胡蝶の夢 五 天使に心を食われたらしい人間は生きていた。 「……」 床の用意をし、布団の中で眠る顔をじっと見ていた。 天井に吊された死体は使用人によって下ろされた。 使用人達は動揺していたものの、いつかこんな日が来ると思っていた、そんな諦めが見えていた。 「…ん…」 横たわる人は眠りが浅くなったのか、寝返りを打った。 そしてゆっくりとまぶたを開けた。 焦点は次第に合わされ、瞬きをひとつすると唇が動かされた。 「…達彦さん…?」 はっきりと声が聞き取れた。 そして確信する。 「…正太郎だな?」 先ほどまで「あげは」と呼ばれていた少年は弱々しく微笑んだ。 「はい…」 初めてそう思ったのは、椿が「正太郎」と呼んだときだった。 そして倒れた身体を抱き上げ、その喉に触れ、確信した。 「あげは」が声を失った理由も理解した。 「何故?」 問いかけると正太郎は起きあがった。 「大丈夫か…?」 正太郎は手を付き、ようやく起きあがった身体を支えられようだった。 「大丈夫です」 ほぅ…と正太郎は息を付いた。 「…何年ぶりでしょう。椿の前以外で声を出すのは」 「椿には、喋っていたのか?…椿は、何者なんだ…?」 人間が羽を生やしたり、髪を短時間で長く伸ばせるはずがない。 「さぁ?僕も詳しいことは知りません。椿は、僕が椿を拾ったと言いましたが、本当は僕が拾われたほうです」 正太郎は目を伏せた。 それは「あげは」の良くやる行動だった。 「この家から逃げようと、死のうとしたときにあの人と会いました。山の中で、刃物を持って佇む僕に、あの人は微笑んでこう言いました『楽になりたい?』と」 『楽にさせてあげませう』それは天使が正太郎に告げた言葉。 「僕はその言葉に頷きました。あの人はそれならば僕の感情を食べさせて欲しいと言ってきました。すでに心に積もっている悲痛をもっと美しくして食べたいのだと」 美しくして食べる。その言葉の意味が分からない。 ただ、あの天使に似た生物が慈悲の笑みを浮かべている様だけが浮かぶ。 「僕はあの人の言うことが理解できませんでした。ですが、僕にはあの人が必要な気がして仕方がなかった。この家を壊してくれる気がした。だから、一緒に家に帰ったのです。あの人の名前も僕が付けました。椿の花が咲いていたから」 「壊して、欲しかったのか?」 幼い目で見た桐谷はとても穏やかで、優しい印象しか記憶には残っていない。 「ええ…姉が死んでから、この家は狂った」 (ああ、あげはは死んだのか) 予想していたことにぼんやりと納得した。 「四年前。姉は山に入って死にました。何を思って、あの崖に近づいたのかは、分かりません。姉の死体を抱き、母は泣き叫びました。そして葬儀の夜、母は僕の枕元に座って泣きながら恨み言を囁きました」 正太郎の顔、声から何の感情も読みとれない。 「泣き疲れた顔で、母は僕に言いました。『何故貴方でなくあげはが死ぬの?』と。病がちで生死を彷徨うことがあった僕ではなく、健康なあげはが突然死んだことが許せなかったのでしょう。そして僕はその時初めて、自分が母の子でないことを知りました」 「…実子でない…?」 「はい。『なぜ私の子が死ぬの?なぜサトの子が生きているの?』と告げられました。サトとは母の妹で、僕を生んですぐに亡くなったそうです。誰とも分からぬ男の子を残して。それを哀れと思った母が僕を今まで育ててくれました」 セツ夫人に妹が居たという話はおぼろげに聞いた覚えがあるが、正太郎が養子というのは初耳だ。 「…驚きました。そして悲しかった。僕は要らない子なのだと、感じました。元々病を持った厄介な子供でした。酷く肩身が狭くなった。けれど、母はある日突然僕を姉の名前で呼んだ」 昨日まで夫人は正太郎を「あげは」と呼んで慈しんでいるように見えた。 そして正太郎も「あげは」で居た。 「違うと何度否定しても、数時間後には、僕はまたあげはと呼ばれた。…そして知ったのです「あげは」になれば、僕は必要としてもらえると。正太郎は母にとっては厄介ではないが「あげは」なら、母は僕を大切にしてくれることを」 伏せた目を上げることなく、正太郎は苦々しく微笑んだ。 「着物を着、髪を伸ばし、姉になった。正太郎では母には見てもらえないから。病がちで細い身体が功を奏した、皮肉なことに。けれど…変声期が来た」 高熱を出し、「あげは」は声を失った。 「「あげは」の声は低くてはいけない。だから喋ることを止めました」 喋ることを禁じても、正太郎は「あげは」になることに拘ったということだろう。 医者を拒絶し、他人と距離を作ることになっても、母に認められたかったのだろう。 「父はこの状況を見て、すぐに家を捨てました。使用人達は我が身可愛さに目をつぶりました。耐えられない者は全てこの家から去りました。…無理もありません。歪んでいるでしょう?母も、僕も…。おかしいでしょう?」 