今度の三連休は予定を開けておくからこっちに来い。いいから来い。泊まりで来い。勉強道具一式と最新の模試の結果も持って来い。黙って来い。
 そう携帯電話で脅迫され、灯は新幹線に乗って久幸の家に向かった。
 勉強なんてしたくないと泣き言が許されるはずもなく、灯に勉強をさせる久幸の姿勢は両親も高く評価していたので逃げ場もなかった。
 そもそもこの時期の受験生が勉強から逃げようとしていること自体間違いだと諭される。
 理解してはいるのだが嫌なものは嫌だと突っぱねたかった。
 無論殴られるだけだが。
 新幹線の駅に着くと久幸の父が車で迎えに来てくれていた。エコカーでお馴染みの車の中には久幸も乗っており、見合いの席からの再会は「よく来たな」という上から目線の挨拶だった。
 それが嫌味に感じられないのは物腰が柔らかいせいか。
 それともすでに携帯電話で受験のことに対して散々叱られていたからだろうか。
 同い年の男にあれほど説教をされるとは思わなかった。
 服装はあの時とは違いごく普通のパーカー姿だ。灯のものと大差ない。
 父親は物静かな人であるようで、車内ではほとんど喋らなかった。代わりに久幸とこの辺りの話や灯の地元の話をしていた。土地が違えば色々異なる点が出てくる。
 十数分走ると目的地に着いたようで車が止まった。
 窓の外に見えるのはどっしりとした門構え。正月には間違いなく大きな門松が飾られるのだろう。久幸の家は日本家屋、というよりちょっとした屋敷のように見える。
 おそらく母屋や離れがある、ご立派な造りの家なのだろう。
 金持ち!と心の中で驚きの声を上げてしまった。さすがに口から出すのは品がないかと思い堪えたけれど、門を開いた先にある庭に松だの池だのが存在するのを見て気が遠くなった。
 家柄が釣り合っていないのではないか。
 玄関までの一本道に敷かれている石畳を踏みしめながら、身体が強張っていくのが分かる。いやいやこれはないわー…と内心呟いているのだが、先を行く久幸はそんなこと感じていないようだ。
「ただいま」
 玄関を開けて中に入ると久幸がそう声を掛ける。すると奥からすぐにあの日母と盛大に罵り合っていた招木の母が出てきた。
 本日も着物である。日常生活を着物で過ごす人なのかも知れない。
 見合いの時より着物の柄は随分地味だが、それでも華やかな顔立ちなせいか褪せてるように思えない。
 だが灯を見る視線は相変わらず鋭さがあった。
 こんな馬鹿がうちの嫁になるかも知れないなんて、という愚痴が無言で伝わってくるようだった。
「ようこそお越しで」
「お世話になります」
 冷ややかな声に頭を下げつつ視線を逸らす。玄関には壺が置かれており、中型犬くらいの大きさがあるそれの表面には細かい模様が描かれている。金で彩色されていて触ることさえ躊躇われるような見た目なのだが。そんなものを玄関に置いてしまう家らしい。
「大人しゅう過ごして下さいね」
 壺を見ていたことを察したわけでもないだろうが、招木の母はそう言い渡しては中に入るように促してくる。
 大人しく、ということは騒ぐことなく、また余計なことはせずに勉強だけして帰れということだろう。
 そういう扱いなのは覚悟していたのだが、いざ耳で聞くとなかなかに辛い。
 はいと頷きはするものの、すでに帰りたい気持ちでいっぱいだった。
「俺の部屋こっちだから」
 そう言って久幸は灯を導きながら、階段を上り二階上がってすぐ右側の襖を開けて足を踏み入れる。
 畳であるせいか部屋は非常に落ち着いた雰囲気だった。整理整頓が行き届いており綺麗な空間だ。押し入れがあるのに布団ではなくベッドを置いており、その横にはみっしりと本が詰まった棚。並んでいるのはハードカバーから文庫本、そして漫画まで様々だ。
 パソコンやゲーム機などもあり自分の部屋と同じ部分もある。
 本棚に収まっている漫画の中に、まだ読んでいない気になるものがあったので、ついそこに目が釘付けになった。
「ユキもあれ読むんだ。面白い?」
「ああ、面白い。なかなか新刊出ないのが難点だけど」
「読んでいい?」
 期待を込めて尋ねるのだが、久幸は部屋の真ん中に小さめの座卓を置いては「後で」と素っ気ない。
