招木の家に泊まっていた三日間は、寝ているか食べているか勉強しているかだった。
 休憩時間は何をしても良い、ただし逃走を除く。となっていたのだが気力を根こそぎ奪い取られていたので積極的に行動することもなく。ぐったりと力尽きていた。
 途中で久幸と出掛けたこともあったのだか、近所のコンビニだの本屋だの。気分転換になっているのかなっていないのか分からない。気を抜くと口から覚えたばかりの英語の例文が出てきそうだった。
 あんなの覚えてなくても生きていくのに困ったりしない。困るのは受験の時だけだ。
 だがそう文句を言うと「受験の時困るってことは、人生の転機に困るってことだろうが」と久幸には諭された。
 冷静すぎて悔しい。
 しかし三日間みっちり勉強したにも関わらず、最終日に久幸の口から出てきたのは「全然足りてない」という非情な言葉だった。
 これまで手を抜き、好き勝手に暮らしていたので、たかが三日で何が出来ると言われるとごもっともだったのだが。灯にとってはなかなかにきつい一言だった。
 そして勉強会は続行されることになった。
 毎回久幸の家となるとさすがに迷惑だろう。ということで次は灯の家になった。
 両親も久幸がどんな人柄なのか知りたいようで、是非ともうちでと快諾してくれたのだ。
 前のように三連休を待っている余裕はない。普通の土日を使おうということで。一泊二日で久幸はうちにやってきた。
「狭いぞ」
 駅からそう遠くない灯の家まで歩きながら、散々狭い、古いという話をしておく。久幸の家に比べると鼻で笑われそうな、普通の一軒家なのだ。
 母の実家は久幸の家ほどではないかうちよりずっと広い。けれどうちはごくごく平凡な家庭なのだ。
 分かっていると言いながらも内心狭いと思うんだろうなー、と思いながら自宅まで案内すると「狭くないじゃん」とむしろ呆れられた。
 連呼し過ぎたらしい。
 しかしハードルというのは下げて置いたほうが後々が楽になるだろう。お互いのことに関しては知れば知るほど落胆する、という事態になるとまずい。なんせ顔合わせた時点で両親を絶望させたくらいだ。
 まぁ灯はその頭の悪さですでに久幸を地獄に叩き落としたようだが。
「いらっしゃーい」
 家に戻ると母が笑顔で出迎えてくれる。笑顔過ぎて作り物であることは息子にバレバレである。
 しかし久幸はにっこりと自然な微笑みで「お邪魔します」と挨拶しており。どちらが上手であるのかは一目瞭然だった。
 招木の母が「外面がいい」と言うだけはある。
 母に怒鳴られながら一生懸命掃除した灯の部屋は、久幸と同じく二階に設置されている。ぱっと見は綺麗に片付けられ久幸の部屋と変わらない程度の整頓は出来ているだろう。
 だが全てはクローゼットの中にもみくちゃに押し込まれており、そこを開けると一発で駄目っぷりが露呈するという。とても付け焼き刃なものだった。
 久幸の目がある内は決して開けられない。
 母は久幸を歓迎し、おやつだの何だのと持って来ながら実の息子に逃げないように威嚇して行った。
 この馬鹿の頭をなんとかして貰えるのならば、気に入らない招木の母の息子だろうが誰だろうが構わないと思っているようだった。
 それに久幸は行儀がよい。母に始終笑みを浮かべて柔和な態度で接している。好青年なのは顔だけではないと立証しているようだった。
 久幸と比べられると出来の悪い息子というレッテルを貼られるのは間違いないだろう。
 自宅だというのに久幸の家にいた時と変わらず、ずっと机に張り付いては頭がショートするまで勉強をする、という詰め込み型に親は驚いたようだが。母が威嚇などせずとも逃げられないだけである。
 灯の勉強を見る片手間のように久幸は過去問題を開いており、その余裕に歯ぎしりしてしまう。
「手が止まってるぞ」
「なんでおまえはそんなに余裕なんだ……」
「これまでずっと積み重ねてきたからな。つかはっきり言うけどここまで来ていきなり焦り出す奴なんておまえくらいだよ」
 追い込み時期だぞ、と冷ややかな目を向けられて机に突っ伏した。
 理解しているとも。手遅れな時期だということくらい。
 だから手遅れでも行ける大学に入ろうとしていたのに、全力でそれを阻止してくるからこんなことになっているのだ。
「おまえの方が早く受験終わるんだから。もっと必死に頑張れよ」
「もう必死です。洗脳されてる気分です」
