きつねツキ   10




 シロは山を下り始めると再び怒気を滲ませるようになった。
 こんなことになった怒りを再熱させているのかも知れない。
 尚基より一歩先を行く背中。
 自分より少しばかり小柄な体格。歩く度にふさりふさりと豊かな白い尻尾が揺れていた。
 これまで見て来たどんな動物よりも美しい毛並みだ。艶々と光を帯びている。
 触りたいと思ったけれど怒っているシロの尻尾を掴むのは、さすがに反感を買うだろう。
 白い狩衣は初めて出会った時と同じ格好。けれどその髪は黒であったはずだ。
「なんで、白いんだ?」
 白髪などではない。
 色も艶も失った、年老いたであろう人が見せる色ではないのだ。
 シロは髪はとても美しく木漏れ日に鮮やかさを滲ませている。生気の充ち満ちた色だった。
 銀色に近いのかも知れない。
 だが冷たさのない色彩だった。
 雪のような柔らかさがあるのだ。
 シロが振り返ると髪の毛も緩く波を打つ。
「これが本当の僕の色だよ」
 シロは自慢げにそう教えてくれる。
 そういえばシロは白狐だと自分のことを言っていた。だから本来はその姿なのかも知れない。
「でも現ではこの髪は珍しい。黒の方が尚基は馴染むかと思って」
「そうだな」
 初対面の時からずっとその白い髪のままであったのならば、幻の存在なのだと強く意識しては距離をもっと取っていただろう。
(でも耳と尻尾付いてること自体おかしかったんだが)
 その時点で異様であることは実感していた。
「親しみやすいのは前の姿だと思うんだ」
 微笑みながらそう言う狐に、尚基の視線が奪われる。
「そう、だろうな」
 これはあまりにも綺麗で、側にずっといれば精神が落ち着かないだろう。子どもの無邪気な様の方が一緒にいて楽だ。
「だからあっちにしていた。別に僕は己が姿にこだわるつもりは毛頭無い」
 そう言いながら歩くシロの足下には影がなく。足取りは静かで気配も感じられないほどだった。
 やはりこの世にあると思えない存在なのだ。
(俺の目は確かなんだろうか)
 もしかすると自分の中だけにある、妄想の産物ではないだろうか。
 幻覚に嘖まれているだけではないだろうか。
 そんな憂いを抱きながらも美しい目の前の狐に真実を尋ねる気にはならなかった。
 否、と帰ってくるのが明白だったからだ。
(シロが何を怒鳴っていたのかも分からないし)
 怒りを向けていたのはどんなものだったのだろうか。
「さっきおまえが怒っていたのは、どんな奴だ?」
「尚基が知る価値もないようなものだよ」
 シロは尚基の質問に冷ややかに答えた。
 それは尚基に対する憤りではない。だがそれでもぞわりと寒気が走るほどの激情だった。
「……でも、何がなんだか……」
 何も分からないままでいるというのは据わりが悪いのだ。
 自分の身に起こったこと何一つ把握出来ないというのは不安だった。
「そうだね。尚基も何も分からないままじゃ、困るね」
 尚基の表情が陰ったことに、シロも声を落とした。
 そしてふと立ち止まったかと思うと真面目な顔をした。
「ではこうしよう。尚基には今から少しの間だけ神様の声だけ聞こえるようにするよ」
「は?」
 神様の声、だなんて怪しい団体がよく使いそうな言葉だ。
 だがシロは神様の関係者らしいので。あながち嘘でもないだろう。それ以前にシロ自体があやしいものであることに変わりはない。
(神様の声って)
 不穏な単語ばかりだ。
 また一つ、訳の分からない混沌とした世界に近付いているのではないだろうか。
「何も分からずただ巻き込まれてそのまま終わり、では嫌だろう?」
「それはそうだが」
 だからと言って、いきなりそんなものが聞こえるようになるのか。
 素朴な疑問を抱く俺の耳のすぐ横に、シロが手を持って来た。
 けれど触れることはなく、尚基の鼓膜が一瞬ぼわんと耳鳴りのような振動を感じた。
 反射的に身体がシロの手が離れようとした。だがその時にはすでにシロの手は近くになかった。
「……何をした?」
「少しだけ、耳が拾う音の領域を広げただけ」
 簡単に言ってくれる。
 尚基は自分の耳に触れるけれど、感触に異変はない。
 そして聞こえてくる音にも変化はなく、耳鳴りもしていない。
 何かされたのだろうが、それが何であるのか感じ取れなかった。それが一層不気味ではある。
「大丈夫すぐに戻せるし、気持ち悪いことは何もないよ」
 平気だよ、とシロは優しく告げる。
 慰めるような声だが自分が把握出来ない状況に自身を置いているというのはやはり歓迎出来ない。
「社はこの辺りだったよね」
 困惑する尚基と違い、シロは悠々と前を歩いては来た道を戻り、山の隆起も多少緩やかになったところで社へと向かって行った。
 こぢんまりとして木々に埋もれてしまいそうな社だった。寂れてしまって、色褪せている。周囲には木の葉も散っており、近寄りがたい様子ですらある。
 あまり手入れがされているとは思えない社だ。
 見るからに閑散とした社へシロは大股で近付いていく。それまでしずしずとした歩調だったのが嘘のようだ。
「あの、喧嘩するなよ」
 見送る後ろ姿にある尻尾が膨張を始めたのを見て、ついそんな心配をしてしまう。
 子どもであったシロならともかく、その姿をしているシロが何をし始めるのか大変不安だった。またあの白い炎でも出すつもりだろうか。
 山の中ならともかく、ここでそれをされると物好きな人間がやって来てもおかしくないのだが。その場合どう誤魔化せば良いのだろう。
「僕は喧嘩なんてしないよ」
 そう言う声がすでに冷えているのだが、シロの自覚はないのだろうか。
 嫌な予感だけがある中、尚基が眺める先でシロは社の前まで行ったかと思うと。
 無造作に足を上げて社の扉を思いっきり蹴った。
「出て来やれ!!」
 空気を裂くような怒声だった。
 怒り心頭で今すぐ殴りかかってもおかしくないような剣幕だ。
(喧嘩しないって言ったばっかりだろ)
 数秒しか経っていないのにその言動はどうしたことか。
 ここまで来ると驚きを通り越して呆れるしかない。
「よもや知らぬとは言わさぬぞ!吾が宿り主に汝が配下が手を出しよって!」
(なれが配下……?)
