きつねツキ2 七 悲鳴と驚愕の怒声が響き渡る部屋の中、尚基の視界は白い手によって塞がれた。 背後から回されたそれはシロの手だ。 ふわりとした手はあまりに軽すぎて、おそらく無理にまぶたを上げる事が出来る。その不安定さが、この世に本来ならば存在していないシロの危うさだ。 「あまり見てはいけない」 耳のすぐ近くで囁く忠告に、抗うつもりはなかった。 直視してはいないけど、畳の上に転がったのは間違いなく人の頭蓋骨だ。それをまじまじと眺める趣味はない。 だが何故そんなものが金庫に入っていたのか。その疑問だけは尚基の中で急激に膨らんでいく。 (神棚の下で奉られていた。神様のようなもの。それがあれ?) 髑髏が崇め奉るものなのか。そもそもあれは、誰の骨だ。 まともに見なかったせいか、尚基はあまり取り乱してはいなかった。シロの手の感触に自我を保っているのかも知れない。 しかし逃げ惑うような人の声がして、立ち尽くしているのも良くないとシロの手をそっと掴んで外すと襖が開けられる音がした。 ふとそちらを見ると杖を突いた老婆が立っていた。 白髪で腰は曲がり、ゆったりとした服装はワンピースに似ている。年は八十か九十か。おそらく双子が言っていたおばあさまはこの老人なのだろう。 金庫の中身が出てきたことに、老人も悲鳴を上げると思った。これほどの年寄りならば衝撃的なものを見せると血圧が急激に上がって倒れるのではないか。 そう危惧していると、老人は畳の上にある髑髏を見て突然笑い出した。 「ははははははは、開けた!開けてしまった!」 哄笑は大きく、小柄な、子どものように小さな身体からこれほどの声が出てきたことに面食らった。 まして笑っているのだ。 あまりにも異様な反応に、老人以外の全員が凍り付く。まるで時が止まったように微動だにすることなく、ぎょっとした目で老人を見ていた。 「浅ましい好奇心に釣られて!馬鹿が見てしまった!あれほど見るなと言うたのに!そんなことすら守れない痴れ者!」 双子に甘いおばあさま。何をしても結局は許してしまうおばあさま。人の良い、優しそうな祖母を想像していたが、それを粉々に打ち砕いては狂気から感じる声でそう言い放っていた。 双子を罵るその様はむしろ鬼のようだった。 皺だらけのその口から牙が見えるのではないだろうか。 「やはり婢女の血!召奴のすることよ!」 ははは、とまた老人は笑い出す。愉快で仕方がないというような様子に、誰一人口を開けない。ただ食い入るように見ているだけだった。 (はしため、めしうど?なんだ、それは) 初めて聞く単語であり意味が分からない。けれど良くない意味なのだろうということは、吐き捨てるような老人の言い方から明らかだ。 「お、おばあさま?」 「これ、これは?」 双子たちは自分が何を言われているのか理解出来ないだろう。むしろ理解を拒絶しているのかも知れない。強張った、どうして良いのか分からないというような顔で老人を見上げては説明を求めていた。 今にも泣き出しそうな顔に、老人は笑みを消して酷く冷たい目を向けた。 「おまえたちの曾祖母の髑髏よ。下働きの卑しい女の骨」 見るのも汚いと言わんばかりの視線で老人は不愉快そう喋っていた。まるで双子が汚物であるかのようだ。 (可愛がってるんじゃないのか?) どうしてそんな顔をするのだろう。 常はこんな風ではないのだろう。その証拠に双子が困惑したまま呆然と老人を見ている。一体どうしてこんなにも冷酷な態度なのか。 この頭蓋骨が出てきたせいなのか。 「おまえたちはね。義理の姉様が生んだ子ではない。私の兄様、当主様が当時手を付けた下女の生んだ子どもの子孫だよ」 双子は老人が告げた真実にぽかんと口を開けた。間抜けにも見えるそれは自分たちの出生を知らなかった証だろう。 