きつねツキ2   九




 玄関のドアを開けて視界が暗がりに沈んだのに従うようにして、膝を折ってその場にしゃがみ込んでしまいそうだった。
 愛里の悲鳴と愛良の罵声。そして畳に転がった髑髏。老人の哄笑、伯父の逸らした瞳。呆然と立っているしかなかった赤の他人たち。
 名賀の家で起こった様々な出来事が頭の中に蘇ってきては、得体の知れないじっとりとした何かに捕らえられてしまいそうだった。
 目に痛いほど明るい真昼の陽光も、ただ気温を上げては体内から尚基を腐らせていくだけだ。汗で肌に張り付いたシャツが、まるで何かの束縛のように感じられて気持ちが悪い。
(疲れた。ぶっ倒れたい……)
 もう何も聞きたくない。見たくもない。
 何も知らないふりをしてベッドに潜って眠ってしまいたい。そして次に目覚めた時には今日の記憶を消されていることを祈る。
 そうすれば自分には関係のないことで意味のない罪悪感や、後味の悪い思いをしなくても済む。絶望に充ち満ちた瞳を忘れられる。
 狂気を、狂気と知りながらも振りかざし続ける人間の姿なんて、知りたくなかったのだ。あの箱を開けてから知らなくて良いものばかりが視界に映っていた。
「尚基」
 膝を折りかけていた尚基の前にシロがふわりと現れる。あの時と同じように白く長い髪をした青年の姿だ。美しいその容貌は微笑むと柔らかさが増して性別が少し曖昧になる。
「禊ぎをしよう」
「みそぎ?」
 突然何かを提案したシロは「うん」と頷いては尚基の手を取った。ひんやりとしたそれに導かれた先は風呂場だ。
 そこでようやく遅れて、禊ぎというものがどんなものだったのか朧気に思い出す事が出来た。確か水を浴びることではなかっただろうか。
「尚基の中には暗がりがある」
 シロは意外と真面目な顔でそう言った。それが良くないことであるのも、はっきり言われずとも感じられる。
 そしてやはりあんなものを見たからだろう、という疲労感がのし掛かってきた。
「だからお風呂に入ろう?さっぱりしよう?」
 禊ぎなどと言うから大袈裟で何か特別な感じがしたけれど、シロが言い直した表現に尚基は素直に「ああ」と返事が出来た。
 うんざりするような暑さの中、気まずさと妙な緊張感を抱いたまま四人で名賀の家を後にしたのだ。尾林や佐浜はともかく、山野にどんなことを話せばいいのか分からなくて、息苦しい沈黙を背負いながら帰って来た。夏の暑さと名賀の家で滲ませた冷たく嫌な汗。記憶は無理でもせめてそれだけでも洗い流したくなった。
「そうだな」
 自室に戻って着替えを取っては風呂場に入る。全裸になってキュと蛇口を捻ると不意にドアが開かれた。
「おい」
 音に予感した通りシロが平然と入って来た。狩衣はそのまま、そして青年であることも変わりなく堂々と歩いてきてはシャワーを浴びている尚基に抱き付いてくる。
「おまえっ」
「禊ぎを手伝ってあげる」
 じゃれつくようにして風呂場に入られたのならば、叩き出しただろう。入るなと言っただろうが!と怒鳴りつけもした。
 けれどそう告げて顔を上げたシロは真剣だった。シャワーに濡れていく白い髪は頬に張り付き狩衣が身体に密着していく。
 身体の線を完全に覆い隠している狩衣では、シロの体型はよく分からなかった。今だって着膨れと言っても過言ではないそれでは身体の線は見えない。
 それでも腕に張り付いた袖は、その細さを見せつけてくる。
「手伝うって……なんか良くないものが憑いてんのかよ」
 水音の中でぼそぼそと喋る。濡れていくシロを見ているのがやましいことであるような錯覚に襲われた。それでも頬を両手で包まれれば顔は動かせない。自分ではなくシロがシャワーを浴び続けているのが気になって、手探りでそれを止めた。
「憑いてないよ。そんなことはさせない。ただ尚基の中が澱んでいる。あんなものは見ないほうが良かったね」
 ごめんね、とシロのせいでもないのに謝られた。きっと止めておけば良かったとでも思っているのだろう。眼前にある瞳が哀しげに陰ったことに「いや」と否定はした。
