バイトから帰ると、時刻は二十二時半を回っていた。
 夜中近くまで働くのは灯がいる以上、止めようと思っていた。
 深夜に同居人が帰ってくることで睡眠を邪魔される、というのは苛立つものだろう。それにすれ違い続ける生活はやや気を遣う。
 くぅと鳴る腹を抱えて玄関を開ける。
 バイトの休憩中に適当に飯は食べたけれど、空腹を紛らわせるためのつなぎのようなものだ。成長期をまだ終えていない身体はもっと食料を求めていた。
 食事に関してはもっぱら灯に頼っていた。
 部屋にいる時間が長いから、自動的にそうなってしまった。
 申し訳ないとは思いつつ、灯にはバイトをせずに言祝ぎ屋に専念して欲しいと思っていた。
 人の喜びに直結するような仕事を出来るということは、才能のおかげだ。誰にでも出来ることではない。
 それに灯に合っているとも思う。
 出会ってそう長くない関係だが、灯がその名前の通り明るく脳天気で、人の笑顔が好きだということはもう知っていた。
 だからその気持ちのまま、言祝ぎ屋という形を確かなものにして突き進んで欲しい。
 勝手な願いでしかないが。
「ただいま」
「おかえり」
 挨拶をすると思っていたより近くから灯の声がした。
 二人で暮らしている部屋は1DKで、奥の部屋で寝起きしている。テレビやパソコンの類も全部そこにあるので、灯は大抵そこに座っているのだが。今日は玄関に通じているキッチンにいた。
 食卓にしているテーブルの前で椅子に座って勉強しているらしい。レポート準備か何かだろう。資料を調べてはルーズリーフに書き込んでいる。
 奥の部屋にいるとついついテレビでもつけて集中力を欠いてしまうのだろう。灯が勉強をする時は出来るだけテレビもパソコンも視界に入れさせないのがポイントだ。
 見せるとすぐに逃げる。
 大学受験前に久幸が発見した特徴だ。
 それを本人にも指摘し、矯正するように何度も伝えていたので。勉強しなければならないという意識が芽生えた時にはこうして自分を隔離するのだろう。
 そして椅子に座れる場所はここしかない。勉強するのに最も適した体勢を取ってもいる。
「今日はオムライスだぜ!」
 灯はそう宣言してはレンジのスイッチを押したようだった。ピッという電子音と共に微かな起動音が部屋に響く。
 それに久幸のテンションがぐわりと上がった。
「おー、やった」
「あれ、オムライス好きか?」
 自然と声が上がったのが分かったのだろう、灯は首を傾げている。
 少し意外そうな顔をしていた。
「結構。うちも子どもの頃はオムライスとかカレーとかハンバーグとか作ってくれたんだけど。高校生になったくらいから、お子様が好きそうな料理が減ってさ」
 小学校の給食で人気のメニューになるだろう献立の類は、幼い頃は家でもよく食べていた。
 花の形をしたニンジンがカレーに入っていたことをよく覚えている。
 しかしそれは久幸の身体が育つのに合わせたように、料理ごと減ったものだ。
「最近じゃ煮物とか、薄味お出汁系にシフトしてさ」
「あー。ぽいぽい。おまえん家お出汁の文化だろ」
「そうなんだよ。それも好きだけど、好きなんだけど俺まだ成長期なんだけど?って。育ち盛り食い盛りなんだって」
 そう思ってはいたのだが。母はきっとお子様料理はあまり好きではなかったのだろう。
 けれど久幸が好んで食べるのでそれを意図的に増やして料理していたのだ。
 だが「そろそろいいか」と思う頃合いがあったらしい。
(俺としてはもう少しその決断を遅らせて欲しかった)
「子ども舌って馬鹿にされそうであんま言わなかったけどな」
「我慢すんのかそこ」
 灯は母親に対して遠慮して望みを抑えるというのが共感出来ないのだろう。驚いたように言われて苦笑する。
「たまに吹っ切れたみたいに肉ばっか出る時もあったし。わざわざ言うほど食いたいわけでもなかったんだよ」
