きつねツキ2   八




 老人はろくに口も利けなくなっている双子を眺めながら、歩き出した。杖を突きながらの歩行は、人にとっては非常にゆっくりとしている。
 だがこの異様な空気の中で唯一平然と、むしろ愉快そうにしている老人の動きに全員の目が釘付けになっていた。
 何を始めるのか、これ以上どうなってしまうのか。
 その怖れが、爆弾を目の前にしたような緊迫感を生んでいた。
「これは、おまえたちの曾祖母さ。義姉様が名賀のために利用した、義姉様の、名賀のためのもの」
 老人は杖で髑髏を突いて転がそうとした。だが人間の頭蓋骨は球体ではない。少し傾いただけだ。それでも杖で動かすことが出来る神経に寒気がした。
「ひっ」と佐浜が声を上げそうになったのが微かに聞こえてくる。
「名賀の、ため?」
 老人の狂気にまだ辛うじて飲み込まれていないらしい伯父だけが喋っている。元々祖母がまともではないことを感じていたのだろう。
 耐性があるように見える。
「そう。戦後没落を始めていた名賀の家を繁栄させるため。義姉様はあの女を殺して首を生け贄のようにして先祖神様へと捧げた。それは先祖神様に受け入れられたのよ。だからこそ、名賀はあれから随分盛り返した」
 名賀の家はある時から財産を増やした。
 それを大学生たちは、宝の地図でも見付けて金を作ったのだろうなんて考えていた。むしろその方がずっと現実的で、救われたことだろう。
 こんな有り得ない、神様に頼って、人の頭蓋骨を捧げて恩恵を受けたなんて結末よりずっと良かったはずだ。
 しかし誰も、その有り得ない話を否定しなかった。老人にはそれだけの迫力があった。そして実際名賀の家はその時から繁栄を取り戻したのだろう。伯父の顔に納得の色が広がってしまっている。
「おばあさまは……中身がこれだと知りながら、毎日崇めていたの?」
「こんな恐ろしいものの近くで、毎日平気だったの?」
 普通ならば耐えきれるはずがない生活を、老人は平和に送っていたのだろう。嫌悪している双子を可愛がり、髑髏の前で手を合わせて何を思っていたのか。
「そうよ。毎日毎日祈っていた。名賀の家が益々繁栄します様に、義姉様の願いが叶いますように。おまえたちがちゃんと呪いを受けますように」
「呪い……?」
「なにそれ……?」
 自分たちの知らないことばかり、そして呪いという文字が降りかかり双子たちは顔色を失っている。これ以上残酷なことなどないはず、そうすがるように老人を見詰めている。
 寄り添い、互いの手を握っている様はか弱い小動物のようだ。
「名賀の家は当主様の血が引き継ぐ。たとえ腹が不浄のものであっても構わない。それならばあの下女の血が子どもを産み、名賀の家を続ければ良い。正し引き継ぐには一人いれば充分。それ以外はみんな死ぬように祈った」
 死ぬように、と言われて双子が瞠目をしては震え始めた。自分の母親が死んだことを思い出したのかも知れない。
 そして自分たちの直系の親族が全員亡くなっていることが、ここにきて彼女たちにのし掛かる。
「あの下女の子どもは、五人もの子どもを作ったけれど、生き残ったのはおまえたちの母親だけ。後の四人はおまえたちが産まれてから次々に死んで逝った」
 生け贄としてみんな死ぬ。
 老人が微笑みながら告げた言葉に、突然自分が立っているこの大きな家そのものが地獄に思えた。
 人の命を食い潰して豊かになっていく家。
 双子の親たちの死体の上で華やかに咲いている。
 その事実に伯父は眉を寄せて哀しげな表情を浮かべている。痛ましいと思っているのかも知れない。だが老人を止めることも、またその現実を打開しようとする意識も見えなかった。
 放置するつもりなのだろうか。可愛いと言った、あんな優しい目で見ていた双子の境遇をそのままにするのか。
「そしておまえたちの身体が成熟し、子どもを産むのに充分なものになった年。おまえたちの母親も死んだ。次が出来たのならば前のものはいらない。用済みだからね」
