胡蝶の夢 弐


チチッ…と鳥の声がした。
「…あげはは、声を失いました」
「え…?」
 後ろに座っていた夫人が口を開いたので身体ごと夫人の方を向いた。
「正太郎が死んで、二年ほど経った頃です。高い熱を出して寝込みんでから、あの子は声を出せなくなりました」
「突然、ですか?」
「ええ…熱を出しているときは酷く苦しそうにかすれた声を出しておりましたが、熱が下がるともう…」
「何も、喋られなくなったのですか…?」
「ええ…。あれから、ずっと病がちになってしまい…」
 まるで正太郎の二の舞を踊っているかのような状況だ。
(ではさっき声が聞こえなかったのは、小さかったからではなく、本当に声が出ていなかったのか…)
「…しかし…椿さんはあげはの声が聞こえていたのでは…」
「椿はあげはの声が聞こえるのですわ。椿だけはあげはの考えがわかるのです」
 呟いた声に夫人が答えた。
「椿さんは…あげはの友達ですか?」
「ええ、 丁度あげはが声を失った頃です。行き倒れているところをあげはが助けまして。それ以来ここで生活を共にしております」
「行き倒れ?」
「ええ。戦争で両親を失ったそうです。生活に困窮していたのでしょうね。それに、記憶が曖昧になっているようで」
「記憶が曖昧?なぜですか?」
「さぁ?詳しいことは彼女自身もよくわからないそうです」
 夫人は何でもないことのように言っていた。
「そんな素性もしれない人間を傍に置いていて大丈夫ですか?よからぬ者とも考えられます。不用心ですよ」
「いいんですよ。そんなに心配なさらなくても」
 こちらの心配など何でもないことのように夫人は微笑んだ。
「あげはの声が聞こえるのは椿だけですもの。わたくしにもあの子の声が聞こえません。あげはにとって椿は大切な存在です。それに、どうにかしようと思っているのなら、もうとっくにしているでしょう。二年もの歳月がございました」
 夫人の鷹揚に構えている様子に口出しは無用と言われている気がした。
(部外者が口出しすることではないか…)
「どうして、椿さんにはあげはの声が聞こえるのですか?」
「唇を読むのだと言っておりました。声がなくとも唇の動きさえわかればそれは声となるそうです」
(ああ、なるほど…)
 不思議だと思っていたが、真実を知れば何ということはない。
「けれど、椿はあげはの考えていることが何とは無しにわかっているようなのです。はっきりとはいたしませんが、どこか…」
「それほどに仲が良いのですね」
「ええ。それはまるで姉妹のようで…」
 姉妹と言う言葉に夫人の顔が少し陰った。正太郎のことが思い出されるのかもしれない。
「…達彦さんは、今は学生さんですの?」
 ふぅ…と夫人は息を吐き、沈む顔を隠すように話題を変えた。
「はい。と言ってもまだ十分な状態ではありませんが」
 戦争が終わって五年経つが、それでも傷跡ははっきりと残ったままだった。
 勉学にいそしむ前に生活を成り立たせなければいけない世間。生きることが精一杯の状況に置かれ、学生という立場は微妙なものだった。
「それでは今はお休みですのね」
「はい。ここも懐かしいので、しばらく見回ってみようかと思っています。幸い、泊めていただく所がありましたので」
 ここに来る前に別の所で宿を取っていた。
「あら、ここにお泊まりになればよろしいのに」
「いえ、ご厄介になるなんてとんでもない」
 訪問することさえ躊躇ったのに、その上泊まるなんて気が引けるどころではない。
「どうぞ泊まって行ってくださいな。最近この辺りで夜、不審者がうろつくようなのです。男の方がいらっしゃれば心強うございますわ」
「不審者ですか?困りましたね…」
 これだけ大きな家だ。強盗が入る危険性は高いだろう。
「男手がいるということは…ご主人は?」
 桐谷主人が亡くなったという噂は聞いたことが無かった。
「主人は女の所におります。正太郎を亡くしてから、この家には寄りつきません」
 先ほどまで柔らかな表情を浮かべていた夫人の顔から表情が消えた。冷たい射るような目線を庭に向けていた。
「嫡子を失った家には用が無いのでしょう。病がちのあげはに会おうともいたしません」
「そうですか…」
 夫の浮気に静かに激怒している夫人にかける言葉が見つからない。
 身を小さくして胃がきしむのを感じるしかなかった。
「ですから、泊まって行ってはくださいませんか?」
 夫人はこちらに視線を戻し、元のようにふんわりと微笑んだ。
「…ご迷惑でなければ…」
 先ほどの顔が怖くて承諾したなどでは断じてない。
 …おそらく。

 元居た座敷に戻るとあげはが膝に黒猫を乗せていた。
 家から出てきた猫だ。
 隣に座っている椿がこちらに気付き小首を傾げながら微笑んだ。
「その猫…戻ってきたのか」
「ええ、逃げてもすぐに帰ってきます」
「なんだ気まぐれなんだな」
「猫は気まぐれなものと決まっていますわ」
 椿がそう言うと隣であげはの肩が少し揺れた。
 何だろうと思って近寄ると笑っているようだった。
 そして顔を上げて何事かを椿に言っていた。
「私にそっくりと言われました」
 椿は苦笑してあげはの言葉を教えてくれた。
「気まぐれなのか?」
「そんなことはございません」
 椿の反論にあげはは口を動かした。俯いてよく見えなかったが、それはなんとなく「不思議な…」と紡がれたように見えた。
「不思議な…所も?」
 勘で告げるとあげはは驚いたように目を開きこちらを見た。
「いや、なんとなくそう言ったように見えて…」
「その通りです。達彦さんは、唇を読むのが上手ですね」
「椿さんほどではありませんよ」
「私は、何も唇だけを読んでいるのではありませんから」
「唇だけでは無いのですか?」
 その問いかけに椿は微笑んだ。
「どうか椿と」
 それだけが返ってきた。答えは無く、ただ少女達は微笑んでいた。