きつねツキ 9 歩き続けていると、しっとりと汗ばんできた。 太陽が出ていたとしても山の中では直接日光を浴びることはない。 まして土の上にいると、アスファルトのように反射熱もなく涼しいものだった。 暑いのは、身体が体温を上げているからだ。 しかし呼吸はまだ乱れることはなく、淡々と上り続ける。 案の定人気はなく、山道に入る前にあった社にも人の気配がなかった。どうやら無人のようだ。 尚基は人間嫌いというわけではない。 けれどこうして歩いている際、誰もいない状態というのは非常に心が落ち着いた。 精神が澄んでいくようで、心地良い感覚だった。 その気持ちのまま歩いていると何かに足を取られた。 (ん…?) 足下を見ると石やゴミがあるわけでもなく。平坦な土の道であった。 尚基の足取りを乱そうとする物など一つも見当たらない。 気のせいだと思った。何もないところで躓くなんて疲れているのか、それとも集中力が切れているのか。 しかし足腰も軽やかなものであり、これまでの自分を考えるとまだまだ余裕があるはずだ。 (まぁいい) 気にすることでもないかと思ってそのまま進んでいると、また足を取られた。 しかも足首を捕まれたような感触を得たのだ。 これにはさすがに異様だと思った。 機嫌良く鳴いていた鳥の声も遠く、じわりと冷たい汗が背中に噴き出す。 (おかしい) 普通ではない何かがあった。だがそれが何か分からない。 恐怖を覚えて立ち止まると、周囲がくらりと一気に薄暗くなった。まるで夕暮れを過ぎた宵のように。だが時刻はまだ午後二時過ぎだ。 現に先ほどまで木々の隙間から陽光が零れ落ちてきていた。ステンドグラスの輝きのようなそれは決して夕刻のものではなかったのだ。 こんなことは有り得ない。 「何だ……?」 異常事態に周囲を見渡す。 呆然としていると木々の隙間にぽわりぽわりと火が上がった。 唐突に現れたそれは火の付いた矢を幾つも放ったように、四方に出現した。 木々に燃え移り、煙が上がっていく。 「ちょっ……何!?自然発火!?」 有り得ないだろう。こんな時期にこんなところで。しかも何から発火したかも分からない。 突然山火事が始まるなど、一体どうなっているのか。 しかし燃え盛る炎が理性的な答えをくれるはずもなく、巻き込まれる前に逃げようと思った。 当然の判断だろう。自分が登ってきた道を駆け下りようとして踏み出した足下には何かが絡みついた。 「なっ!?」 またか!と苛立った声を上げようとした尚基の目に見えたのは、小さな手だった。 何本も、枝のような手が土から生えては足首を掴んでいる。 現実の光景ではない。 土の中にあるものはいきなり動き出して人の足首を掴んだりはしない。まして人の手であるような形をしているなど、あって良いはずがない。 けれど確かに地面から生えているそれに戦慄が走った。 締め付ける力の強さ、そして視界に飛び散る火の粉。 意識が暗闇に捕らわれて呼吸すら殺されていくようだった。 やばい、と思った時にりんっと鈴が鳴った。 尚基に纏わり付いているものたちとは違い、清廉で軽やかな音だ。 何の鈴であるのかは即座に分かった。それは携帯に付けているストラップに付属されている鈴だ。 狐面に付いてる小さな鈴。 それを合図にしたように白い影が周囲に走った。 四つ足で駆けているそれは獣の影であるようで、風を切る気配を感じる。 何匹いるのか、目視出来ない速さで過ぎる影を数えることは出来ない。だが狂ったように燃えていた炎の勢いが収まりつつあるのが見て取れる。 この状況を救おうというのか。 「……どう、なって」 いるのかと掠れた声で呟くと、目の前に一つの姿が現れた。狐が出てくる時もそんな風に唐突だからまたやってきたのだと思った。 だがそこにいたのは一匹の獣だ。 真っ白な狐が座っている。しかも牛ほどの大きさがある。 「……狐」 その耳や尻尾は見覚えがあるけれど、シロはそれほど立派な大きさではない。そして狐は全身の毛並みを逆立てているようだった。 