こちらに語りかけているのに、正太郎は視線を上げない。 目が合うのを拒絶しているかのように思えた。 「椿は、この異常さを見ていつも微笑んでいました。歪んでいく心の様を見て満足しているようでした。限界を、崩壊せざるえない時を待っていました」 あの人ならざる者は、歪む関係をじっと静観していたのか。 ゆっくりと狂っていく家を、あの慈愛に似た笑みを浮かべ…。 (異常だ…) 全てが異常で、おそろしい。 「…崩壊を望んでいたのは僕も同じでした。こんな状態がいつまでも続くはずがない。いつ終わるか、いつ壊れるか、そればかり考えていました。毎日毎日思い、精神がきしんでいくのがわかりました。いっそ…母の死を望むほどに…。母が亡くなれば僕は正太郎に戻れる。母に認められたくて自ら「あげは」になったにも関わらず、僕は早く「あげは」から逃げたかった…」 正太郎は、膝にかかっている布団をぎゅ…と握りしめた。 「だって分からないのです。僕は正太郎なのか、本当に正太郎なのだろうか。皆、僕を「あげは」と呼び、母は正太郎を死んだと思っている。本当は僕は「あげは」で、死んだのは弟の正太郎なのではないか、正太郎としての記憶は全て夢で、今こうして「あげは」でいるのが現実ではないのか」 わからないのです…。そう絞り出すような声。 「一体、どちらが現実なのですか?」 初めて、正太郎は顔を上げて、こちらを見た。 涙をたたえた、黒目がちの目。すがるような表情。 「…現実は、今お前が生きて、正太郎ということだろう」 何故。そう言いたげな目で見られた。 「お前は、正太郎の面影そのままだ。薬を嫌がる顔も、今、俺にすがる顔も。小さな頃、俺の後をついて遊びに行きたがった正太郎そのままだ」 身体の調子が悪くて、床に伏していなければいけないのに、遊びに行きたい!とただをこねた顔が、今目の前にあった。 「…何時だって、達彦さんはそうしてくれる」 「え?」 「僕を助けてくれる。小さな頃、山に入って迷子になった時にだって達彦さんは僕を見つけてくれた。転んで怪我をした時だって、助けてくれた。だから、僕は貴方が桐谷に来てくださった時全てが終わると思った」 この狂いに終止が打たれるのだと。 「昨日、桜の下で母は話をしたでしょう?最近、母は益々精神が不安定になっていました。そして達彦さんは僕と「あげは」が同じだと仰った。そしてあの人はそれに追い打ちをかけていた。母の精神はそんな思考に耐えられなかったのでしょう。そう、母も僕と同じ事を思ったはずです。何が現実か分からないと。そして死んだ」 「あげは」になるほど母という存在に重点を置いていたはずの正太郎は、淡々と母の死を語っていた。 「…あのとき…なんで笑ったんだ…?」 戦慄を覚えた哄笑。その理由に見当が付かない。 「…何故でしょう。僕にも分かりません。ただ…馬鹿げた茶番だ、そう思ったんです。何もかも、なんて馬鹿げているんだと」 母の死体を目にしたその養い子の目に、全ては茶番として映ったというのか。 「そう、茶番ですね。何もかもが茶番だ…」 正太郎はこほん、と小さく咳をした。 「…悲しくないのか…?」 「どうして?」 「…夫人を亡くされて…。「あげは」になるほど、慕っていたのだろう?それに、あの人も居ない」 正太郎は「ああ…」と無感動な声をもらした。 「何も」 「お前…何もって…」 「だって、そんなものは全てあの人に食われてありませんよ。ここにあるのは、悲しむことも、苦しむこともできなくなった…木偶の坊です」 そう告げる正太郎の顔には当然と言いたげだった。己の感情を押し殺しているわけでも、偽っているわけでもないだろう。 『狂いかけた極上の感情。狂い切れない正気の憂鬱。悲愴。憎悪に似た哀れみ。それを食べた』 (こういうことか…) 「…これで良かったのか…?」 正太郎が大切だと思っていただろうものは何一つ残っていない。 「さぁ?そんなことは分かりません。分かりたいとも思いません」 すっ…と正太郎の白く細い手が伸びてきた。 「何も、分かりたいとは思えないのです。だってもうすぐ僕も終わるでしょう」 「終わる…?」 「長生きが、出来る身体でもありませんから」 すがるような目で、正太郎は苦笑した。 「…助けてくれとは申しません」 ただ…短い時を僕に与えてくれませんか? 「どういう…」 「ここに、居て下さいませんか?あの少し、少しでいいから…」 細い指が、手に絡まった。 「短い夢を与えては下さいませんか…?どうか…」 正太郎の目が潤み、雫を作り白い頬に流れた。 男だと分かっても尚美しいと思わせる容貌だった。 「…愛しております…」 朱唇から紡がれる睦言に何と答えたのか。 ただ、細すぎる身体を腕の中に引き入れた。 意識がはっきりとしない。 これが夢なのか、現実なのか分からない。 腕の中に居るのは、蝶なのか、人なのか。 まほろばか。 終 |