1 家の都合でどこか遠出に連れて行かれた時だった。 多くの大人が入り乱れておりちょろちょろと走り回っていた子どもが迷子になることなど、火を見るより明らかだった。 小さな子どもの目線では人の足下しか見えない。 踏みつぶされそうな恐怖を覚えながらも必死で辺りを見渡した。 一緒にいるようにと言われた姉の姿も見失い、知らない場所で一人取り残されたことに気が付いた時にはぶわりと泣き声が込み上げてきた。だが自分がそれを出すより早く、同じものが近くから聞こえてきた。 泣くより先にそれが気になって、音がする方に駆け寄っていくと女の子がしゃがみ込んでいた。 赤い着物を着ている小さな女の子。俯いて声を上げて泣いている。 男の子なんだからそんなに泣くんじゃありません、と言った母の言葉を思い出してはぐっと涙を堪えた。 女の子がいる前で意地を張ったとも言える。 やせ我慢をしながら女の子に近付き「どうしたの」と言うと女の子は顔を上げた。大きな黒い瞳に涙が浮かんでいてきらきらしている。 幼稚園にいる女の子たちよりもずっと綺麗で、一目で気に入った。 「かわいい」 思わずそう言うと女の子は目をぱちぱちさせて驚いたようだった。 涙が一つ二つ落ちていく。けれどそれを拭いもせずに女の子はこちらを見ていた。 泣き止んだのを見てほっとしたのをよく覚えている。 「だあれ?」 「あかりだよ」 名前を訊かれて答えると「あかりちゃん」と女の子が言った。自分の名前を言ったところで、女の子の名前が知りたくなって「おなまえは?」と母が言うように尋ねる。 「……ゆき」 女の子はどうしてかぶすりと唇を尖らせてそう言った。自分の名前が嫌なのだろうか。不満であることは分かったが理由が分からない。 首を傾げたがゆきは「あかりちゃんは、どこのこ?」と言った。 「えっとね。ことぶきだよ」 「ことぶき?そこからきたの?」 「んー?うん。そうだよ」 ことぶきというのはあかりの名前だが、そこから来たということで合っているのかどうか。少し迷ったけれど深く考えずに頷いた。 「なんでないてたの?おかあさんは?」 「……はぐれた」 「じゃあみつけてあげる!」 自分が迷子であったことも忘れて、あかりはそう言うとゆきの手を取って歩き出した。着物を着ているゆきは歩きづらそうで、とてもゆっくりと足を前に出す。だからそれに合わせてあかりもゆっくり歩いては色んな大人の顔を見上げてはゆきの親でないことを確認していた。 次第に首が痛くなっていくが、諦めたらまたゆきが泣くのだと思うと少しは頑張れる気がした。 大人たちには「仲良しね」と言われて微笑まれたり「お母さんはあっちよ」と教えて貰ったり。いっぱい声を掛けて貰った。その度にゆきを振り返ってあれこれ喋っていると、ゆきが次第に笑うようになってきた。 知っているどんな女の子よりもずっと可愛くて、笑っていると繋いでいる手をぎゅっと握ってしまう。お母さんを捜していたけれど、見付かれば離ればなれになってしまうような気がして惜しくなった。 もぞもぞと歩くのを迷い始めたあかりに、ゆきは不思議そうに「どうしたの?」と訊いて来た。 その顔も自分のものにしたくて、あかりはふと昨日見たテレビを思い出す。 大好きだと言い合った男の人と女の人は結婚しようと言っていた。すると女の人は笑顔で喜んでいた。 そうするとずっと一緒にいられるらしい。 ならばこの子と結婚すればいいのだ。 「ねえゆきちゃん。けっこんして!」 突然のお願いにゆきはびっくりしたように固まった。だが少し躊躇いながらもこくりと頷いてくれる。 「いいよ。けっこんしよう」 ゆきからそう言われ、あかりは舞い上がるような気持ちでいっぱいだった。なので大きな声で自分の名前を告げ、ゆきちゃんと結婚する!と宣言した。 するとゆきはそれでは足りないとばかりに「あのね、ほんとうのなまえはね」とあかりの耳に口を寄せて、正しい名前を教えてくれた。