 そんな我が儘を言うことでもなかった。
 とても他愛ない、日常の些末なことだ。
 それよりレンジの中でくるくる回るオムライスの方がよほど特別なことに思える。
「おまえ料理の幅広がったな」
「毎日作ってるしな。つかオムライスでそこまで喜ばれると思わなかった」
 少し照れたように笑いながら、広げていた教科書を閉じる。そこでストップして良いものなのだろうか。
「レポート?」
「そうそう。意味分からない。どー考えてもさっぱり無理。資料とかどっかから持って来たらいいのかな?」
 文系の学部に入った灯は、どうやら資料無しでレポートに挑んでいるようだった。教科書で無理だと思ったら、普通は悩む前に資料を探すものでないだろうか。
「大学の図書館とか行けよ。そこに資料とかあるだろ」
「そんなのどこにあんの?」
「いや、場所くらい調べろ。おまえが通ってんだろうが」
 何故通っている先の大学の大まかな見取り図も把握していないのか。久幸には信じられないようなことだが、灯は「知らん」と一言で終わらせた。
「つかこれ近代文学だろ。おまえが頭の中で悩んでも無理だろ」
 数学の公式を元に答えを求めるようなものではないのだ。
 知っているか知っていないか。それが大きな鍵になるだろう文学の問題に対して、何も持たずに挑む方が無謀なのだ。
 第一段階からして躓いている。
「もー、俺現国そんなに好きじゃないんだよ!でも仕事の役に立つかもって選んだんだけど、単位取れんのかな!?」
「おまえの努力次第だろ」
「なんでユキは俺と同じ大学に来なかったんだよ!」
「行くわけないだろ。なんで俺がランク落とすんだよ」
 これでも自分なりに日々努力してもぎ取った合格である。ここまで上れるはずだと地道に勉強を積み重ねてきた。それを捨ててまで何故灯と同じ大学に行かなければならないのか。
 目標を落とすこと自体久幸には考えられないことだ。
「むしろおまえが来いよ」
「俺がこれ以上勉強出来るわけないだろ!」
「全力で胸を張るな」
 そんなことを言っているとスマートフォンがメール着信を告げた。それを待っていたかのようにレンジまで任務完了の音を立てるのでついどっちを優先するか視線が彷徨う。
 灯はそんな久幸を察したのか、レンジに寄って行ってくれたのでそれに甘えてメールを確認していた。
 メールの返信を打ち終わってテーブルを見ると、ケチャップで文字が書かれたオムライスが置かれていた。
「LOVE」と書かれているそれをしばらく凝視していると、灯が耐えきれないとばかりにぶふっと吹き出す。
「奥さんに対する愛が込められているだろ!」
「籠もりすぎてEがはみ出てんぞ」
 文字はバランスが悪く、Oの時点でオムライスのスペースはほとんど無くなっている。おかげでEは零れ落ちてしまっている有様だ。
 後先考えて行動しない灯の性格がよく出ている。
「まぁ、ありがとう」
 流しの近くに置いてある棚からフォークを取り出し、オムライスに突き刺す。ちょっとケチャップが多いのだが、作って貰った分際で文句は言えない。
「投げやりだなぁ。もっと心を込めて感謝しないと!」 「俺ノ嫁ハ最高ダヨ、ヨク出来タ嫁ダヨ」
「棒読み過ぎるだろ!最近の機械の方がまだ上手く発音するぞ!」
 灯に怒られながらもオムライスを口に入れる。チキンライスの味付けは久幸が知っている味そのものだった。
 勉強は苦手だが、料理の腕はめきめき上がっている。
「もっとねぎらいの言葉をかけないと、熟年離婚の原因になるぞ!」
「熟年まで一緒にいられたら御の字だろ」
 一体何年後の話だと思っているのか。それくらいまで同居を続けていられたのならば、むしろよくやったと言われるべきだろう。