 道具のように、実際老人にとって双子の母親などただ子どもを産むためだけの存在だったのだろう。
 その身体に下女と蔑んだ者の血が流れている以上、大事にする気持ちどころか、親しいとすら感じていなかったのだ。
「そんな……」
「お母さんは……」
「おまえたちの血は誰一人残っていない。親戚はみんな、下女の血など一滴も入っていない。生き残った父親も外の人間だ」
 唯一の家族である父親は戸籍上は名賀の人間だけれど、血など混ざっているわけがない。名賀にとっては外の生き物。だから生きている。
 あの髑髏に願われた呪いの外側に立っている。
 中心に置かれた双子はとうとうへたり込んだ。膝が震えて立っていられなくなったのだ。
「おまえたちも、どちらかが子どもを産めば片方は死ぬ。産んだ側も子どもが育てば死ぬ」
 寿命を迎えることは許されないと、老人はさも楽しいと言うように宣言する。その嗜虐的な様に双子たちは泣くことも出来ずにいるようだった。ガタガタ痙攣するように震える身体で呼吸を乱している。
 意識を失って倒れてしまいそうだ。
「な、なら!子どもなんて産まなきゃいいんだわ!」
「そう!二人きりで生きていけるもの!」
 子どもを産んで死ぬくらいならば、二人で最後まで寄り添って生きていく。一人ならば寂しく苦しいかも知れないが、二人ならば頑張れる。
 母親の死もそうして乗り越えたのかも知れない。恐怖に捕らえられながらも、なんとか立ち向かおうとする双子に、見ている側も少しだけ安堵が感じられた。
(そうだ。そうすればいい)
 子どもを産むから、跡継ぎが出来るから前の世代が用済みになるのだ。ならば次が出来なければ、双子は生きていける。
「それは、困る」
「………え?」
「伯父さん……?」
 ぽつりと、伯父が双子の決意を拒絶する。
 残酷なことを言っている自覚はあるのだろう、顔を背けて気まずそうな、それでも言葉の撤回をせずにいた。
「名賀のためには、困るんだ」
 この家の富のためには死んで貰わなければ困るのだと、伯父は小さくともはっきり双子に告げた。
 耳を疑っているだろう双子に、老人がまた笑い出す。
「そもそもおまえたちは女だろう!自分たちは産まぬと決めていても襲われれば腹は膨らむ!」
 無理矢理にその身体を開かれれば。
 その酷すぎる可能性に言及している。どこまでも、息の根が止まるまでは痛めつけていく。
(酷い……)
 見ていられない。
 自分までぐちゃぐちゃに蹂躙されていくような境遇に頭を抱えて逃げ出したくなる。それでもまだここにいるのは、シロの手が慰めるように尚基の頭を撫でているからだ。
 与えられるべき慈しみは自分ではなく双子に向けられるべきだろうに。彼女たちにシロは感じられない。
 そしてシロも尚基以外に目を向けはしないのだ。
「開けなきゃ……良かった」
 山野が譫言のようにそう口にした。
 そう知らなければ良かった。蓋を開けて中を見なければ、名賀のことを知らなければ、双子は愛されて大事にされていると勘違いしながら生きて行けた。
 たとえ早死にしたとしても、それまでは幸せだったのかも知れない。
 だが知ってしまった以上、彼女たちは今からありとあらゆることに怯えなければいけない。本当は大切になどされていなかった自分たち。生け贄として死んで逝った親族たち、そして自分のどちらかが子どもを産めば片方が死ぬ現実。
 それ以前に、自分たちに子どもを産ませるために、誰かが襲いかかってくるかも知れない怖ろしさ。
 伯父のあの反応を見る限り。名賀の家に者はきっと双子に子どもを産ませるつもりなのだろう。名賀の繁栄のために。
 おぞましいその思考が透けて見える。他人であるはずなのに尚基の心臓まで冷えていく。
「……愛里、ねえ」
 怯えていたはずの双子の片割れ、おそらく愛里ではないから愛良が何かを思い出したようだった。
「貴方……遅れてるって、言ってたよね?」
(遅れてる?)