「おまえたちは当主様が手を付けた下女が産んだ子ども。義姉様にはどうしても子どもが出来なかった。好色だった当主様は苦しむ義姉様を見ながら他の女に次々手を付けたの」 昔、まして名賀ほど大きな家ならば跡継ぎ問題はかなり深刻だったのではないだろうか。当主の妻が子どもを産めと言われるプレッシャーは、それは苦しいものだっただろう。 だからか老人は怒りを込めて、棘のある口調で喋っている。 「その中でも一番気に入られ、子どもを家の中で産むことを許されたのがおまえたちの曾祖母。当主様のお手つきだなんて叩き出されるのが筋なのに、平然とこの家に居座った恥知らず」 老人はその恥知らずが双子であるかのように睨み付けている。老人だというのにその目つきはぎらついており、憤りが強く滲んでいる。 何十年も前の話が、この人の中ではまだ生きているのだ。 「その上当主様は子どもが他にいないからと、その下女が産んだ子どもを跡継ぎにすると仰った。母は卑しくとも当主の血を継ぐ子ども。血を継いだ者が名賀を継ぐべきだと」 名賀は男だけでなく女にも相続が許されている。血が左右する家なのだと聞いていたけれど、それは母親の身分すらも関係がなくなるらしい。 けれど老人にとってそれは到底歓迎は出来ないことであったようだ。 「私も義姉様も反対をした。だが子を産まぬ妻に当主様は冷たかった。それに義姉様も名賀の家のことをとても思って下さっていた。この家に嫁ぎ、この家を守り立てるようにと子どもの頃から決められていた許嫁だったのですもの」 当主の妻である義理の姉を慕っていたのだろう。自分の兄である当主よりもずっと義理の姉に対してに感情がこもっている。同性だからというのもあるのかも知れない。 「その義姉様が下女の子どもに名賀の家を盗られる苦しみはどれほどのものだったか。当主様が跡継ぎを決めてから義姉様は壊れてしまわれた。日がな一日ご自分のお部屋に籠もられて食事もろくに取らず」 可哀想なことを語っているはずなのに、老人はうっすらと笑った。その笑みが不気味で、背筋に冷たいものが這い上がってくる。まるで蛇でも上ってくるようなおぞましさだった。 「そしてある日、おまえたちの曾祖母の首を切り落とした」 そう言って老人は頭蓋骨を見たようだった。だが尚基はあえてその方向へと視線を向けることはない。シロが直視するべきではないと言った以上。まともに見る気にはなれなかったのだ。 何か良くないものがそこから襲いかかってきそうで恐ろしい。 「それが……これ?」 「これが、私たちの、ひいおばあさま?」 強張った双子たちの声に老人は笑みを深める。 「名賀の家のために子どもを産むこと、跡継ぎが持つことが正しいのであればそう致しましょう。名賀のためにどんな女の子でも跡継ぎにさせます。けれど役目を終えた者はいらないでしょう」 老人はそれまでと異なり、はきはきとまるで台詞を朗読する女優のように語った。それは義理の姉を真似ているのだろう。見たことも知る術もないその義理の姉が背後に映っているようだ。 「そう仰り、微笑んでおられた義姉様はまるで神様のように綺麗だったわ。それまでげっそりとやつれておられたのに、見違えたようだった」 義理の姉についてそう語る老人は恍惚としていた。憧れの存在というよりも崇拝に近いものを感じる。人の首を切り落とした義理の姉に対して、恐怖よりも先にそんな感情が立つこと自体信じられない。 (なんだ……この人は) 人殺しをどうして崇めるようなことが言えるのか。何故敬意を示せるのか、しかも未だに。 狂気を漂わせては微笑み続ける老人に、尚基は内臓が冷えるような恐れを覚える。このままここにいてはいけないような気がした。けれど足が縫い付けられたように動かないのだ。 誰一人微動だにすることが出来ない。 