 八畳はあるだろう部屋の中に座卓が一つ置かれたところで窮屈さはない。だがそこに勉強道具を広げろと目で指示されると途端に息苦しくなる。
「わざわざ下から持って上がってきたんだぜ。俺使わないし」
「学習机あるもんな」
「普段誰かと勉強することないし。あったとしても一階で済ませるしな」
 短時間ならそれでもいいだろうが泊まりだから、という判断らしい。あえて二階の自室に招いてくれたことは大変有り難い。一階ならば招木の母もいることだろう。監視されながら勉強だなんて死にそうだ。
「ということで、さっさと模試の結果出せ」
 命じられ灯は怖ず怖ずと鞄の中からぺらぺらの紙を出す。ある程度中身は喋っているが、詳細な結果を見れば久幸がどんな反応をすることか。
 お先真っ暗としか言いようのない思いで紙を渡すと「おまえ……」と怒りか呆れか悲しみか分からない声が届いてきた。



 目の前を英文がずっとちらちら飛んでいるような錯覚に陥っていた。
 久幸の勉強はスパルタと言っても過言ではないだろう、実にみっちりとした教え方だった。半端ないっス!と泣きついても「え、何が?」とあっさり返されるところからして灯にとっては鬼畜だ。
 問題集と何時間も格闘することは、久幸にとっては当たり前のことらしい。
 灯にとっては拷問だ。
 感覚の違いを思い知りながらたまに入る休憩でぐったりしつつ、気分転換に漫画でもと手を伸ばすと「ばててるならいっそ寝ろ」とあしらわれた。
 睡眠を入れると記憶が定着する。しっかり勉強したら、きっちり睡眠時間を取れ。それが久幸の持論であるらしい。
 がりがり勉強している人は寝る時間も惜しんでやっていると思っていたのだが、久幸だけが特別なのだろうか。
 こんなに勉強ばかりやっていたら気が触れる!と勉強時間が五時間を超えた辺りで叫んだのだが久幸は自分の参考書片手に溜息をついた。
「受験生はこんなもんだ」
 決して大袈裟に言っているわけではないという態度に意識が暗くなっていく。
「目眩がする」
「俺はおまえの成績に目眩がする」
 そう言い返されると黙り込むしかない。
 ううぅと呻き声を上げる夜の七時になって一階から晩御飯だと一筋の光のような声がして、灯はがばっと顔を上げた。
「飯だって!」
「……おまえはなんていうか。欲望に忠実だな」
 人間は欲がなければ生きていけない。自慢して良いのか悪いのかよく分からないことを抱きながら一階に下りるとすき焼きが用意されていた。
 すでにぐつぐつと煮えている底の浅い鍋の中身に、思わずよだれが出てしまいそうだった。
 甘い醤油の焦げる香りは、普段使わない頭を使って疲れ果てた灯の胃袋を激しく刺激してくる。しかも招木の母が箸で持ち上げた霜降り肉が灯の視線を奪っては離してくれない。
 大人しく席に着くと招木の母が次々に肉を投入していく。我が家ではこれほど良い肉はお目にかかったことがなかった。
 グラムいくらだ……これはもしかして舌で溶けるやつか!と死にかけていたテンションが急激に登っていく。
「いっぱい食べて、いっぱいお勉強しなさいね」
 食欲に捕らわれた灯の目が輝いているせいなのか、招木の母も冷たさよりも苦笑が勝っているようだった。
 自然と若干前のめりになる灯に招木の人は小さく笑っているようだったが本人は気付かず。最初に火の通った肉は灯の器に盛られ、招木の母から手を渡された。
「いっぱいありますよって。ゆっくり食べなさい」
 どこの母も似たようなことを言うのだなと思いつつ、灯は感謝しながら器を受け取る。
 まずは期待の霜降りを口に入れると、じわりと脂のうまみが溢れ出して広がっていく。
「美味しい!」
 それはまるで発作のように飛び出てきた言葉だった。
 霜降りの脂は人間の熱でも溶けると聞いていたけれど、実際にそれを体験すると感動が湧き上がる。肉が甘いなんて素晴らしい発見ではないか。
「すごく美味しいです!」
 こんなにも美味しい御飯が食べられるなんて、来て良かった。勉強ばかりで頭がおかしくなりそうだったけれど、今正気に戻ったような気分だ。
「それは良かった。まだまだありますから、いっぱい食べて賢なりなさいよ」
