胡蝶の夢 参


宿に置いてあった荷物を取り、宿泊予約も取り消してもらった。
 客人の扱いを受け、不自由することなく寝起きが出来た。
 桐谷の勤めている使用人の中には「達彦ぼっちゃん」と呼んでくれる人がまだいた。
 だがあのときより人は随分少なくなっていた。
「……」
 正太郎の位牌の前で、線香を上げながらぼんやりと昨夜のことを思い出していた。
 不審者が夜になるとうろつくと夫人が言っていたが、どうやら本当のことのようだった。
 夜中、微かながら家の外で声が聞こえた。ずっ…ずっ…と足を擦りながら歩く音とともに。
 家の中に侵入して来るかと思い、庭に出て周りをしばらく窺っていたが、音はそのまま消えていった。
(夫人が不安がるのも無理無い…。だが男の使用人も居るのに、なぜ俺を?)
 幼い頃は武術を習っていたが、今ではなまって使い物になるかどうかあやしいものだ。
 不可思議なことが多い。そう思って意識が沈んでいると襖が開かれた。
「あげは」
 静かな雰囲気で入ってきたあげはは少し微笑んだ。
 今日は萌葱色の着物を着ていた。
「どうかしたのか?」
 そう聞くと頭を横に振った。
 そしてあげははそのまま後ろに座った。
 その体勢ではあげはの反応が何一つわからないので身体ごと後ろを向く。
 向かい合わせの状態になるとあげはは軽く頭を下げた。
 改めて見ると、あげははかなり線が細い。顔がほっそりとしていて、血色もあまり良いとは言えなかった。儚い、という印象を抱かせる。
「…ちゃんと食べているのか?」
 突然の問いかけにあげはは苦笑しながらこくんと頷いた。
「医者には行かないのか?」
 こくん。
「嫌いだから?」
 こくん。
「正太郎と同じことを言うんだな」
 床に伏すことの多かった少年はいつも医者を怖がっていた。
 薬も苦いと言って飲むのを嫌がっていた。
「やだやだ、こんなのいらない」と言って泣く正太郎を思い出して胸がきしむ思いだった。
 あげはも正太郎を思い出したのだろうか、悲しげに目を伏せた。
「…すまない…」
 悲しいことを思い出させたことをわびる。あげはは懐から紙と鉛筆を取り出した。
 いつもこうやって持ち歩いて筆談をしているのだろう。
 あげはの持つ鉛筆の先をじっと見つめる。するとそれは一つの問いかけを描いた。
『正太郎をまだ覚えていてくださったのですね』
 少し硬質な感じの綺麗な字だった。
「…幼い頃あれほど仲良くしていた。忘れる筈がない。あげはのことも、正太郎のことも友人だ」
 あげははじっとこちらを見つめた。何かを窺うように。
「別れてから…ずっと会いに行こうと思っていた。ただ…余裕が無かったんだ」
 情けないことを言うと、あげははやんわりと微笑んだ。
 そして唇がゆっくりと動かされた。
 こちらにもわかりやすいように大きく動かされた唇は「ありがとう」と紡いだように見えた。
「ありがとうなんて、そんなことを言ってもらえる身分ではないよ」
 あげはは軽く首を振ってこちらの言葉を否定する。
「あげは?」
 不意に椿の声と共に襖が開かれた。椿は山吹色の着物だ。
「達彦さんの声がしたので、あげはも居ると思ったわ」
「どうかしたのか?」
 あげはにもした問いかけをする。
「あげはの薬の時間です。いつもこうして逃げるので私が毎日探し回っているのです」
 椿は苦笑しながらあげはの肩を叩いた。
 一方あげは苦虫をかみつぶしたような顔でむすっと顔を逸らした。
「あげは、薬を飲む前からそんな苦い顔をするなよ」
「本当よ、飲むなんて一瞬のことじゃない。飲まないと苦しむだけよ?」
 あげはは椿の向かって何かしら不満を口にしているような唇を動かす。