 それが何のことなのか分からなかった。だが佐浜だけは「え……」と驚愕の声を上げては、後ろへと一歩下がった。
 その反応から、何かが起こる。とても良くないものが来る。
 それだけは分かった。
 愛里は愛良から手を離しては、引き寄せられるように顔を上げた。その視線の先に山野がいた。
「山ちゃん……」
 恐怖ではない何か。懇願するような色を瞳に宿して愛利が山野を見上げる。けれど見られた山野はびくりと肩を跳ねさせては、愛里の恐怖が伝染したかのようにひぅと息を呑んだ。
「いや、そんなの、俺に言われても」
「なんで山ちゃんに訊くの?何の関係があるの?ねえ、愛里」
 ぼそぼそ後ろめたそうに喋る山野に、愛良が表情を消した。怯えていたはずなのに、一瞬にしてそれが消える。
 目を見開き、何を考えているのか分からない無表情にも見える顔で片割れを見詰める。凝視するその視線はまるで刃物のようだった。
 たった一言。それでこの子は恐怖をも塗り替える何かを察したのだ。
「まさか付き合ってないよね?」
「いや、俺たち」
「付き合わないって言ったじゃない!!」
 激高する声は部屋に響き渡り、凍り付くような空気が一変する。棘だらけの雰囲気は愛良の怒りそのものであり、真っ向から向けられている山野は目を逸らして汗を流している。
(山野は、愛里を選んだんだ)
 双子のどちらからも好意を向けられているが、山野は選べないから曖昧にしていると思っていた。だが山野からちゃんとそれを聞いたわけではなく、尚基の想像だった。
 結論はとっくに出ていたのだ。
 周りがそれを知らないだけ。
(じゃあ、遅れてるって……)
 最悪の想像が頭を過ぎる。
「私が山ちゃんを好きなのは知ってるでしょ!?」
「知ってるけど……でも」
「なんで!?どういうこと!?」
 二人ならば生きていけると言わんばかりだった。気を失ってしまいそうな自分たちを、互いが支えてなんとか意識を保っていた。
 握り合っていた手を離すまいとしていたはずの二人が、今は音を立てて壊れていくようだった。
 詰め寄る愛良に、愛里は涙を浮かべて掌を向けている。距離をこれ以上縮めないでという態度が先ほどと真逆だ。
 山野が入った。それだけで二人の間にはこんなにもあっさりと亀裂が走るのか。
「待って、愛良…」
「まさか赤ちゃんが出来たわけじゃないよね!?ねえ愛里!!」
「そんなの、分からないよ……」
 完全に気圧されて泣きだしてしまう愛里を見て、それでも愛良は責める口調を和らげない。見ていられなくなったのか、山野が「おい」と控えめに声をかけただけで射殺しそうな目で睨み付けた。
「分からないって何!?二人には覚えがあるんでしょう!?」
 言葉に詰まる二人に愛良は愛里の肩を掴んだ。そして激しく揺さぶる。
「私が死んでもいいって言うの!?呪われて殺されてもいいの!?下ろしてよ!その子下ろしてよ!」
 殺してよ!!
 響き渡る罵声に尚基の耳を塞いだのはシロだった。正面に廻ってきては白い手で尚基の耳を押さえて微笑む。
「もう聞く価値はないだろう?」
 耳を塞がれ、他人の声は遠ざかり不鮮明になった。なのにシロの声だけは何の隔たりもなく鮮やかに聞こえてくる。まるで自分の内側から届いて来ているようだ。
 あやすような穏やかな音に尚基は頷き、目を閉じた。
 まぶたの裏には何も浮かんでくることはなかった。