 聞き慣れない言葉を使い、シロが怒鳴りつけている。
 なれ、という名前の神様がいるのだろうかと思っていると再びシロが扉を蹴った。
 見た目に似合わず荒々しいことをする。
「ちょっかいを出し、我をからかおうなど!斯様な侮辱は許せぬ!」
 神様と神使の喧嘩が勃発するのかと、何事が起きても驚愕しないように腹をくくっていると溜息が聞こえた。
 少し離れた、酷く朧気な音だ。
 どこから聞こえてきているのかは分からない。だが確かに尚基の耳はそれを拾い上げた。
『あいつは力も計れない雑魚だからなぁ』
 のんびりとした、気怠そうな声が聞こえてくる。
 男か女かも分からない。囁くような小さな声だというのに、何故か遠方から緩やかに響いてくるような感覚なのだ。矛盾している状況に尚基の頭が疑問符に満ちていく。
(……これが、神様の声だっていうのか?)
 シロは尚基の耳が神様の声を聞こえるようにしたらしい。ならばこの聞いたこともないような音が、神様の声だというのか。そういえば夢の中にいたシロの声も、これに似た感覚だったような気がする。
『大体うちの配下じゃねぇよ』
「配下でなくともここにおったではないか!」
 たわけたことをぬかすな!とシロはとても攻撃的な態度だった。
 相手がまた溜息をついている。
『勝手に住み着いたんだよ』
「排せ!」
 シロは地団駄を踏んで叱責している。しかし神様相手だというのにとんだ口調だ。
(これでいいのかよ)
 神様の使いが、神様に対してこんな態度で良いのだろうか。
 人事ながら心配してしまう。
「そもそも何たる体たらくか!この社の沈みは!」
 人気もなければ社に手が加えられている気配もない。
 野ざらしのようになっている社。
 こことは全く違う社にいたシロにとってみれば歯痒いほどかも知れない。
『伝統が廃れていってるんだよ』
 社がこうなっていることに苛立ちもないらしい。すでに諦めているのだろうか。
『ここに来るのはよほどの物好きか、いかにも散歩目当ての人間だけ。おまえの宿り主もそうだろう』
 信仰のためにここに来たわけではないのだ。
 尚基は初めから参拝ではなく、散歩のためだとシロにも言っていた。なので本当はここの神様に対して説教など出来る立場ではないのかも知れない。
『奉られるだけの威光を失いつつある。伏見の狐には分からんだろう』
 おまえとは違うのだと、社の神が告げる。
 信者に関して、大した知識もない尚基ですら。伏見稲荷の名前を知っている。
 正月ともなれば参拝で何万という人々が伏見稲荷を訪れるのだ。
 それだけあの神社には御利益があると、有り難い場所なのだと認識されている。
 神様に頼み事をする人間も無数にいることだろう。
 けれどここの社はとうなのか。
 一日も人が訪れないことすらあるかも知れない。
 比べる方が間違っているような状況だ。
「分からぬ」
 シロは社の神が言うことを否定しない。
 伏見の狐であることに矜持を抱くらしい狐は、この社などと同等にされること自体放つから考えもしないのだろう。
「何故信仰が落ちつつあるというのにじっとしておる。神ならばやることがあろう?」
 シロが腕を組んだのが背後からでも分かる。尊大な様だ。
「汝が神とされたのは何故だ」
 そこにいる神が、神とされたのはどうしてなのか。
(シロは知っているのか?)
 ここにいる神様が何故神様になったのか。
 そもそも神様はどうやって生まれてくるというのだろうか。
 尚基にとって神様というのは、何がどうなって神様になるのか、という想像すら許さないものだった。
 初めからそのようにして有るものだったのだ。
 生き物のように親から赤子として生まれ、育っていくようなものではないだろう。
 それこそ世界が存在していたのと同じように、神様はずっとそこに当たり前のようにあったものだ。
 むしろ世界より先にあったのかも知れない。
 だがシロはそれを覆すようなことを話しているような気がした。