夜になってとうとう灯の意識は飛んだ。
 問題集を前にしても、頭が全く働かなくなったのだ。
 ぼーっとしているので久幸に叱咤されるのだが、それに対する反応も曖昧で仕舞いには掌を額に当てられてしまった。
「知恵熱か?」
「俺は幼児か!」
 そんなやりとりをしながらも、身につかないのならばやっても無駄だと早めに勉強を切り上げた。
 久幸の家では深夜近くまでやっていたので、九時に終了するのはかなり早いだろう。
 しかしそこからクールダウンとして漫画を読むだのゲームをするだのは許されなかった。
 入れた知識を早く脳に染み込ませろ、とばかりに就寝を促された。
 灯は普段ベッドで寝ているが客人である久幸を床に寝かせるのも悪い。しかし久幸は久幸でベッドで寝るのは灯で良い。自分は遠慮するといってきかない。
 妥協点ということで二人して床に布団を敷いた。
 そんなに広くない灯の部屋は二人分も布団を敷くとかなりの面積を占められる。
 久幸の寝相が悪かったらきっと蹴られたり叩かれたりするのだろう。それは嫌だなと思いながらも薄暗い部屋の中で天井を見上げる。
 久幸の家で眠った時は勉強を詰め込み過ぎて、力尽きるように寝たのであまり意識していなかったのだが。後数ヶ月もすればこうして久幸と同じ空間で寝るようになるのかも知れない。
 まだ何も知らない。出会ったばかりの相手だ。
 勉強を教えるのが上手くて、馬鹿は嫌いで、実家は金持ちということくらいしか知らない相手がもうすぐ同居人だ。そしてゆくゆくは兄弟になるかも知れない。
 不思議な気持ちだった。
「…同居とかさ、出来んのかな」
「おまえが受験に合格したらな」
 突き刺さるような言葉に灯は「うぅ」と呻いた。そうだ、きっと一番の問題はM大に合格するかどうかだ。
 そうでなければ久幸が行くだろう大学とR大は遠すぎてどこに住所を置くのか揉めることだろう。
「失敗したとしても同居はするよ」
 遠くなるのは面倒だと言いながらも、久幸は灯と同居することはもう決定事項としているらしい。
 二人並んで仰向けになって、この人とこれから生きていきますなんて欠片も実感なく流されていく。
 久幸が優しいことは分かるけど。でも他にどんな面があるかは分からない。久幸だってそうだろう。灯のことは馬鹿だということくらいしか知らない。
「おまえは、嫌じゃないの?」
 馬鹿は嫌いだろうに、灯は間違いなく馬鹿者だ。だからこそ、ここまでわざわざやって来て勉強を教えているのだが。辟易しないのだろうか。
「嫌じゃないよ。灯は嫌なの?」
 上を見ていた久幸が身じろぎをした音が聞こえて、灯は横を見た。何の迷いもないように見える瞳がそこにあって、灯は自分が揺らぐのを感じた。
「分からないよ……」
 久幸のことは嫌いじゃない。むしろ良い人だと思う。友達にだったらきっとなれる。
 でも結婚するなら?兄弟なら?これからずっと一緒だと言われたら大丈夫だなんて言える自信はどこにもない
 それどころか同じ家でこれから家事のことや、生活スタイルのことできっと摩擦だってあるだろうに。もう嫌だ!と叫ばないでいられるかどうかも灯には分からないのだ。
「うちは母さんが口うるさいし、大学は遠いし。家から出るのは平気だけど。他人と同居とかしたことないし。喧嘩しないでいられるか」
「喧嘩くらいするだろ」
「すんのかよ!」
 したくないと思っているのに久幸はあっさりとそれを「するもの」として喋っている。なんとか回避しようとするのではないのかと、面食らってしまった。
「すると思う。家族だって喧嘩くらいするだろ。まして他人なら喧嘩するって。でもそれでいいじゃん」
「いいの?」
「仲直りするように努力するだろ?」
 難しいことなんてどこにもない。久幸はそう思っているのだろう。
 軽く告げたことに灯は「そうだけど…」と迷いながらも同意はする。
 だが家族なら許して貰えるという甘えがどこかにある。けれど他人同士ではそんな甘えは通用しないだろう。
 そしてお互いがどう踏み出していいのか分からなくて、傷付けたことだけ積み重なって身動きが取れなくなるのではないか。
 想像するだけで怖くなる。
「駄目だったら?どうしても許せないことが出たら?」
「もしそうなっても別れることは出来ないだろ。死にたくないし」
 だからといって死にたくないから、嫌いな人間と同居して共にいるなんて苦痛ではないのだろうか。
 不幸そのものというような光景に思えて、灯はこれからの未来が恐怖に彩られているような錯覚に陥る。
「おまえはそういうの怖くない?」
 久幸があまりにも平然としているので、自分はもしかして臆病なのだろうかと不安になるくらいだ。
 しかし考えるまでもなくこれからの人生が壊れていくかも知れないことに、恐怖を覚えない者などいないはずだ。
「怖くないよ。俺はもっと昔に死ぬかも知れなかったから」
「えっ」
 大したことないような口調で言った久幸に、灯は驚きの声を上げては改めて久幸を見た。
 そこには翳りもない、ただ少しばかり苦そうな表情があった。
「子どもの頃は身体が弱かったって言ったけど。一時マジでやばくてさ。その上俺はちょっと問題抱えてて。おまえと結婚の契約してなかったら死んでたかも知れない」
 目の前にいるのは健康そのものという男だ。それどころか体格も悪くなく、命が危ぶまれるほどの弱々しさがかつてあったなんて予想出来ないほどの強さが滲み出ている。
「マジか…。でも俺との結婚が関係すんの?」
