3 はい解散! 二人を見た時に灯はまずそう言いたかった。 そこから数秒遅れてさぁとテンションが下がり、代わりに憂鬱が背中からのし掛かってきた。 (何故ここに来た……どうして来たんだ) 心の中だけでそう恨み言を連ねる。 目の前にいるのは肩までの黒髪を真っ直ぐ伸ばした三十過ぎ女性。眼鏡を掛けており大人しそうな雰囲気だ。だが随分なで肩であること、口角が下がっていること、そして何より細く尖った瞳が大人しいというより暗く、やや攻撃的であることを窺わせた。 その隣にいる男性は俯き加減で小さく座っている。表情が暗く、ここに来ることを望んでいなかったのではないかと思わせる。 その顔色の悪さと落ち着かない様子からして実に逃げ出したそうだ。 女性はそれとは異なり、期待の眼差しで灯を見詰めていた。 (あー、視線が痛い) 何を言うつもりなのか、一刻も早く知りたいという欲求が見えている。 期待されても言うべきことは厳しいことしかありませんと先に告白したい。 (うわぁ、しかもお腹に命がある) 女性はゆったりとした格好をしているが、それはお腹が膨らんでいるからだろう。 (もしかして出来ちゃったから結婚する系なのか?その選択は別に問題ないけど、でも出来ちゃった結婚は持って来ないで欲しい。言祝ぐより先に色々やらなきゃいけないことがあるんじゃないのか。現実的に) 結婚していないのならば結婚の準備や、これから出産するのだからその用意、何より心構えを。幸せになりたいと思うなら人に祈るよりまず互いに様々なことを確認し合うべきではないのか。 言祝ぎ屋などやっているというのに、灯はついそんなことを思う。 きちんと準備を整えて結婚に望む人だってあっさり離婚するこの現代、準備もなしに結婚して子どもを産むなんて大丈夫なのか。 まるで親のような台詞だが、自分が体験していないだけに不安になる。 非常に複雑な気持ちになり、ひっそりと息をつく。ちらりと久幸を見てしまったが、そこには平然としている顔があった。 久幸にはこの危機感は伝わらないのだろう。 「お二人は…あの、どういった出会いを?」 黙っていてもどうにもならない、向かい合うように腰を下ろしてはお決まりになっている挨拶を済ませた後。まずはそう尋ねた。 「友達の紹介なんです」 女性はよく聞いてくれたとばかりに喋り始める。 「友達がネトゲのオフ会で知り合った人が彼で、私が友達と遊びに行った時にたまたま会ったんですね。私はそのゲームに全然興味ないんだけど、せっかくだから一緒に遊ぼうってなって」 友達の繋がりというのはよくあることだ。 穏便でありがちな始まりであったらしい。 「彼はバンドもやってて。私も音楽に興味あったんです。私が好きなバンドが彼のバントと方向性が似てて」 そこから彼女は自分が好きなバントの話を喋り始めた。 暗いと感じた印象を払拭するように喜々として語る。高揚した様子で頬を染めて、実に熱の籠もった説明だ。眼鏡まで曇るのではないと思う。 バンドの名前を灯は知らず、どれだけ説明されても関心がないので一切頭に入ってこない。ただ彼氏の顔はうんざりと言った表情でそっぽを向いていることの方が気になった。 もう聞き飽きた。 そんな声が聞こえてきそうだ。 「それで、彼とは趣味が合っちゃって。付き合ってる内に子どもが出来ちゃったんです。失敗したって言うか」 彼女は悪気もなさそうに平然と言い放った。 失敗という表現に灯は自然と眉を寄せる。 自分が授かった命に対して失敗という言い方はどうなのだろうか。まるでいなければ良かったのにという感想すら抱いてそうだ。 彼氏はそんな彼女の発言を諫めもしない。それどころか彼女を見てもない。 この時点でどこか破綻している関係なのだと分かりそうなものだが、彼女はそこまで勘付いていないのだろう。 「それで、彼のお仕事は?」 何をしているのかと尋ねると、途端に彼女の機嫌が悪くなった。それまで好きに喋っていたというのにいきなりむすっと唇を尖らせる。随分子どもっぽい仕草だ。 「そんなことまで訊くの?」 (まだ二つしか訊いてねぇよ!) 俺が何を訊いたって言うんだ!と言いたくなるけれど仕事中なのでぐっと我慢した。 「言祝ぎって祝福でしょ?それだけやってくれればいいんだけど、なんか呪文みたいなのあるでしょ?」 これを言えば幸せになれる。言祝ぎをそんな魔法みたいなものだと思っていたのだろうか。 そんな都合良く生きていけるわけがないだろうに。 「そういうのじゃないんで。祝福というよりこれからのお二人に対するアドバイスのようなものをお渡しするだけです。彼は安定した収入がないようですが」 言祝ぐという気持ちで相手を見ると状態や気持ちが少しだけ透けて見える。 彼の結婚したいという気持ちが淡いことも、生活が安定していないことも、灯の目には見えていた。 「バイトだけど?」 まるで喧嘩を売られたと言うように彼女が棘のある声でそう言った。 ああやっぱりと思うと同時に「やっぱ解散!解散しようぜ!」と叫びたくなる。 この場で一番逃げたいのは灯だ。 彼氏よりも逃げたい。 「いいじゃないそんなの。これからまともな仕事探すし」 (遅い、遅いよ!?結婚考える前に仕事考えるだろ!) 突っ込みたい気持ちでいっぱいなのだが、生憎依頼人は友達ではない。