 呻くように言うと「洗脳して頭が良くなったらいいのにな」と溜息まじりに言われて、こいつは鬼かと思った。
 歯ぎしりをし、心の中で涙を流し、頭の働かせすぎで口から煙を吐きそうな灯の唯一の救いが、晩御飯の時間だった。
 母が「御飯よ」と部屋に呼びに来てくれた時にはいきなり立ち上がり「はい休憩!飯飯!」と欲望にまみれた台詞を吐いて母と久幸に刃物のような視線を向けられたくらいだ。
「……なぁ、冬場にお客さんと飯食うってなったらすき焼きが定番なのかな?」
「まぁ、そうかもな」
 一階のリビングに下りていくと、そこにはいつかのようにすき焼きの鍋がどーんと置かれていた。
 同じ釜の飯を食った仲。という言葉はあるけれど、鍋物を共にするのも親密さが上がるものだろうか。
 あっちでもすき焼きでした、などということは欠片も零すことはなく二人は大人しく席に着く。招木の霜降り肉とまではいかないながらも、うちも相当に良い肉を用意しており。かなり奮発したことが窺える。
 いつもの特売の薄い肉ではまずいと思ったのだろう。招木と張り合っているのか、ただ歓迎する気持ちの表れか。
「やっぱりすき焼きはいいよな、美味いもん。俺すき焼きが一番好きかも」
 招木の家ほどではないが、と心のだけで付け足す。とてもではないが口に出すことは出来ない。出したが最後この家で永遠にすき焼きは食べられないことだろう。
「そのすっかすかな頭にこの肉でも詰め込んでおきなさい。そしたらもう少し賢くなるかもね」
 母はそう言いながら灯の持っているお椀に肉を入れてくれる。言っていることは辛辣だがやっていることは嬉しいことなので聞き流す。
「久幸君もいっぱい食べてね。この子ほっといたら全部食べちゃうくらい欲張りだから」
「ありがとうございます」
 母は久幸の椀に山のように具材を入れる。そんなに入れるなんて灯に対する牽制だろうかと勘ぐりたくもなるが。何を言われようが腹が満ちるまでは全力で食べるつもりだった。
 招木の家では遠慮していたが。ここで遠慮をする必要もないだろう。母が聞けば怒鳴られそうだが。
「久幸君のおうちはお兄さんのいらっしゃるのよね?」
「はい。兄が一人います」
 母はすき焼きを食べ始めて少し落ち着いた頃にそう切り出した。あの子の家にはお兄さんが居て跡継ぎはもう決まってるのに!と見合いの後に憤っていたのをよく覚えている。
 きっとそのことが言いたいのだろう。
「ご結婚されて家業を継がれてるって聞いたんだけど」
「そうです。とは言っても小さな企業に収まってます。大したことありません」
 招木の家の大きさを思うと大したことないというのは、庶民感覚に合っていないような気がする。
 それは母も同じ思いなのか複雑そうに苦笑していた。
「お母様のご実家はどなたが?」
「母の兄が継いでます」
「うちと同じね」
 母親同士の境遇は割と似ている。実家が神社で兄が後を継いでいる。違うのは、うちの兄弟構成だ。
 久幸は次男だが灯は長男である上、姉はすでに嫁いで家から出てしまっていた。
「お兄さんが家業を継がれているなら、久幸君はうちに来てもいいかなぁって思ったことない?」
「母さん」
 招木の母が頑なに断り、火薬庫のごとく触れるのが警戒される事柄にそうも簡単に突っ込んでいくのか。さすがにまずいと灯が制止する声を出してしまう。
 久幸は微笑んだまま答えはしない。
 即答出来るようなことではないと理解しているからだ。灯がその立場でも沈黙を守ることだろう。
「だってうちは灯が跡取りなのよ?あんたが養子に行ったら誰が後を継ぐの」
「だからって本人に言うなよ。そういうのは後でいいだろ。また揉めるぞ」
 久幸個人で決断出来ることじゃないだろうに、本人に突き付けるのは卑怯だ。いくら招木の母が強敵でも久幸を盾にするようなやり方は納得出来ない。
「だって大きな問題よ?」
「問題って言うけど。跡継ぎ跡継ぎって俺は何を継ぐんだよ。神社は叔父さんのもんだろ」
 我が家で相続するべきものはこの一軒家と財産くらいのものだ。それは跡継ぎだの何だのと騒ぐような中身ではないだろう。
 すると母は何を言っているの、と言いたげな顔をした。
「言祝ぎ屋よ」
「それって家業ってほどのもんじゃないだろ。つか継ぐとか継がないとか言うけどもう一回断絶してんじゃん」
「断絶してないわよ。ただ商売として大々的にやるには弱いから隠すようになっただけで」
 それを断絶と言うのではないのか。