「おまえの契約は強い。おまえと結婚するまで俺は死なないように延命を約束されたんだろ。あの後身体は持ち直したしなんとか問題も解決したし」
「そんな役割もあったんだ」
 結婚するという約束は、それまで久幸の命を保たせるという作用までしていたらしい。
 見方を変えれば子どもの拙い結婚の誓いは役立ったのだろう。
 だから久幸は見合いの席からずっと灯に対して優しかったのかも知れない。
「今は健康そのものだよ」
「そうだよな。どっからどう見ても元気だよな。俺より丈夫そう」
 身長も久幸の方がやや高いだろう。身体付きは言うまでもない。
 灯も運動は嫌いではない、むしろ好きな部類だが身体を鍛えるという感覚はなく楽しければそれでいいというスタンスだ。
 それに比べて久幸は身体を鍛えている印象がある。
「空手で全国出たしな」
「すげぇ!」
「三位だったけど」
「充分だろ!つか全国三位!?何それ!」
 全国大会に出たというだけでもすごいものだが、三位だなんてオリンピックなら銅メダルだ。優秀金メダルまであとちょっとだ。
 日本の中で三番目という順位が灯には縁のなさ過ぎるもので、久幸を見たまま固まってしまった。
「すげー、こんなところに日本で三番目がいる」
「おまえはなんかやってないの?」
「俺?弓道はやってたけど大会とか出たことないしなー。破魔矢が使えたらそれでいいし」
 良くないものを打ち落とし祓うために、弓道は嗜んでいる。あくまでも射ることだけが目的なので大会だの競い合うだのには興味がなかった。
「なるほど、破魔矢か。おまえには要るかもな」
「まあな。それにしても空手三位の嫁か…逞しいな。つかごついな」
 うちの嫁は空手がすごく強い男です。
 そう思っただけでもはや嫁ではない何かだろうとしか言えなくなった。
「嫁でも婿でもさ。俺をここまで生かしてくれたおまえと結婚するなら、俺はすぐにはいって言うよ」
 そう言って久幸は微笑んでいる。死ぬよりましだということをすでに体験したから、そうして笑えるのだろう。
 のほほんと平和に生きてきた灯には出来ない判断だ。
「俺は男だし。どんな人間なのかも分からないのに?」
「性別はどうしようもないし。性格はまだ若いんだからこれから矯正出来るよ」
「性格叩き直されんの!?」
「必要なら?」
 いやいやすでに必要とされてしまいそうですが。という怯えを抱くと久幸は灯の顔が面白いとばかりに目を細めた。
「ずっと憧れてたんだ。おまえと結婚出来ること」
「……そう、なのか?」
 小さい頃に結婚してくれと迫ってきた女の子に憧れるというのも、そう悪くない夢なのかも知れない。ましてその子のおかげで命が長らえたと思えば気持ちも深まることだろう。
 現実はシビアだったけど。
「付き合ってくれって言われた女子に、強引に彼氏にされてもすぐに別れようって思ってた。だからおまえとの契約の効果がありがたかった」
 そう言う男はモテるのだろうなと思う。空手三位だし見た目は格好いいし性格も良さそうだ。
 告白してくる女子も多いことだろう。中学生の時に一人だけ告白してくれた子がいた後はさっぱり恋愛とは関わりのない灯とは違う。
 あの契約の効果に灯はしばらく泣き暮らした。もう思い出でしかないけれど、久幸のようにありがたかったなんて永遠に言えそうもない。
 しかしどれだけモテたとしても、憧れだった女の子は頭の出来が残念な男子高校生だ。
「ずっと憧れだった相手が俺でごめん。可愛い女の子だって思ってただろ?」
「謝るなよ。それなら俺だって謝らなきゃいけない。可愛い女の子だと思い込んでたのはお互い様だろ。ごめんなさいは別れる時に言ってくれよ。その時はたぶん死ぬけど」
 それはこの先も言うことは出来ないということになるのだが。
「別れたらマジで死ぬのかな?」
 周囲は死ぬ死ぬと言うけれど、五歳児の契約にそこまでの力はあるのだろうか。
 自分には言霊の才能があるとは知っているけれど、結婚出来なければ死ぬというほど強固なものだろうか。
「俺の家ではそう言われてた。おまえ逸材らしいな」
「まー、らしいけど」
「言祝ぎ程度ならともかく自分の名前をかけた契約なら死ぬ、もしくは命は助かっても満足に生きていくことは出来ないだろうっていう考えだよ。だからするべきじゃないって」
 招木の家もそういう方面に詳しいので、灯の才能をある程度は計れたのだろう。
 かくいう我が家も灯の能力はあまりにも簡単に生死を左右するので、自分の命など賭けるなと言われていた。
「後の祭りだな」
「そうだろうな。あの時おまえも俺も名前を差し出したからな」
 自身をかけて契約を結んでしまった。後戻りは出来ない。
 後悔などしても手遅れなのだ。前に進むという道しか二人には残されていない。
「とりあえずもう寝て頭を休めろ。そして成績を上げろ。話はそれからだ」
「…おまえあれだよな。俺がアホだってことはどうしても許せないんだな」
 成績だの勉強だのになると久幸の表情が厳しくなる。もうどうしてもその部分だけは受け入れないと顔が言っているようなものだ。
「おまえに対しての不満はそれだけだからな」
 それだけ、と言われるのだが、それがすごく大きな問題であることを灯は身をもって知っているだけに「すんません…」と小さく謝罪しながら居心地悪く布団に潜った。


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