きつねツキ   8




 春が終わり初夏になった。
 窓を開け放つと風が入り込んできては気持ちがよい。
 冷たくもなく、暑くもなく、肌より僅かに涼しいかという風は尚基にとっては四季の中で最も好きなものだった。
 午前の眩しい陽光が部屋にたっぷりと降り注ぐ。
 布団から起き上がると伸びをしてから押し入れへ寝具を突っ込む。
 実家にいた時はベッドだったのでこの作業がなかった。おかげで現在の生活の中で面倒だと一番強く感じているのは布団の上げ下ろしだ。
 万年床にしておきたいのだが、それでは生活空間が狭すぎる。
 今日のシロは気が付いたら部屋におり「おはよう!」と元気よく挨拶をしてくれた。
「はよ…」
 未だ寝ぼけているような尚基がそう返すと、満面の笑みを浮かべるのだ。
 それを見ると「まぁいいか」という気持ちになる。
 結局シロを切り離そうと思いながらも大して何もせず、現在に至っていた。
 大学とバイト、そして日常生活でそれなりに忙しいという理由もある。
 それより大きいのはいつの間にか馴染んでいたという、実に地味な理由だったりする。
 シロは尚基が洗面所に向かうと冷蔵庫のドアを開けたらしい。パカッという音が届いてくる。
 肌寒い春はコーヒーを飲んでいたのだが、気温が上がるにつれ飲み物を変えたのだ。
 そのため尚基は手早く身支度を整えてキッチンに顔を出す。
 シンクにグラスを置いて、牛乳パックを両手で持っているシロの姿を見守った。
 ゆっくり、慎重にシロは牛乳パックを傾けていく。
 白い液体がグラスにとぽとぽ入れられていくのを見ながら、尚基は静かにシロに近寄った。これを零されるのはさすがに勘弁して欲しい。
 時間を掛けてシロは丁寧に牛乳を入れていく。
(何故そんなに本気なんだ、そして何故全力……)
 牛乳を入れるという行動はそんなに気を遣うものであるのか。
 シロが見た目通りの年齢であったとしても、こんなに懸命になる必要はないと思うのだが。どれだけ不器用なのだと思いつつ、しかしこれまでも液体だの料理だの何だのと零してきた実績があるので、見ている側の油断は許されなかった。
 いっそ朝からこんなことしてくれるな、と思うのだが。本人が聞き入れない。
 何かしたい、尚基のためになりたい。
 そう必死になって訴えられると無碍にするのも哀れな気がしたのだ。
(目玉焼きだって作れないしな)
 御飯を作って与えるということが、シロにとっては重要なことに思えるらしい。
 なので何かと世話を焼きたがるのは主に食事なのだが。シロは目玉焼きも作れない。
 ガスコンロに掛けたフライパンの上に卵を割って入れるだけ。それだけのことなのだがシロは卵が綺麗に割れないのだ。
 やらせて見ると、見事に卵をぐしゃりと割って殻を大量に投入してくれた。
 三度やらせたところで尚基の方が音を上げたものだ。
 一人暮らしの食料は貴重なのだ。
「よしっ」
 牛乳はグラスの八割まで入れ終わり、そこでシロは牛乳パックの角度を元に戻した。
 これで牛乳の投入は完了だ。
 しかしここで安心してはいけない。まだ牛乳バックはシロの手にあるのだから。
 尚基が黙ってみているとシロはちゃんと牛乳を冷蔵庫に入れようとした。だが冷蔵庫に向かうたった三、四歩の間で躓きそうになるのだ。
 以前見事にすっころんだ時、この狐はドジの天才かと思った。
 けれど今日は無事に冷蔵庫に収納出来て、シロは自慢するようにきらきらした眼差しで尚基を見上げてきた。
「……うん、よくやった」
「うん!」
 何故こんなことで褒めなければならないのか。やや不条理なものを感じながらも、シロの期待を裏切るのも後ろめたくて褒めた。
 するとシロは尻尾を振って喜びを見せるのだ。
 その喜色を見ると「まぁいいか」とまた一つ腑に落ちないものが落ちていく。
 それにしても手間のかかる存在だ。
 憑き物というより疫病神かと思った日もあった。
 シロが何かすると尚基が後始末だの何だのをしなければならなかったのだ。
 だが泣きそうになりながらひたすら謝る姿や、被害の規模を計ると疫病神というにはインパクトも打撃も小さなものだった。
 昨日買い込んで置いた菓子パンを頬張りつつ、牛乳片手に畳の上にあぐらをかいた。
 ローテーブルを挟んでシロと向かい合う。二人にとってこれが自然な食事の光景になっていた。
 シロは今日も相変わらず嬉しそうに微笑みながら、尚基の食事を眺めている。
 笑っていることが多い狐だ。その分失敗した時に歪む表情が痛ましくて、同情してしまう。
 それこそシロの思う壺なのかも知れない。
「今日はどうするの?講義はお休みでしょう?」
 尚基がパンを食べ終わって牛乳を飲んでいると、そう尋ねてきた。
 平日なので入っていた講義が休講になったのだ。
 事前に教授が休みにすることを教えてくれていたため、今日は何をしようかと事前に考えていた。
「ああ、うん」
 菓子パンを飲み込んでから、尚基はシロを見つめた。
 昨日から聞こうと思いつつまだ言っていなかったことがあったのだ。
「シロ」
「はい」
 犬のような名前を呼ぶと、シロは満足そうに答えてくれる。それがまた犬のようだ。
「おまえさ、他の神社とか行けるのか?」
 伏見稲荷の狐だというシロを他の神社に連れて行っても大丈夫なのだろうか。
 自分とシロが別々になれるのならば、ここで留守番でもしていろと言えるのだが。尚基とシロは離れられないと聞いている。