それが悔しいところだ。 「金銭面は厳しい夫婦生活かも知れませんね」 「親が出してくれるって」 夫婦で歩いて行くのに親に頼ることが大前提だ。ありがちだが、とても頻繁に出会う事柄なのだが。それでもこの二人は危険な匂いがした。 「苦労しますよ」 もうばっさり切るか、と灯はあえてきついことをオブラートに包むことなく告げた。 すると彼女は大変気分を害したとばかりに元々釣り上がっていた瞳を更に鋭くした。 「何それ、説教のつもり?」 「そのつもりはありませんが。これからお二人は足並みを揃えて歩いて行かなければならないのですが。それが乱れているというか。他のことに気を取られる傾向がありますね」 「そりゃそうでしょ。これからだってやりたいことはやるし。子どもがいたって変わらないし」 何を言っているのかというように彼女は言うけれど。やりたいことはやる、という発言は子どもをほったらかしにしてでもと聞こえてくる。 腹の中から懇願が発せられているのも分からないのだろうか。 「お子さんはちゃんと見守って欲しいと言ってますよ」 「え、子どもの声でも聞こえるの?まだ出てきてもないのに?」 馬鹿じゃないのか鼻で笑う彼女に、もし子どもの声が表に出せたのならばと思う。 うっすらと透けているその声は、母親にもっと自分を気に掛けて欲しいと言っている。彼女は子どもが腹にいることをあまり良く思っていないようだ。食生活の乱れも大きい。 (栄養が足りてるのかな?) 多少苦しげに思えるのだが、それは母親に慈愛を求めているせいだろうか。 「少しだけ見えているだけです。元気に生まれてくるようですから、しっかり育ててあげて下さい」 「なんで親みたいなこと言うの?もうそんなの聞きたくないし。幸せにしてよ」 灯の懇願は彼女にとっては耳障りな台詞というだけのものであったらしい。溜息をついてしまうが彼女はもはやそれすら気にしない。 「幸せにして貰うのは彼にお願いして下さい。これから一生を共に生きていこうしているお相手ですから」 黙り込んで一言も口を利かない人を見るとやはり顔を背けている。まるで他人事ではないか。 自分が結婚しようとしている相手がこんな風に様々なことを喋っているのに、まるで無関心だ。 「ネットをする時間を減らしたほうが、健康にいいですよ」 そう指摘すると男は初めてはっとした顔で灯を見た。充血した瞳に目の下の隈。 完全に寝不足と眼精疲労だ。 「俺の息抜きなんです。ネットがないとか…死んだ方がましですよ」 拗ねたように言う彼の顔には、こちらも親に叱られた子どもを彷彿とさせるものがあった。 年齢からしても灯の方が下だというのに、何故こんなにも疲れを感じるのだろうか。聞き分けのない子どもを前にした教師の気分だ。 「この人ネットばっかりで全然私のこと構ってくれないんですよ。有り得ないでしょ。私妊婦なんだからもっと大事にしてよ」 彼女は灯の注意で思い出したように彼氏の方を向いては不満をぶちまけている。 睨み付けるその顔に容赦や外聞というものは一切ない。 「してるだろ。おまえも妊婦だからって一日中家でごろごろして何もしないくせに。飯食って文句言うだけじゃん」 彼女と違って彼氏は文句を言う時も口の中で籠もったような喋り方になっている。自信がない表れかも知れないが、それでも不服が溢れている。 「妊婦で動けないんだから仕方ないでしょう!」 「おまえは妊婦妊婦って!」 大きな声で怒鳴る彼女にいきなり彼も声を荒らげた。彼女が興奮したことで自分も制御が出来なくなったかのようだ。 痴話喧嘩を前にして灯は非常にげんなりしていた。 「あの、ここではちょっと」 「アンタがなんとかしてよ!そういう仕事なんでしょ!?」 「私の仕事は喧嘩の仲裁じゃありません。無理です」 矛先を向けられ、灯は腹をくくった。 これは無理だ。自分の手には負えない。 心の中で敗北を宣言すると彼女の顔がまるで般若のように歪んだ。 「じゃあなんのためにここまで来たと思ってるの!?お金まで払って、何が言祝ぎよ!私たちのことろくに何も知らないくせに説教してるだけじゃない!」 こんなの詐欺よ!ふざけないでよ!そう怒鳴り散らす彼女に灯は疲労感に溜息もつけない。近くで久幸が困惑している気配が伝わってくるけれど、申し訳ないとしか言いようがない。 「ご理解頂けず残念です。ですが私にはこういうことしか出来ませんので。ご満足頂けないのでしたら、ご依頼料は全てお返しします」 だからもう帰ってくれ。 頭をならば下げる。仕事を放棄するのかと罵られる覚悟もある。 だからこのまま引き下がり、お帰り願いたい。 (言祝いだって無理無理。意味ないだろ、この二人) もう別れる間違いなく別れる。というかそもそもちゃんと結婚出来るかどうかだって分かったものではない。 出来るだけ関わらない方が言祝ぎ屋として正しいのではないかと思うような相手だ。 灯の態度に怒りを爆発させようか、侮蔑の眼差しを送ることで溜飲を下げようか迷っている女性の姿を眺める。 (これが嫁だったら誰でも苦労するだろうな) 幸せになりたいのならばまず自分が変わらなければ。 そんなアドバイスが浮かんできたが、現状からして到底言えるものではなかった。 next |