に細い糸が絡み付いて縛り上げてくるのが分かった。途端に息が苦しくなり、舌の根に鉄の味が広がった。
(これが呪い)
 これでは会話をするのも楽ではない。それなのに久幸はそれを悟らせまいと表情を取り繕っていたのだろう。
「灯……?」
「初キスが男だと思うと切ないけど、あれだな、結婚相手だからもう他の人間とすることもないしな」
「何を、した?」
「おまえの魂の一部を吸い上げた」
 魂に触れるには相手と接触する、中に触れるのが最も簡単だ。だから口付けた。
 吸い上げるのならば口からが適切という理由もあった。
「面白いくらいに身体が痛いな。関節の節々も軋むし、内臓もきつい」
「おまえ!返せ!今すぐ!」
 久幸は灯が何をしたのか察しが付いたらしい。
 唖然としていたのに急に焦りだしては灯の腹に触れる。そこに収められたと思ったのだろう。
 だがどれだけ慌てたところで取り出し方など知らないはずだ。
「黙れ黙れ。大人しくしてろよ。これからが大切なんだから」
 灯は片手で久幸を退け、鞄の中から和紙の束を取り出す。子どもの頃は遊んだこともあるだろう折紙のようなものだ。
「呪いをこれに吐き出すんだよ」
 灯はそう言って自ら擦った墨に筆を付けて和紙に文字を連ねた。
 細かい文字は書かない。書物から読み取った最も短く簡単なやり方を取ったのだ。出来る限り手早くそれを出してしまいたかった。
「そんなこと出来るのか」
「出来るよ。おまえ今身体ちょっと軽くないか?」
「すげぇ楽になった」
「それは良かった」
 久幸の中にあった呪いを吸い取りはしたけれど、それがどれくらいの大きさであるかは分からない。だがどうやら多く吸い取れたらしい。
 これで多少なりとも体調が改善すると良いのだが。
「そうか。それで呪いを出してしまえばいいのか。呪い返しですらないな」
 感心したように灯の手元を見る久幸に罪悪感が湧いた。
 これは呪い返しなのだ。
 ただ枚数を稼ぐことによって一回一回の呪い返しの強さを抑えることが出来る。だからもし、呪い返しを更にやり返された場合でも被害は最小限に留められるだろうという計算になっているのだ。
 自らもまた危険に晒しているだなんて、まだ言えない。
 身体を蝕む呪いは一枚二枚書いたところで全く薄まりはしなかった。痛みが引くまで灯は何枚も和紙を文字で塗り潰す。ただでさえ疲れていた手が悲鳴を上げても止められはしなかった。
(この作業、思ってたよりずっときついな)
 ぎりぎりと細められていく集中力を支えているのは内臓の軋みだ。痛みで根性を叩き直しているような面があった。
「……ユキ、もし呪いをかけた女に会ったらどうしたい?殺したい?」
 招木の母ならば間髪入れずに殺したいと言ったところだろう。だが久幸は迷いを見せた。
「分からない。これまではずっと死ねばいいと思ってた。でも俺が手を下したら犯罪になるから」
 そうして招木の人々は自分たちを律して生きてきたのだろう。
 どれだけ憎くても、実際に手を出せば罰せられるのは自分たちになってしまう。だから耐えるしかなかった。
 それが一層の怒りを生んだはずだ。
「誰の手も汚すことなく、勝手に一人で自殺してくれないかと思ってる。この世にいて欲しくない」
「そうか」
 冷静な、だが明確な殺意の籠もった答えだ。
 もし自分が久幸の立場だったのならば、自分で殺してやると勢いで言っていただろう。
 久幸はやっぱり後先を考えて思案することの出来る人なのだ。
「だが今は、おまえに呪わせるくらいなら俺が殺してやるって思ってるよ」
 低くなった声は自分が与えられてきた痛みに対するものよりも深て響きで聞こえてくる。
 それだけ灯が汚されることを厭っているらしい。
 それに苦笑しながら目を伏せた。
「物騒だな。うん、でもそうだよな。死んで欲しいか」
 仕方ない答えだなと分かる。分かるけれど、一方でそうやって呪いは巡っていくのだとも思った。
(久幸を大事に思う人たちがいるように、あの女を大事に思っている人間もいる)
 娘が大切だからと座敷牢から解放した母親がいる。その母親は娘が殺されれば怒り狂い、悲しみ嘆いて呪いをかけたいと思うことだろう。
 その才能はないと聞いているが、もしあったとすれば呪うはずだ。
 憎悪は母親の中を満たし、報復が巡っていく。
 そうやって呪いは人間たちの中で継続されていった。目に見えないものは排除され、軽んじられ、消えていったのに。呪いだけは廃れることがなく力を持ち続ける。
(言祝ぎよりも強いんだろう)
 この世で言祝ぎを行っている者と呪いを行っている者の数はあまりにも差があった。それが現実だ。
「これを続けていくのか?」
 灯のやることを黙って見詰めていた久幸が疑問を投げかけてくる。
 それに「まさか」と笑った。
「これじゃ何の解決にもなってない。そりゃ、おまえと俺は魂が繋がってるから、他の人と違って口からも呪いを吸い取れるけどさ。きりがないよ」
 久幸の呪いをきちんと吸い取ることが出来たのは、魂を繋げたからだ。他の術者ではこうも簡単にはいかないだろう。
 けれどいくら呪いを吸い取り、それを吐き出せたところで現状が続けられるだけだ。
 終わりが見えない。