 可能であったとしてもシロは聞き入れそうもないが。
「うん、行けるよ」
「お参りとかしても、平気なのか?近寄ったら喧嘩するとか」
「しないよ」
 冗談を言われたかのようにシロはからりと笑った。
 神様に関わっている者同士、反発するということはないのだろうか。縄張り意識のようなものもないのか。
 ついふさふさの尻尾や耳を見ていると、獣の感覚なのだろうかと思ってしまうのだが。それは失礼なことかも知れない。
「本来は」
「…本来は?」
 しないよ、とあっけらかんと言った割には、微妙な単語が付け加えられる。
「少なくとも僕から仕掛けるようなことはないし。僕がいるのに仕掛けてるくる者もいない、と思いたい」
 干渉しないことが決められているものなのかも知れない。
 もっと緊張感があり、ぴりびりしているものかと思った。
「そんなもんか」
「日ノ本には八百万の神々がおられる。気にするのも馬鹿らしいほどの数だからね」
「いえばそうか」
 日本は神様に関しては受け入れて自分の国に合うように変化させる民族らしい。
 宗教などもそうだ。クリスマスだってバレンタインだって、日本では微笑ましいイベントに変わっている。
 そういうところは懐が深くて、拒絶感のない土地なのかも知れない。だから神様たちもそうなのだろう。
「どこかの神社に行くの?」
「神社がメインじゃなくて、散歩に行こうかと思ってる」
 自分が行こうと思っている場所は神社ではあるのだが、別段お参りがしたいというわけてはない。特別そういう趣味があるわけでもなかった。
「散歩?」
「そう。山とか森とか、あんまり人がいなくて自然がいっぱいある所を一人で歩き続けるんだよ」
 ウオーキングだと言えばここのところ流行っているので健康的だね、なんて反応を貰うのだが。子どもの頃はこれが趣味だと言われると変な人扱いだった。
 そもそも散歩なんて大人のやることであって、遊び盛りの子どもが好んでやることではないと思われていたのだ。
 だが尚基は昔から延々黙って一人で歩き続けるのが好きだった。
 伏見稲荷のお山を歩いていたのも、そんな趣味があったせいかさして苦でもなく完遂出来たのだ。
「そうすると気分が晴れるし、頭が冴えたりするんだ。こう、身体の重いもんが落ちていく感じ」
 ランナーズハイのようなものだろう。
 マラソンなども嫌いではないのだが、集団で走るというのが嫌だった。他人の呼吸や存在が気になって集中出来ないのだ。
 もっと孤独に、淡々と、深くまで意識を研ぎ澄ませたい。それが気持ちが良いのだ。
「修行みたいなもん……じゃないんだけど」
 端で聞いているとそう思えるような行動だが、尚基としては全く逆だと思っている。
 身体は疲れるけれど、苦しみがなければ修行でも何でもないだろう。ましてこの行為に意味らしい意味はないのだ。
 無我の境地も人間として達観する考えもない。
 ただ面白いからやっているだけだ。
「……おかしいか?」
 黙ってしまったシロにそう尋ねると、シロは金色の双眸を細めた。
 獣の笑い方だ。
 しかし唇は理性的な、尚基がよく見ている人間の微笑みよりずっと整った静かな笑みが浮かんでいる。
 その違いに時折心が揺さぶられた。
 喜びか嬉しさか恐ろしさか不安か、自分でもその心の動きが何であるのか分からなかった。
「全然おかしくないよ。すごいね尚基は」
「は、何が?」
 何がすごいというのか。そしてシロは何故そんなにも不思議な微笑みをたたえているのか。
 この狐は今何を考えているのだろう。
 普段は手に取るように感情が読み取れるのに、急に暗闇の向こう側に立たれたような錯覚に陥るのだ。
「ううん」
 その言葉を訊いてもシロは首を振った。
 そして「そうか」と唇だけで紡いだようだった。
 何を噛み締めたのか、やはり尚基には分からない。
(やっぱりこいつは人間じゃないんだ)
 他の人の目には見えない。突然現れて、突然消えていく。そんなところからも人間とは違うと感じていたけれど。
 こうして圧倒的に届かない距離に何かを持っているのだと察せられた時の方が、シロが人ではないということを痛烈に感じた。
「それで、どこに行くの?」
 シロはあの笑みを消して、無邪気な声でそう言った。
 そんな微笑みはありませんでした、と尚基に言い聞かせるような顔だ。
「こっから自転車で二十分くらいの山」
 少し距離のあるその山は、小さな神社が置かれてる。
 ここに引っ越してきて、稲荷に行く前に訪れたことがあるのだ。
 いい山だと思った。散歩するのに丁度良いと判断したのだ。
 主にその寂れた感じと、人が入ってこないだろうという静寂が気に入った。人家からも距離があったので、まさに理想的と言える。
「そう」
 シロはそれがどこなのか知っているのか知らないのか。あっさりと頷くだけだった。
 尚基がいいならいいよ、でも言い出しそうな態度に、むしろ気を遣ってしまう。
「問題ないのか?」
「ないよ」
 本当に良いのだろうかと思う尚基に、シロはまた笑みを見せた。
 老成した者がまだまだ幼い子に見せる、悠然とした慈愛を滲ませるような笑みだ。
 全くもってこの狐の本質が見えない。
 子どものようなのか、それとも老獪であるのか。
 これも化かされているということになるのだろうか。
 何とも言えない居心地の悪さに牛乳を飲み干した。