牙を見せずとも、激怒していることは激しく漂ってくる怒気からして明らかだった。 そしてまさに自分の怒りを示さんとするように膨らんだ尻尾が地面を叩いた。 地響きは見ている者の肺にまで届くような振動の強さだ。 世界が震えた。 (……これは、何だ) 朝目覚めてシロがいた時にも、信じられない気持ちで現実を否定したくなったものだが。今ほどではない。 見上げなければならないほど巨大な狐がいるなど、ましてそれが金色の瞳で自分を見下ろして来るなど。 食い入るように見つめていると、その狐は立ち上がってはおどけるようにくるりと宙を一回転した。 その仕草は何度も見たことがある。シロがやる行為だ。 それをした後のシロはよく衣服を変える。初めて出てきた時は真っ白な狩衣だったのだが、物々しすぎるということでもっと軽い服装にしろと言ったのだ。 すると服を変えていた。 だが尚基の記憶とは違い、下りてきたのは獣ではなく人の形をしているのだがシロとは言えなかった。 黒髪ではなく真っ白な髪の男だ。 青年と言えるだろう年の男は長い髪を下ろしたままにしており、切れ長の瞳でこちらを睨み付けている。 ぞっとするほど怜悧な容姿だった。綺麗なのだが身に纏っている憤りのせいで一層その美麗が鋭く尖っているようだ。 (……まさか、なのか…?) 知らぬ顔だと思いたかったが、それはあの狐の面影を残している。 あれが後十年ほど経てば、これほど美しい者に育つのかも知れない。 だが普段はふわふわと柔らかな表情を浮かべているのだが今は恐ろしいほどに冷たい。 「痴れ者がっ!吾がおると知りながらの戯れ!許すことは罷り成らぬ!」 激しい怒声は空気を割るのではないかと思うほど響き渡った。声量が大きすぎるのではない。もっと別の力が精神を揺さぶるのだ。 その声に足首を掴んでいた手が消える。 「まして焔など片腹痛い!真の炎を眼に焼き付けるが良い!」 木々を燃やしていたはずの炎に白いものが混じる。いや、白い炎が赤い炎に齧り付いていた。 赤い炎はその白く揺れる光、白い炎に食われていく。 もがき、痛みに逃れようとするかのように震えている。 だが白い炎は激しく燃えていく。しかし燃えているはずなのにやけに冷たく感じる。 色のせいだろうか。赤い炎より冷徹で非情に見える。 「言い訳など聞かぬ!吾が宿り主を一時であろうが手を出そうとしたのだ!伏見の狐を侮辱することは許されぬ!」 この周囲を真っ白に染めるのではないかと思うほどの白い炎、あれは狐火と言うべきなのか、は広がっていく。 憤りを抑えられないらしい狐を前にようやく頭が動き出した。 宿り主、伏見の狐。それが示すのはやはりシロだった。 「……シロか」 からからに乾いてしまった喉から辛うじて声を出す。 いつも見ている、時々実体を持つあの子どもなのか。 そう問いかけた。すると冴え渡る美貌の青年はいきなりはっと我に返ったかと思うと申し訳なさそうに表情を変えた。 切れ長の瞳は先ほどまで何かを視線が殺さんとばかりに刃のように尖っていたのだが。途端にあの少年のように穏やかなものになった。 情けないとも言えるその変化にやはり同一人物なのだと知る。 しかし黒髪からいきなり白い髪になるとは。正反対ではないか。 「……驚かせてすまない」 シロは近寄ってきては耳をへたんと寝かせて尚基に謝ってくる。 部屋の中でドジをした時に見せる表情と全く同じだ。 そのことに安堵してしまう。緊張と恐怖で固まっていた肩もすとんと落ちる。 「だが、だがあれはおまえに悪さをしようとしたのだ!しかも僕を下等な狐などと勘違いしていた!」 狐には狐の矜持があるらしい。寝ていた耳が再びぴんっと立っては尻尾が更に膨らんでいく。 「下等な狐をからかってやろうなどと、そんな声を響かせていたのだぞ!どれほど縊り殺してやろうと思ったことか!」 金色の双眸がまるで刃のように尖っていく。 「いくら僕がみそっかすでも、伏見稲荷で白の末端に座っている僕が下等などと言われるのは我慢出来ない!まして尚基にちょっかいを出すなど!」 話を要約するとここに何かいたらしい。