 だがもし勘付いていたのならば、知りたくなかったという気持ちはやはりある。地元に帰ってくることに抵抗感が生まれ始めていたからだ。
 少なくとも山野と双子には二度と会いたくない。
「あれは、神様か?あの髑髏がそうなのか?」
 あんな禍々しい、人の頭蓋骨が神様と呼ばれて崇められるのか。むしろ正反対ではないのだろうか。
「あれは人柱のようなものだよ。願いを叶えるために人間は生け贄を捧げてきた。そしてそれは時に神様のようなものにも変換された。荒れ狂う未熟な神様」
「だから呪うのか?」
「若い神様は大抵みんなそうだよ。呪う、祟る、だから崇める。そしてその情けを請うて願いを託して、神様はそれに見合った情けをかける。そうして仕組みは廻ってきた」
 前に菅原道真の名前をシロから言われ、何故彼が奉られているのか知っているかと訊かれたことがある。
 都を祟ったからだ、怒りを静めるために人は崇めたのだと話されたことを思い出す。簡単過ぎる説明なんだけど、と言っていたのだが。きっと今話していることもそれに通じているのだろう。
「神様はみんな、そうなのか?」
 どこの神社にいる神様も、みんなそうして人を祟っていたのか。災厄をもたらしていたから崇められているのか。
(願いを叶えてくれるだけじゃないのか)
 優しさや情けや、慈悲深さばかりを思って来た尚基にとってはあまり考えたくないことだ。無償のものなんてこの世にはないのだと、せせら笑われているような気分になる。
「全てじゃないと思うよ。僕だって何もかも見えているわけじゃない。むしろまだまだ何も見えてないから。大きくなればなるほど本質も曖昧で分からなくなっていく。まして時の流れによって神様も世界も変わり続ける。ずっと同じでいることは出来ない」
 シロは苦そうに笑っていた。それが切ないのだと囁いてくるようだった。けれど口では異なることを告げる。
「それが生きているということ。神様も形はないけれど生き物だから、変わらずにはいられない」
「変化する、概念か」
 神様なんて物理的な質量があるわけではない。人の精神の中だけに存在する何かだ。形がない以上人々の中で流動していく。
 朧気な、それらしい印象を持ちながらも変化を続けるそれに、らしくなく堅苦しい表現が思い浮かんだ。
「難しい言葉だね」
 概念という言い方にシロは少し困ったような顔で小首を傾げた。それが黒髪の少年姿を彷彿とさせる。同一人物なのだから当然なのだけれど、青年のシロにあどけなさが欠片もないせいか、それまで別人にしか感じられなかった。
「……あの双子は、どうなるんだ?」
 争う双子を前にして他人はすごすごと逃げ帰った。山野だけは引き留められていたが、怖じ気づいて尚基たちと共に部屋を立ち去ったのだ。佐浜は「最低…」と零していた。
「さあ?僕には分からない」
 尚基の濡れた髪を撫でるその仕草にぞわりとし背筋が粟立った。尚基を見て、触れることだけに意味があり、他のことなど関心がない。それは名賀の家で双子たちの真実を聞いている時と同じ態度だ。
 知ったことか、とでも思っているのだろう。
「呪いとか、解けないのか?お祓いとか」
「祓えばあの家は没落する。それは他の人間が許さないだろう」
「俺は、あれはおかしいと」
 伯父が見せたあの保身と、双子を犠牲にしてでも繁栄を守りたいとばかりの発言は許せなかった。自分が良ければ双子がどうなっても良いと隠しもせずに表してしまうのだ。
(人間のやることじゃない)
 あの老人も伯父も鬼ではないか。いくらそこに気に入らない下女と見下す人の血が入っていたとしても。自分と同じ血は確かにそこにあるのだろうに。どうして見殺しのようなことが出来るのか。
「あそこまでくると祓うのもなかなかに難しいよ」
「そんな」
「尚基。全てを得ることは出来ない。繁栄も長寿も幸福も。全部を持ち続けることは出来ないんだよ」
「そうかも知れないけど、でもあいつらには何の罪もないのに」