 それでは意味がないのだ。
 あらかた身体の痛みが取れたところで灯は手を止めた。
 そして最初の方に文字を書いていた和紙を手に取り、慣れた手順で折り始める。
「何してんだ?」
「ちょっとな。障子を少しだけ開けるぞ」
「止めろ。結界が緩むから」
 空調が効いた部屋の障子を開けると、湿気の高いむわりとした空気が外から入り込んで来る。
 呪いが入り込まないようにと封じ込められた部屋を、内側から崩してしまえば、せっかく作った結界が無駄になってしまう。久幸は灯の行動を止めようとしたけれど「駄目だ」と強引に結界を壊した。
「必要なんだよ」
 鋭く言い放つと久幸は眉を寄せて不満げな顔を見せる。だが抗いはしなかった。
 折紙の要領で作り上げたのは鶴だ。羽を広げる際、底の部分に息を吹き込んで腹を広げてやる。普通に鶴を折るだけならば必要のない行為だ。
 だが灯にとっては最も重大なのがこの作業だった。
 織り上げたそれを掌に載せて、強めに息を吹きかけて障子の外へと送り出す。
 吹かれた鶴はすぐ先の縁側に落ちる。
 そんな行為を何度も繰り返した。
 縁側には一羽、二羽、三羽と折紙の鶴が増えていった。
「灯?」
 意味の分からない行動に久幸が不思議そうな顔から不安そうな色に変わっていく。気が触れたのかとでも思ったのだろう。
 だが六羽目には、息を吹きかけた鶴が羽ばたきを始めた。
 動くはずのないそれが動いたことに久幸が呆気にとられている。
「俺はこの手の才能もあったってことだな」
 出来るかどうかは賭だったのだが。どうやら初めから完璧というわけにはいかないなりとも、可能ではあったらしい。
「なんだ、これ?」
「これを女の元まで飛ばして、案内して貰うんだ」
「そんなことが出来るのか!?」
 これまで女を捜し出そうと駆けずり回っていた招木の人を思うと、若干申し訳ないのだが、灯にはそれが出来たようだ。
「教えて貰った。母さんのツテで式遊びの人と会わせて貰ってさ」
 出来るかどうかは灯だけでなく教えてくれた人も分からない程度しか、時間がなかった。それでもやれば出来るようになるらしい。
 ここまでくれば自分の才能に感謝するしかなかった。
「それって俺にも出来るかな?」
「どうかな。練習したら出来るかも」
 久幸も特殊な血を継いでいるので、才はあるのだろう。だがそれがどんな部類のものか分からないので、式を遣えるかは分からない。
 羽ばたいていった鶴はそれでも目的に辿り着けずに落ちていくのを感じられた。途切れ途切れの意識に悔しさを覚えながら、灯は何羽も作り出す。
 最後の一枚になっても諦めるつもりはなかった。
 静けさの中で微かに羽ばたく、紙の翼の羽音だけが生み出されていく。
「……きった」
「切った?」
 ぴんっ、と意識が引っ張られる感覚。一本の糸が頭の中と繋がり視界が拓けるような気持ちになった。
 勢いを付けて呟いたので久幸が切断されたと聞き間違えて不安そうな目をした。
 だがそれに灯はにかりと笑う。
 こうして笑うのは何日ぶりだろうか。口元の筋肉が違和感を覚えるくらい、ここのところ笑っていなかったらしい。
「辿り着いたんだ。だから俺は行ってくるよ」
 折鶴がこの時間で届いたということはそう遠くはないだろう。判明したならば考えている余裕はない。今すぐ動かなければならない。
 立ち上がり中身を広げていた鞄の口を閉ざす。
「どこに?まさか相手のところか。分かったのか?」
「そう。辿れるようになったから」
「呪うのか?」
 直接会って、灯が女を呪い殺すのが怖いのだろう。
 久幸が灯の手首を掴む。ここに来て久幸には止められてばかりだ。
「それは相手を見ないと分からない」
「俺も行く」
 呪わないと約束出来ない灯に久幸は強い口調で言い返した。
 呪いを吸い上げた途端に双眸がぎらつき始めたことは分かっていたけれど、駄目だといえば灯をここに閉じ込めて行かさない強硬手段すら執りそうな顔をしている。
 剣呑な様子につい怯んでしまった。
「駄目だろ。おまえ身体ぼろぼろじゃん。血を吐いてたくせに」
「おまえを一人行かせられるか。それにこれは俺も行くべきだ。俺が一番深く関わってる」
 当人を無視して解決などしないだろうが、と言いたいのかも知れない。
 けれどこれまで自分を苦しめてきた相手を目の前にして久幸がどんな気持ちになるのか、それを思うと頷くことも出来ない。
(でも、いっそ会ってしまった方が怖くなくなるってこともあるかな)
 呪いは目に見えない。人は目に見えないものを酷く怖がる性質がある。大本を確認すれば多少なりとも恐怖は和らぐだろうか。
 判断しかねていると久幸は手首を掴んでいる力を少しだけ強めた。
「俺たちは一つだろう?」
 真剣な瞳がそう尋ねてきて、灯はあっさりと心が傾いたのを感じた。
「そんなこと言っちゃうんだ」
「言うよ」
「狡いよな。そういうの狡いと思う」
「おまえが言うなよ」
 お互い様のように苦笑されるけれど灯には身に覚えなどなく、深く息を吸い込んでは「行こう」と久幸に決意を差し出した。


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