胡蝶の夢 壱


ひたすら歩いた。
 春に向かおうとしている風は大した冷たさも与えなかった。
 はぁ…と息を吐き、深く吸う。肺に入り込む土のにおい。
 民家から少し離れた場所にその家は建っていた。
 大きな家屋を隠すように垣根が連なり、松の木が離れた所からも見える。近寄るとつぼみをつけた桜の木があるのもわかる。
 この家は、戦争が始まった時と何ら変わっていないように見えた。
 目を閉じなくても幼い自分達が浮かぶほどに。
「戦火の被害を、全く受けていないのか」
 確かにここは都会とは言い難い場所にあった。
 だから、何一つ変化せずに建っているのだろう。
 時が止まったように。
「ああ…しかし…」
 光景は何一つ変わっていなくとも、この家には変化が確実にあったのだ。
 戦争で父を亡くし、母の実家に引っ越し、しばらく経ったとき。
 嫡子が亡くなったという噂を耳にした。
 幼い頃、よく遊んだ相手だった。病気がちで、たびたび床に着く子だった。
 亡くなったと聞いたときには、さして衝撃は受けなかった。
 ただ、落胆した。あの時は葬式にも、焼香にも行けるような状態ではなかった。
 一度機会を逃すとなかなか腰が上がらなくなり、この家に来るにも長い時間が空いた。
「……」
 今更訪ねて行くのもはばかられたが、せめてお参りだけでもしたいという希望がいつまで経っても消えなかった。
 記憶に思いをはせていると、いつの間にか家の真ん前に立っていた。
 桐谷という名前が彫られた石。がっしりとした門構え。
 家柄を思わせる作りで、場違いさを否応なく感じさせられる。
「…え…?」
 不意に垣根から飛び出してきたものが足元を通った。
 黒い猫だと気が付いたときには猫は逃げ去った後。
 代わりのように門から人が出てきた。
 朱色の着物を着た少女。長い髪を結わずに垂らし、日に触れたことがないような白い肌を持っていた。
「……あげは…?」
 覚えのある名を告げると少女はこちらを見て目を見開いた。
 正面から見るとはっとさせられるほど綺麗な顔立ちだった。
 少女は唇を動かした。その動きは心なしか「達彦さん」と動いたように思えた。
「あげは。クロは?」
 驚いたまま硬直している少女の後ろから人が現れた。
 紺の着物を着て、同じように髪を垂らしたままの少女。光の加減か、髪の色は亜麻色に似ていた。
「…知り合い?」
 少女はあげはの肩にぽんと手を置いた。するとあげははこくんと頷いていた。
「…」
 あげはは声は出さずに、唇だけを動かしていた。だが少女が頷いたのを見ると至近距離でしか聞こえないほど小さな声で喋っているのかもしれない。
「達彦さん。幼なじみの人ですね。私はここにご厄介になっております、椿と申します。どうぞこちらへ」
 椿と名乗った少女はふわりと微笑んで門の中に入っていった。
 あげはも会釈をして椿に続いた。
「失礼します」
 入り辛いと感じていた門も、人に勧められれば抵抗は和らいだ。
「母様をお呼びして参ります。少々お待ち下さい」
 座敷に通され、一人で残される。
 庭に面した座敷は広く、中央にぽつりと座らされると居心地が悪かった。
 ふわりふわりと庭に植わっている大きな桜の花びらが畳みに散る。
「失礼します。お待たせ致しました」
 長く感じられたほんの少しの時間を過ごしていたとき、襖が開かれた。
「お久しぶりですね。達彦さん。六年ぶりですね」
 やんわりと微笑んだ桐谷セツ夫人は容姿が衰えていなかった。年を取っていないわけではないが、それは美しさに深みが増しただけだった。
 青磁色の着物を凛と着こなし、古風な雰囲気を持っている夫人を目の前にすると背筋が張る気持ちだった。
 夫人の後ろにはあげはと椿が並んで控えていた。椿は盆を持っていた。お茶を運んできたのだろう。
「お久しぶりです。長い間連絡もろくに取れず、今更突然押し掛けた非礼お許し下さい」
 不躾な真似をしたことに頭を下げた。
「お止め下さい。達彦さんが無事だったこと、何よりです。それにわざわざここまで足を運んで下さって、ありがこうございます」
 向かい合って座った夫人は軽く頭を下げてくれた。
「戦争でお父様が亡くなり…大変でしたでしょう…」
「母方の実家で、なんとか生活は成り立ちました。前ほど裕福ではありませんが、それでも恵まれています…。あの戦争で食べる物もなく、餓死していった人々に比べれば、僕など恵まれすぎたほどです」
 母方の実家に行けば、食べる物もなんとかあった。苦しいながらも生活は出来ていたのだ。今思えば裕福な家に居たのだろう。
「…戦争は…本当に悲惨でございましたね…。その戦争を乗り越えたというのに…あの子は…」
 夫人は目を伏せた。
 椿が静かに茶を二人分置き、夫人の後ろに控えた。隣にはあげはが俯いて座っていた。
「やはり病ですか…」
「…いえ…崖から落ちたのです。達彦さんもご存じでしょう?家の裏山にある崖を」
 桐谷の家の裏には山があった。そう大して高くない山だ。山の奥に崖があり、岩が転がっている所だ。危ないからと行って近寄らないようにきつく言われていた。大人には大した高さではないが、子供にとっては危険な場所だっただろう。
「あの日はあの子も体調がいつになく良くて…外に出た時でした。遊びたくてうずうすしていたのでしょうね。それで、山に入って…」
 はぁ…と夫人が深く息を吐いたようだった。
「戦争が終わった一年後です。あの子は、正太郎はまだ、10歳でした。病に負けるまいと戦っていました…なのに、あんまりです…」
 夫人は目を閉じ、唇を震わせながら喋っていた。
「…お参りを…させていただけませんか?」
 夫人の話に、記憶の中に眠っていた正太郎の存在が浮かび上がる。自分より四つも幼い少年は体調が良いときは子犬のように後ろを付いてきた。離れた所に今座っているあげはも、正太郎をとても可愛がっているようだった。正太郎の身体を気遣い、常に心配していた。
「はい…」
 夫人に連れられて座敷を移動する。二つほど座敷を通った先に、それはあった。
 黒い、仏壇。
 正面に座り、位牌を見た。じわじわと喪失感がこみ上げる。
 亡くなった。もう居ない、どこにも。
 話には聞いていた。なのに初めて正太郎が亡くなったことを知った気持ちだった。
 座ったまま、脱力してしまい動きたくなった。  あの子犬のような少年はどこにもいない。