 かしこなる、という表現がぐさりと刺されるけれど。肉の美味さの前では刺激が弱い。
 そして肉だけでなく葱や白滝も味が染みて大変に美味しい。食べる度に喉が鳴るほどだ。
「ありがとうございます!今まで食べてきたすき焼きの中で一番美味しいです!」
 これは心震える。やはり美味しいものは人間の疲れを洗い流してくれるものだ。
 生まれてきて良かった、このすき焼きがこの世にあって良かった。と心底喜んでいると招木の母は笑みを深くした。
「味付けも一からこだわって作ってます。灯君がうちに嫁いできたらちゃーんと作れるように教えてあげるさかい。覚悟しときや」
 嫁いできたら、などと言われてごふっと豆腐を喉に詰まらせた。
 これまで楽園かと思うような気持ちで舞い上がっていたというのに、一気に地面に叩き付けられたようなものだ。
 招木の中では灯がこの家に入ることが決定づけられているのか。その上招木の母に教育されるのか。
 馬鹿だ馬鹿だという目で見られるだけでも辛いというのに、教えを請うなんてどれほど厳しい目つきと言葉を向けられることか。
 想像しただけでも食欲が急激に萎んでいく。
「冗談に決まってんだろ。びびんなよ」
 硬直し顔色を変えてしまったのだろう。久幸が軽く笑っては場の空気を変えようとしてくれる。
 だがそれを阻止したのは招木の母だった。
「誰がこんな冗談言いますのん」
 本気に決まっている。灯をこの家に入れて躾けるのだ。
 そう雰囲気で突き付けてくる招木の母に久幸は笑顔を消して眉を寄せた。不愉快だと明らかにするその表情に見ているだけの灯の方が目を見開いてしまう。
「鬼姑だ。戦争が始まる」
「誰が鬼姑や!」
「まだ嫁いで来てもないのにそんなこと言うなんて。嫌な姑だろ。俺なら無理。絶対無理」
「うちやって言いとうないわ!」
 久幸は自分の母親を嫁いびりする鬼のように邪険に扱う。絶対無理というところなんて思いっきり力を込めており、心底嫌がっているのが見て取れた。
 息子にそこまで言われ、招木の母もやや気後れしたようだが。前言撤回はしない。きっとうちの母親と言い合いになった時に腹に据えかねたのだろう。
 あの激しさなら灯のことも疎ましいと感じるのは分かる。
「言いたくないなら言わなきゃいいだろ。それにまだ嫁だの何だのになってねえし。大体なるなら嫁じゃなくて息子になるかも知れない相手だろ」
 結婚結婚だなんて言うから、灯が嫁のようなポジションに置かれるのであって。もしなったとしても久幸の弟である。
 招木の母にとっては息子でしかなく、嫁扱いがそもそもの無理ということを久幸があっさり告げると、勢いを削がれたのか招木の母も凄みのある笑みを消した。
「今後増えるかも知れない息子なんだから、大事にしてくれよ」
 兄弟か、という目で久幸を見ると口角を上げてこちらを見た。
 嫁だ旦那だという関係より、兄弟の方がまだしっくりするだろう。同性なのだから仕方のないことだ。
 招木の母は拍子抜けしたように「まぁ……」と呟いてから今度はやや苦そうな表情を見せた。
「せやな息子か。そう思うと多少アホでもええ気がするわ」
 アホと言われ灯はまたぶほっとすき焼きでむせる。今度もまた豆腐である。熱いのをなんとか口に収めた途端なので、吹きかけると熱さが戻ってくるようで辛い。狙われているのだろうか。
「うちの子は頭も外面もええけど、こざかしいからなぁ」
「こざかしいってな」
 母親からこざかしいの称号を貰った久幸は嫌がりながらも否定はしない。思い当たる節があるのだろうか。
 中も外もこざかしいというより普通に賢そうで優しそうなのだが親の目線では違うのだろうか。
「素直で優しい子なら、どんな息子でも素晴らしいものだよ」
 それまで静かに黙っていた招木の父の一言は深くその場の空気に響き渡っては、招木家の団結に至ったらしい。その通りだと母も息子も納得したようだ。
 だが招木家ではない灯は、それは暗に俺がアホって肯定してるよなと思いつつもやぶ蛇になるわけにはいかず。その流れに従い口を閉ざして肉に箸を伸ばしていた。


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