 灯はそう思ったのだが母は強固なまでにそれを否定するのだ。
「あんたは出来るんだから、それを全面的に押し出してまた家業にすればいいじゃない」
「でも面倒じゃん言祝ぎ屋って。曖昧だし後々文句言われそうだし。独立してやるのはどうかと思う。片手間くらいならいいかも知れないけど」
 将来の見通しの不透明さをあれこれ喋っていると、それまで聞いているだけだった久幸が手を上げた。
 口を挟む隙間が見付からなかったのかも知れない。
「その、言祝ぎ屋っていうのは商売としてやってきたものなんですか?」
 うちでは通じる話題であったが、あくまでも他人である久幸には何のことやら分からないのだろう。置いてきぼりにしてしまったらしい。
「言祝ぎ屋っていうのは、分かるか?」
 顔合わせの時には不可解そうな顔をしていたのだが。今はその単語自体を疑問に思っている雰囲気がなかった。
「ある程度は調べてきた。人を言葉で祝うんだろう?」
「ざっくり言うとそうだな」
 言祝ぎ屋は言霊遣いが行う、他人を祝福する行為。結婚式などで幸いを祈り、門出を祝う言霊をかけて、結婚する二人が幸福になるように願うのだ。
 あくまでも願いの領域であり大した効力はないのだが。それでも言霊遣いがやると結婚した二人の別れる確率が激減するらしい。
 幸福の度合いも違うという噂があり、言祝ぎ屋は昔繁盛した。
 だが言霊を遣える者が減ってしまい言祝ぎ屋は機能しなくなった。叔父も多少はそれが出来るらしいが気休め程度であると嘆いていた。
 もはや廃れてしまった家業だ。
「まぁ仲人さんみたいな役割が多かったけど。結婚する時に言祝ぎ屋に祝いを貰うと家庭が上手くいく、長続きするって評判でね」
 母は誇らしげに語る。自分にその才がないことを酷く気にしたらしいので、灯に才能があることがとても嬉しいらしい。
 だからといって箱入り息子で猫かわいがりしないのが母の真っ直ぐな気性である。
「呪術師の一種、というわけですか」
「そうね。言い換えれば呪いとも言えるわ」
 呪いと言うとおどろおどろしいイメージだが。それは祝いにも変換出来るのだと灯の血族は知っている。だからこそ言葉の大切さも重みも、そして怖ろしさも感じていた。
「ただ祝いの言葉だから呪いみたいに強い拘束力はないし、失敗した場合代償として何かを奪われるってこともない。第一祈りみたいなもんだから失敗っていう概念もないんだけどな」
 呪いならば相手に通用しなかった場合、相手に防がれた場合は呪いが術者に帰ってくる。しかもその際はかけた呪いがそのままではなく倍増して戻ってくるのだ。
 人を呪うということは、自らを呪うことに等しい。
 それを思うと言祝ぎ屋という形は灯の才を生かしながらも、命を守ることが出来る家業ではあった。
「験担ぎみたいなもの。時代が変わったから昔みたいに繁盛するかどうかは分からないけど、力が戻ったって聞けば欲しがる人はいるわよ。同業者とかね」
 同業者と言われ灯はこの特殊な才や生まれの人間が、その血や才能を後世に残すために、政略結婚を行うという時代錯誤のやり方を思い出した。
 テレビの中だけの話に思いがちだが、特殊な一族ではまだ当然のように行われていることだ。
 だがいくら政略結婚だからといっても子どもさえ産まれれば良いというものではない。せっかく結婚するなら仲睦まじく、そうでなくとも諍いのない間柄でいたいと思うのは自然なことだろう。
 そのため言祝ぎ屋に祝いをさせ、なるべく円満な家庭を作ろうとするところもある。
「まぁお守りみたいなもんだけど。少しでもそれで幸せになれるんだったら、いいなって思うよ」
 人が悲しむより、嬉しそうにしている方がずっといいに決まっている。見ていて心地良いのはやはり笑顔だ。
 ならば笑顔が増えることをしよう。自分のためにも、人のためにも、幸せを増やそう。
 そんな単純でありながらも困難な思いを、灯は叶えることが出来る。だからこそ言祝ぎ屋という胡散臭い商売を継ごうかと思っているのだが。
 怪しさ満点の家業を久幸はどう思うだろうか。招木の家も特殊ではあるらしいがうちほどではないだろう。
 ちらりと横を見ると久幸は「そっか」と頷いていた。どこか嬉しそうに見えるその横顔にほっとするけれど、慎重な生き方をしそうな人なのに拒絶感はないのかと少し意外だった。


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