「それは尚基が決めることじゃない」
 おまえが出て行くことではない。
 シロの台詞に、尚基はもっともだと思ってしまった。憤りがある、これで良いわけがないとも思う、哀れみだって溢れるほどに持っていた。
 けれど尚基には関係のないことだ。我が身に降りかかることもなければ、割り込んでいって何が出来るわけでもない。
 そして何も知らない。
 無力でしかない部外者が蚊帳の外で何をしていたところで、無駄でしかない。
 けれど割り切ることも出来ずに肩を落とすとシロが頬ずりをしてきた。
「尚基は優しい」
 嬉しそうにシロは言うけれど、返って棘を刺されような気持ちだった。
(優しくても何も出来ない)
 それが自分だ。
 打ち拉がれているとシロに唇を塞がれた。ひんやりとした柔らなそれは、驚いている尚基の口の中に舌を入れてくる。
「んぐっ!?」
 何をしているのかと思っていると、シロの手が尚基の下肢に伸ばされた。気持ちと同様に項垂れているそれを手で包んでは上下にいじる。
 片手は茎をしごいており、もう片手では双球を優しく揉みしだく。明確な愛撫に頭の中が真っ白になった。
「おま、何!?」
 はっと我に帰ってシロの肩を押し返す頃には、顔どころか全身が赤くなったのではないかと思うほど熱くなっていた。特にシロが掴んでいるそれは、さっきまでが嘘だったかのように元気に上を向いている。
(そういえば最近熱さでだれてて、抜いてない)
 そもそもシロがいるのが気になって、なかなか一人で処理もし辛い環境なのだ。尚基は基本的に始終溜まっている状態だった。
 それが人の手でいきなりしごかれたのだ、呆気なく勃つのは仕方のないことだろう。
「濡れ事にふけると一時的でも澱みは出て行く」
「嘘だろ!」
「本当だよ。性は神聖なものだと見なされている。人の本能を刺激して、生きようという意識を強くさせる」
 シロはからかっている様子もなく、むしろ冷静に説明をしてくれる。それが説得力を強めているようだが「そうですか」と引き下がれるわけもない。
「嘘だ!」
 いきなりシロの手に襲われるという事態に遅れて混乱が始まり、尚基は同じことを叫ぶことしか出来なかった。しかも脈拍は早まるばかりで、羞恥も嫌悪もどこにもない。
 それが最も危険だった。
「試してみればいい」
 形の良い薄い唇がついと口角を上げては掠れる声でそう告げた。艶やかなその笑みと声音に腰の辺りから力が抜けるようだった。甘い蔦が全身を絡め取っては、体内からくすぐるように尚基に接触してくる。
 それはこれまで味わったこともない、甘美な快楽だった。
「シロ…っ」
「何も言わないで」
 言わなくていいからと、尚基の肯定も否定も止めるようにまた口付けてくる。手は容赦無く尚基のものを愛撫しては、優しく擦ってくれる。
 身体と本能はその手から与えられる悦に素直で、欲情を高めるばかりだ。しかもシロはその気持ちが読めるのか、欲しいと思った刺激をすぐに与えてくれる。もっと先をいじって欲しいと思えば指で円を描くように撫でてくれ、痺れるような感覚に吐精が近いと感じれば片手で茎の根元、もう片方と先端を、それぞれ的確に慰めてくれる。
 自分の手のような心地良さ、だが自分の意志よりも強く気持ち悦い部分を教えてくれる。
「ふ、っ……っんん」
 息が上がって呼吸が乱れるが、それすらシロの口に吸い取られる。何もかも暴かれていく様が怖いはずなのに、気持ちが悦い。
(これ、駄目だ。気持ち悦い、シロ、シロっ)
 こんなものは知らない。
 衝撃と共に尚基の茎は呆気なく腰を震わせながら白濁を吐き出す。シロは放たされたそれを欲しがるように、優しく最後まで絞り出してくれる。
「は、あ……っあ」
 息を止めて短距離を走りきったような脱力感と息苦しさに、尚基は大きく口を開いて酸素を求める。
 自分ではなく他人の手でイかされる、初めての体験にかなり遅れて羞恥心が込み上げてきた。
(俺は、何をしてんだ!?)