だがあかりが覚えるには長いそれは、この子と結婚するという宣言が終了すると、煙のようにするりと消えていった。 ただ消えていく名前とは裏腹に、身体の奥、どくりどくりと音を生み出す箇所にぐるりと何かが巻き付いたような気がした。 だが息苦しさも痛みもないその感覚はすぐにあかりに馴染んでは、それからずっと共に生きることになった。 かこん、と高く鳴り響いた鹿威しの音にこの場の空気が崩壊したのが分かった。 「どういうことですか!」 料亭の離れを貸し切って、向かい合った両家にはぴりぴりとした緊張感が漂っていた。 床の間に飾ってある掛け軸だの、間に置かれている座卓の艶やかな様だの、お茶の芳ばしい香りだの。それらを全て無視して母の怒声が飛び出す。 上品なスーツに身を包んでいるにも関わらず、溢れ出ている気配は怒気が充ち満ちており表情は般若のようであった。これほど怒る母を見るのは高校受験間近で灯の成績が急激に落ちた時以来ではないだろうか。遊びすぎたと反省していたが、母の怒りはその反省を懺悔に変えては涙で許しを請わせるほど恐ろしいものだった。 そのトラウマが蘇ってくるくらいに母の憤りは激しい。 隣にいる父もどこか遠い目で座っており、止める気力もないようだった。 「それはこっちの台詞です!」 母の怒りに真っ向から立ち向かったのは、向こう側に座っている相手側の母親だった。招木家もうちと同様、落ち着いた色合いの着物できっちり髪を結い上げている母親は怒りを露わに食ってかかっているのだが、隣にいるスーツ姿の父親は溜息をついて俯いている。 言葉にならない。そう言っているようなものだ。 「どうして男の子なんですか!」 「それはこちらの台詞です!」 何故男なのだ。どうして息子なのだ。 それは双方の家の意見であり、この部屋が修羅場と化してしまった原因だ。 灯の前には一人の男が座っている。年は同い年。高校生とは知っていたのだが、誰が男子高校生だと思うものだろうか。 目が合うと苦笑が返される。激怒している母親二人に気圧されて、こちらは怒ることも出来ずにただ戸惑うことしか出来ない。 「可愛い女の子だって思ってここに来たのに!」 「うちかて同じです!」 「十年前は可愛い女の子だったじゃないですか!人違いでしょう!?」 「あれはこの子の身体が弱いから、女の子の格好させてたんです!」 ああ、なるほどと自分の記憶と照らし合わせて腑に落ちた。十二年前に会ったユキちゃんは可愛い女の子の着物を着ていた。赤色というところまで覚えているので、勘違いだったわけではないだろう。 しかし身体が弱いから女の子の格好をさせるというのは古風な家柄だ。招木の家柄も割と立派らしいが、それよりも嫁いできた母親の実家が古い神社らしく。きっとそちらの考えた方だろう。 紛らわしいことをしてくれたものだ。 「でもユキちゃんって呼んでたじゃありませんか!」 「うちは久幸っていう名前なんです!ユキと呼んで何や問題でも!?」 関西の訛りが入った口調で招木の母親は言い返している。それにうちの母親は「問題でしょうが!」と怒鳴っている。しかし服装は双方大人しく、優雅なものなのだが。やっていることは荒々しい。 「それを言わはるなら灯ちゃんや言う名前のほうが問題ですやろ!」 「灯という名前の男の子がいて悪いですか!」 いや、よく間違われるからな、と当人である灯は思うのだが母親には通じない。この名前のおかげで女だと間違われたことが何度あることか。 顔を見られるとさすがに理解して貰えるのだが、字面や呼び声だけでは確実に性別を間違われる。 「だったらユキという名前の男の子がいても何もおかしいことあらしまへんやろ!」 怒鳴る二人にそうですね、と心の中では同意するけれど。はっきり言えばもう呼び名だの何だのということにこだわる段階ではないのだが。 黙り込みながらこの先どうなるのかと不安を抱えていると、また鹿威しがかこんと鳴り響き場にそぐわない清涼感を漂わせていた。 next |