尚基の足を取ったのはそれだろう。 それはシロに対して下等な狐というようなことを言ったらしい。そんなことは尚基の耳には聞こえないので何とも言えない。 しかしそんなことを言っただけでなく、尚基に手を出そうとしたのでシロは激怒したらしい。 (俺がさっき何かに掴まれたのは錯覚でも幻覚でもなかったってことか) シロと同じような世界にあるもの、なのだろう。 それにしてもシロもこんな姿を持っているのか。 視線を逸らすことが出来ないほど綺麗な顔をしている。 十二、三の子どもであるのならばともかく、成人しているだろうと思われるその姿は男だとはっきり分かる。なのに人間の男にはない繊細さというか、麗しい雰囲気があるのだ。 妖艶と言えば良いのだろうか。 ごく一部、限られた特別な女が持っているだろう魅力をシロは宿しているようだった。 目のやり場に困るほどだ。 「尚基は僕の宿り主!下賤な魂が寄るなど許されることではない!」 まして依るなど!とシロの感情は高ぶる一方のようだった。 だが尚基にしてみれば一体何に怒っているのか、全く分からない。 黙って聞いていたのだが、放置すればどこまでも一人で怒鳴り続けていそうな気がする。緊張状態が少し和らいでくると、ゆるゆると片手を上げた。 「それで、もう大丈夫なのか?」 現状の確認だけでもさせて欲しいと思って尋ねるとシロがはっと怒りから戻ってくる。 「もう大丈夫だよっ、焼き尽くしてしまったから。もう何もないよ」 口調は元に戻り釣り上がっていた眦も下りる。すると気弱な表情になった。 「あの……おまえと山に登っても大丈夫だって言ってなかったか?」 ここに来る数時間前にそんなことを聞いたような気がするのだが。あえて確認を取った朝の行動は全て無駄になっていないだろうか。 するとシロは泣き出しそうな顔で「あのね」と必死に言い訳を始めた。 「僕も大丈夫だと思ったんだ。大抵の神霊は他の神霊が依っている者を見て興味を示しても直接関わってこない。それは相手の神霊を激怒させることだと知っているから」 さっきまで啖呵切って怒鳴っていたのはどこの誰だったのか。まるっきりいつもの調子で青年が理由を喋っている。 叱られることに怯えている子どものようだ。 頭に二つあるふさふさの耳もへたりと下がっており。犬であったならきゅうきゅう鳴いているところだろう。 「でもそんな当たり前のことが分からない痴れ者。もしくはさっきの奴みたいに相手の力も計れずに手を出してくる者もごく希にある。けれど社がある場所であるなら、地霊がそれを許すはずはないのだけれど」 ここの地霊はどうなっておるのやら、とシロの目があらぬ方向を見ては眼光を鋭くさせた。 どこかにまた憤りをぶつけたいらしい。 「それは……どうだか知らないけど。あの炎消した方が良くないか?」 神霊だの地霊だのということは尚基にはよく分からない。これまでの人生にもなかったことであるし、深く関わりたいとも思わない。 それより今自分が見ている光景の方が問題だった。 赤い炎は山火事になると思って恐怖を感じたのだが。白い炎は赤が無くなるとふわりふわりと漂っているだけで、木々を燃やす素振りがない。 むしろどうしたものかと落ち着かなそうにあちらこちらにふよふよと動いている。 「け、消す!大丈夫だよあれは、他のものを燃やしたりはしない。僕はそんなことは決してしないのだから!」 慌ててそう狐が言うと白い炎はふわりと電源が切れたように消えていった。 派手な登場だった割に、消えていくのはさっぱりとしたものだ。呆気なさに驚いてしまう。 辺りが以前のように静かで平穏な昼下がりに戻ると、狐は怯えたような目でこちらを見て来た。 「いや……怒ったりしないし」 そんな涙目にならずとも、叱るようなことはしない。そもそも現実が認識出来ていないので怒るどころでもないのだが。 狐は怒らないと言うとぴんっと耳を立てて喜色を浮かべた。 安堵するその様に、敗北感を味わってはまた自分の日常が奪われていくのが分かった。 次 |