 押し流されたとは言え、シロに愛撫されてそのまま出してしまったのだ。駄目だと良いながらろくに抵抗もしてなかった。
「し、シロ!」
 ここはシロを叱るべきか、それとも言い訳でも言うべきなのだろうか。分からないままとりあえず呼ぶと、シロはゆっくりと顔を上げた。
 蜂蜜のようにとろりと溶けた瞳、潤んだそれが酷く扇情的で思わず息を呑む。出したばかりですっきりとしているはずの下肢が、再び疼いた。
 だがシロは目が合うと気が抜けたようにふにゃりと笑った。あどけなさがそこには色濃く表れていて、目の前にかかっていた靄のような情欲が引いていく。
「お…おい」
「尚基」
 妖艶な容貌の人がそうしてあどけなさと脱力した無防備さを見せるのも、それはそれで目を奪われるものがある。まして身体を猫のように擦り付けてくるのだ。
 ぞわぞわと肌が粟立っては良くない感覚が戻ってくる。
「気持ちが悦い」
「え?」
「尚基が気持ち悦いと、僕も気持ちが良い」
 蕩けた笑みと共に告げられる気持ち悦いという言葉に、息が止まりそうだった。だが愛撫をされたのは尚基であってシロではない。むしろ体感はないはずなのだが、どうしてまるで自身が絶頂を味わったような表情なのか。
「なんで、おまえまで」
 こくりと喉を鳴らしながら問いかけると、シロは瞬きをしてから首を傾げた。濡れた睫毛が雫を落としてはまるで泣いているように見えて、心臓が跳ねる。
「なんでだろう。繋がっているから?」
 曖昧な返答と共にシロの腕が首に回される。抱き付いてくる身体に尚基の手が彷徨う。抱き返して良いものなのだろうか、それともこれはいけないことなのか。
 しかし悩むよりも先に指先はシロの髪の感触を得る。
(俺は……?)
 どうしたいのか。
 そんな淡い疑問を砕くように、携帯電話が着信を告げる音が聞こえてくる。自室に置かれているが、ドアが開けっ放しであるため風呂場まで微かに聞こえてくるのだ。
 はっと尚基が気が付いた時には、先にシロが身体を離していた。
「取ってくる?」
 気持ち良さに包まれて溶けそうだった人とは思えないほど、しっかりとした口調と眼差しでそう尋ねてくる。まるで先ほどの甘やかさが夢であったかのようだ。
 切り替えの速さに呆気にとられて、ぼかんと口を開けて固まってしまった。
「携帯電話は、濡れるの駄目?」
「駄目……だな。後でかけ直すから」
 誰からの電話かは分からないけれど、こんな混乱した頭を持った全裸の状態で会話をしたいとは思えない。
「それより、もういいだろ」
 禊ぎというものがどんなものなのかよく分からないけれど、これ以上のことは勘弁して欲しかった。シロが何をするのかも恐ろしい、そして自分がどうなってしまうのかも知りたくない。いっそ禊ぎなんてしなくてもいいと思えるくらいだった。
「うん」
 シロは満足そうにそう頷いては風呂場を後にしようとする。びしょ濡れのままで良いのかと思ったけれど、姿を消してしまえば濡れていようが乾いてしようが関係ないだろう。実際その場で幻のように掻き消えた姿は、足下に何の痕跡も残っていない。
 だがシロがここまで容易に引き下がるとは思っておらず、自分で言ったくせに尚基はシロの名残を探してしまいそうだった。
 あの尻尾を掴んで、そして。
「俺は……」
 嬉しそうなシロの微笑みが焼き付いて離れなかった。