 結婚を視野に入れているのならば死ぬまで共に、と誓わなければならないかも知れない。だが実のところそれ以前に別れる人々がどれほどいることか。
「灯は、言祝ぎの時にこのカップル絶対別れるだろって思う時とかあるのか?」
 夫婦の誰もが相性最高でいるわけではないだろう。中にはすぐに別れる夫婦だっているはずだ。そんな人物に巡り会ったことはあるのだろうか。
 素朴な疑問に灯はけろりとした顔で「あるよ」と軽く答えてくれた。
「もう絶対無理だろうなってカップルだって来るよ。もう見た瞬間解散!って叫びたくなるような時がある。もう明日別れてもおかしくない、お互いなんか爆弾抱えてるだろ。つかなんで結婚しようと思ったの?って思うような二人とか」
「そういう時どうするんだ?灯に祝福して貰うために来てるわけだろ?」
 まさか別れろと言うわけにもいかないだろう。祝福だけを求めているいる相手にどう接するのか。
「そりゃ、おまえらは結婚してもすぐに別れるから止めておけとは言えないし。適当に誤魔化すよ」
「どうやって?」
「お二人の道は困難が多く、乗り越えるのが難しい壁が幾つも立ちはだかっているでしょう。手に手を取り共に幸せになるためには多大な努力をうにゃうにゃ」
 もう最後は喋るのが面倒になったのだろう。口元をもごもごさせて言葉を濁して無理矢理フェードアウトしている。
 本番はそれらしいことをまだまだ続けなければならないのだろう。そう思うと大変だ。
「それ言ったらキレる人とかいるんじゃないか?」
 困難ばかりだなんて冗談じゃない。もっと幸せになれるようにしろ。それくらい現代人は理不尽な要求をしそうだ。
「まー、いるけど。でも事実だし。どれだけ言祝いでも限界はあるし。納得して貰えなかったら金を返す」
「返すのか」
「満足して貰わないと仕事として成立しないんだよ」
 そう苦笑する灯に言祝ぎとはとても難しい仕事なのだと再確認させられる。相手が満足しなければ仕事にならない、相手によってその満足という度合いも異なってくるというのに報酬は相手任せだ。
「きついな」
「いや、別れるって分かってる夫婦の言祝ぎをして俺の評判が悪くなったら困るし。そんなことになるくらいなら金を返す」
 灯は仕事に関しては、普段から少し意外なくらいに割り切りが出来ている。評判を頭に入れて仕事をするタイプだなんて、言祝ぎ屋の様を見るまでは半信半疑だったかも知れない。
 言祝ぎに関しては真面目で結構ドライだ。
「でも出来るだけ長く、幸せになって欲しいとは誰に対しても思ってる。そのための努力を俺だってするよ」
 別れると分かっている相手であっても、祝福したいという気持ちは消えないらしい。
(無駄だって俺ならどっかで思うだろうな)
 どうせこの労力は意味のないものになる。そう思うだけで仕事をしたくないと思うはずだ。
 だが灯はそれでも尚、頑張ろうとするのだろう。
 その姿勢は見ている者が思う以上に苦痛ではないだろうか。
「ただ夫婦っていうのは長い付き合いだろ。俺は言祝ぐその時だけの関係だけど、二人はずーっと努力を続けて行くわけ。そうなるとやっぱり最初から別れそうな二人っていうのは厳しいよ」
 まだ結婚していないどころか成人すらしていない灯が言うには、あまりにも似合わない台詞だ。だが間違ったことは言っていないのだろう。
 久幸もまた灯と同じ立場なので漠然と感じるしかないが、自分の両親を思い出すと確かに夫婦とは外から見るよりもずっと複雑でなかなかに簡単ではない。
「溢れるくらいの愛がないと、夫婦を続けていくには色んなところで無理が出る」
「じゃあうちは大丈夫だな」
 愛溢れすぎたオムライスはすでに一口も残っておらず、久しぶりに食べられた満足感に手を合わせた。


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