「飲んだ後に喉の奥から苦い味がじわじわこみ上げてくるのですって」
 呆れた顔であげはの言葉を椿が伝えてくれた。
「本当に正太郎みたいだな。さすが姉弟だ」
 子供のような言い分に自然と口元がほころぶ。
「似ているのは姿だけじゃないみたいね」
 椿の言葉にあげははただ困ったように微笑んでいた。

 椿はあげはをそのまま連れていった。
 嫌だ、という顔をしているあげは幼い正太郎に似ていた。
 桜の花弁が視界に入り、それに誘われるように庭に出た。
「達彦さん」
 夫人は桜の木の下に居た。
 ただ立っているだけなのに絵になる。
「良い花ですね」
「ええ、毎年こうやって、満開になってくれるのです。心の慰めになりますわ」
「美しい物を見ると、心が洗われると言います」
 ええ、と夫人は頷いた。
 なんとなく会話が続かずにぼんやりとした沈黙が下りた。
「…あげはは…医者には診せないのですか…?」
 医者を酷く嫌っているらしいあげはの様子を思い出した。
「ええ、あの子がどうしても嫌だと…。無理にでも診せようとすると逃げるのです。病に弱っている体で暴れて、それで余計に悪くなる。その様子を見ているのが辛くて…そこまで嫌ならば好きにさせようと思いまして」
 あげはの話題になると夫人の顔は哀しみをたたえる。
「そんなに嫌なのですか…。先ほども薬を飲むのを嫌がっていました」
「ええ…薬も嫌うのです。それでは良くならないと言っても聞かなくて…」
「まるで正太郎みたいでしたよ」
「え…?」
 夫人は何を聞いたかわからないと言った顔をした。
「薬を飲むのを嫌がる様子が正太郎そっくりでした。姉弟は似るのですね。苦いと言わんばかりの顔が一緒で。まるで同じ人のようでした」
 昔を懐かしむと夫人は黙った。
 目はこちらを見ているが、どこかぽっかりとしていて、身動きをしなかった。
「…あの…」
 ただならぬ様子に声をかけると夫人はゆっくりと微笑んだ。
「そんなことはございませんわ」
「そうですか…?」
「あり得ないことですもの」
 声は柔らかいものだった。だがなぜ強固に否定するのか理解できなかった。
 そして目は相変わらず焦点がわからない。
「そう、あり得ないことでございますね」
 夫人に同調する声は椿だった。
「まぁ、そうだろうけど」
 話に荒波を立てる気にもならず、同意する。だがなぜ椿まで否定するのだろうと思う。
「全てが偽りでなければの、話ですが」
 椿は朱唇をうっすらと開いた。
「偽りなど、どこにも無いでしょう」
 夫人は艶やかな笑みを浮かべた。
「現がどこにございましょう」
 一体どこに在ると仰います。
 椿の声に答える者はいなかった。
 ただ静かにはなびらが落ちる。
 ふわり、ふわり舞う。
 桜。
 夫人はこちらにも椿にも目をくれず背を向けた。
 ふらり、と一度揺れたがすぐにしっかりと歩き始めた。
「…今のは一体…?」
 ただならぬ空気から解放され、椿を見る。
「禅問答のようなものですわ。夫人と時折こうして問いかけをいたします」
 椿は先ほどとは違い少女らしい笑みを浮かべた。
 まるで楽しい遊びを思いついたというような、あどけなささえある。
(さっきの表情とはまるで違う…何だったんだ…)
「ねぇ?」
 そう椿が同意を求めた先には縁側に佇むあげは。
 あげははこちらをじっと静かに見つめていた。
 どこか辛そうに見えた。
「薬が苦かったのか?」
 嫌な薬のせいで顔をしかめているのだろうと思うとあげはは顔をほころばせて頷いた。
「薬が苦くなくては効いた気がしないでしょうに」
 椿がころころと笑うとあげははまた顔を少ししかめたようだった。