それだけの異様な空気がこの場を支配していた。 「尚基」 精神的な圧迫を感じて浅くなっていく呼吸を心配したように、シロがふわりと背後から抱きついて来た。 爽やかな、真昼の森の中にいるような香りがふわりと鼻孔をくすぐっては尚基の意識を正常な位置まで持ち上げてくれるようだった。 「まともに聞いてはいけない。尚基には関係がないのだから」 何だったらここから出て行こうかと囁いてくれた声は優しく。それだけで揺さぶられていた神経が凪いでいく。深呼吸をしては首に回されたシロの腕に触れる。 自分だけにはちゃんと感じられる腕の感触。むしろそれは不可思議なことであるはずなのに、自分が見ている何よりも現実めいていた。 神使が自分を正気の世界に留めてくれるだなんて、そのこと自体がおかしい。 「な、何故、その、切り取った頭蓋骨を金庫の中に入れていたのですか?」 伯父は驚愕を引き摺りながらも自分の祖母に問いかけた。衝撃はあるものの、双子ほどの衝撃は受けていない。双子の出生についてはもう知っていたのか、それとも自分ではないからさしてショックでもないのか。 老人は自分の孫に対しては眼差しを和らげた。 「名賀の繁栄と継続を願って、生け贄のようにして捧げたのよ。義姉様の恨みと呪いを込めて、義姉様の血で怨恨の文字を髑髏に刻んでは神棚に添えたわ」 あの所々黒ずんだ茶色の染みは、義理の姉の血であるのか。 人間の血は鉄が多く含まれる。だから空気に触れればあんな風に酸化してしまうものかも知れないけれど。髑髏に血が塗り込められたかと思うと、あまりにも禍々しい。 そこまで人を狂わせる衝動に、思わず口元を覆った。 吐き気がする。 「なんて、そんなこと!」 「殺された人がうちを繁栄させてくれるわけがないよ!」 尚基にしてみれば当然の発言だったのだが、シロは背後でくすりと笑った。 それに連なるようにして老人は双子を蔑んだ目で睨み付けては「馬鹿な子」と呟いた。 「本当に頭が空っぽ。名賀の家で育ったのにこの有様。やはり血が悪いのかしら」 自分たちにとってみれば真っ当な疑問であったはずだ。なのにこれほど冷たく切り捨てられるのが理解出来ないのだろう。双子たちはくしゃりと表情を歪めた。 「どうしてそんなことを言うの?」 「優しいおばあさまはどこに行ったの?」 これは夢か、もしくは目の前にいるのは自分たちの知っているおばあさまではない、別人だ。そう双子は思いたかったのだろう。 だが誰も双子の願いは叶えてはくれない。それどころか鼻で笑われた。 「優しい?そうだろうね。馬鹿なおまえたちはそうやって甘さを見せておけば何も知らずに大きくなって、そのまま地獄に墜ちると思っていたのさ。心の中ではいつだって反吐が出ると思っていた」 可愛がっていた、甘やかしていた。その双子に向かって言うには辛辣過ぎる言葉たち。ある意味老人は双子に対して最大の復讐をしているのだろう。 かつての義理の姉が味わった屈辱を子孫で晴らしているのだ。当時の下女の首を切り落としただけでは恨みは尽きないのだ。 人間の、闇だ。 老人を見ているのも辛くて視線を彷徨わせると、他人である他の人間は呆気に取られたまま硬直していたけれど、伯父だけは自分の祖母を諦めたように眺めていた。 (知っていたんだ……) この人だけは祖母が双子を快く思っていないこと。むしろ憎んでいる事を知っていた。双子を騙していることも分かりながら、それを正そうとも、双子に教えようともしなかった。 自分もまた双子を可愛がって甘やかして、何も知らない無知な様を観察していたのだろう。 (なんだよこの家は……) 家族ではないのか。信じ助け合う関係ではないのか。 まるで足下に仄暗い穴がたくさん開いた化け物屋敷に迷い込んだようだった。 次 |