胡蝶の夢 肆 のっそりと意識が覚醒した。 ぼーっと布団から抜け出し、縁側に出てみた。 桜がちらちらと舞い、めまいがするほど晴れ渡った空だった。 服を着替えて座敷を出る。 朝ご飯の出る時間まで少し間があった。 だから、何と言うわけでもなく仏壇に向かった。 位牌に挨拶というのもおかしいが。 すっ…と襖を開くと、桜色が見えた。 桜色の着物を着た椿の背。亜麻色の髪が朝日に透けている。 ここにもちらちらと桜の花びらが散乱している。 じっと佇んでいる椿の頭上に何かがぶら下がっていた。 肌色の物と白い布。 「…は……?」 間抜けな声が口から零れた。 (ぶら下がっている…) ぼんやりとそれを見つめた。 家を支えている横の木材。そこから吊されている人間。 白い着物。色の無い手足。 首を吊った夫人。 「…何…?」 それを視界に入れてから次第に心臓がうるさくなった。 指先が震える。ここから逃げたいという衝動に反して足が動かない。 陰のある、夫人の苦悶の表情。それを椿はじつと眺めているのだろうか。 異常さに悲鳴の一つも上げられずにいると椿がふと振り返った。 その顔には恐怖は無い。ただ穏やかな笑みをたたえて口を開いた。 「満足で御座いませう。正太郎」 その声に弾かれたように思わず振り返った。 そこにいるのは呆然と夫人を見つめるあげは。 「…くっ…ふぅ…」 声を失ったはずのあげはは顔を歪めて息を吐いた。 そしてくいっと顔を上げた。 「あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」 その場を凍り付かせる哄笑。 見た目に反して声は高くはなかった。 はっきりとした声音で笑いは続いた。 身体を戦慄が走る。 椿はその哄笑に物怖じすることもなくあげはに近寄った。 そして椿の手があげはの肩に触れると、ぴたりとあげはの笑いは止まった。 「終わりましたね」 優しいと言える笑みで椿が声をかけるとあげははうつろな目を椿に向けた。 「私の望む物を頂きます。宜しう御座いますね」 あげははゆっくりと口元を歪めた。 「……っ…」 あり得ない光景だった。 椿の髪がゆっくりと浮き、広がっていく。ふわりふわりと波立つごとに髪の色は淡く、長くのびる。亜麻色は金、より淡くなり銀に近くなる。 じわりと椿の背に光が生まれては、鳥の持つ羽を形取る。 (基督の聖書に出てくる…) まるで天使の姿ではないか。 あげはは椿の変わってゆく姿をぼやりと見ているようだった。 着物を着た天使の、甘い銀色の髪は畳みに付くほどの長さになった。 (何だ…これは…) 頭はこの状況を理解することを拒否していた。 そして二人に近寄ることを本能が拒否する。 全身が全てを否定したがっていた。 天使はあげはの頬に手を伸ばした。するとあげはは恍惚の表情を浮かべた。 あげはの目は微かに潤み、唇は薄く開かれた。 「楽にさせてあげませう」 慈愛に満ちた目で、柔らかな声音であげはに告げる天使。 その光持つ手であげはの頭を抱く抱える。 慈悲の天使。 まるで肖像のような光景。 天使は一度目を閉じ、すっとあげはの頭を離した。 すると力無くあげはは畳に倒れた。 「…何を…?」 強ばった口を何とか動かすと天使は「何も」と答えた。 「心を食べただけ」 天使の顔からは笑みが消え、素っ気ない声だった。 「心…食べた?」 「狂いかけた極上の感情。狂い切れない正気の憂鬱。悲愴。憎悪に似た哀れみ。それを食べた。美味だった」 淡々と語る天使の羽は形を曖昧にしていく。透けるほど透明になり、輪郭は消え去る。 「…なぜ…そんなことを…?」 「私に必要だったから。生物が生きるために何かを摂取するのは当然」 「生物…?」 「信じられぬのならそれでも良い」 切り捨てるように告げ、天使は歩き始めた。 「もうここに用は無い」 「何処に…」 「誰にも知る必要の無いこと」 何事も無かったかのように天使はその場を去ろうとしていた。 引き留めるべきだ。そう思うが身体は動かない。 「…あ…」 一声もらすが天使は振り返ることなく座敷を去った。 天使が居なくなり、ようやく深く息が吐けた。 死体と生死のわからぬあげはの傍で。 次 |