きつねツキ   7




 大学には自転車で通学している。
 それが出来る距離にアパートを借りたのだ。というか一人暮らしをするならば自転車で通える物件であることが必須だろう。
 家賃もかかる上に交通費までかかるなんて冗談ではない。
 親から仕送りをして貰っているけれど、出世払いで全て返すように言われているのだ。
 気楽な生活をして金を使い続けると後で自分の首が絞まるだけだ。
 大学の長椅子に座り、講師が来るのを待ちながら尚基は携帯電話を取りだした。
 マナーモードであるかちゃんとチェックした。
 もし講義中に携帯の着信を鳴らすようなことがあれば即座に退室させられるのだ。当然本日の講義の出席は貰えない。
 講義中に寝ることは注意しない。けれど騒音を出すことは許さない。もちろん私語も禁止。それが守れないのならば出席しなくても結構。単位は他の講義で取りなさい。
 それが講師の姿勢だった。
 学生が受講をする、最低限のマナーだと公言する講師の講義はなかなかの人気であり。中身も面白い。
 この分退室をする生徒が後を絶たないのも、頭の痛い現実のようだった。
「それまだ付いてんの?」
「あん?」
 いきなり声をかけられた顔を上げる。
 赤フレームの眼鏡をかけた男が隣に座ってくる。
 関西弁のイントネーションで喋ってくるのだが、この大学、というかこの土地では当然の口調であった。
「狐」
 ストラップの狐面を指摘されて、尚基の視線もそれに落とされる。
「伏見稲荷に行った時に買ったやつやろ?もっとええのあったやろうに」
 黒い携帯電話には他にストラップは付いていない。
 ストラップなどというものは一つ付いていれば充分なのだ。むしろ携帯にストラップなんていらないくらいだ。
 ただそれだと携帯電話をジーンズのケツから取り出す際に掴むところがなくて手間になるから、適当な物を着けてきた。
 なので愛着も何もあったものではなかった。
 けれど、そんな扱いをしているストラップでも、この狐面を買い求めた気持ちは未だによく分からない。
 他にもあっただろうと言われるとまさにその通りだった。
 女の子が欲しがりそうな可愛らしい物から、土産物らしいそれなりの見た目をしたもの。
 無難な物はちゃんと別にあったはずなのだ。
 けれど尚基はこれを手に取っていた。
「浮いとるやん」
 そう言いながら同じく携帯電話のチェックをしている友達は、かなりの数のストラップを付けている。現在はギターの形のストラップや女の子のキャラが付いたストラップ。かなりデフォルメされた猫の顔が連なったストラップ。じゃらじゃらしたそのストラップは完全にそっちの人だ。
 だからと言って尚基にその系統の話をするかと言うとそれはなく、人によって会話の内容をきっちりと分けているらしい。
「なんとなく買わされたような感じで、つい」
 尚基は言い訳のようにそう言った。
 あの時の自分にどんな作用があったのかは分からない。もしかするとシロが何かしたのかも知れない。
「ふぅん、何それ。巡り合わせとか?」
 友達は急に興味を引き付けられたのか、身体を前のめりにして距離を縮めてくる。
 心の奥底を覗き込もうとしているかのような視線に、今朝方の話を全て暴露してやりたくなった。
 夢の中にいた狐がいきなり現実に出てきて、朝から俺の世話をしようとするんだがドジ連発でコーヒーの粉ぶちまけられた。つか俺狐憑きらしい。
 そんなことが言えればどれだけ楽だろうか、そして次の瞬間白い目で見られなければ尚良いのだが。
 あいにくまだ理性を失っていない。
 平穏な学生生活まで失いたくないのだ。
「いや、そんなんじゃないだろ。ただの記念品」
 そうであるはずだ。
 伏見稲荷に行ったので何かその証になる物でも、と馬鹿なことを思った結果。
 しかしそう冷静な結論を付ける一方で、出掛ける際にちりんと一つ鳴った鈴のことを思い出した。
 シロが消えた瞬間に鳴った鈴。
 伏見稲荷で買ったストラップ。
 狐面のこれと、伏見稲荷の狐。
 一本の糸で繋ぐことは出来るけれど、あえてその思考を断ち切った。
「まさかな」
 そんなことにまでなっているなんて、あまりにも馬鹿馬鹿しいではないか。
 自分が今まで生きてきた場所はこんなことが許されるものではなかったはずだ。
 けれどそれに反抗するかのように鈴がちりんと鳴る。
 尚基は手に持っていた携帯電話を揺らしていない。もちろんストラップも揺れておらずそこにある鈴にも振動などなかったはずだ。
 それなのに鈴が鳴る。
「……ねぇわ」
 ないない、これはないだろう。というかあってはいけないだろう。
 口元をひくつかせてそんなことを呟く。
 数時間で激変した己の価値観をこれ以上崩壊させないで欲しい。
「何が?」
 友達が不思議そうに尚基を見て来たが「いやー…何だろうな」と返事になっていないことを返す。
 きっと今の自分の目は死んでいるだろう。
 友達もそれに気が付いて、眉を寄せた。
 どうしたのかと訊きたかっただろう口は、講師が入って来たことによって何も紡ぐことはなかった。
 しかし尚基の頭の中は消えた狐のことでいっぱいになってしまい。
 いつもなら集中して聞いて、たまに講師の芸人のようなギャグに笑ったりもしたのだが。今日は到底そんな気持ちにもにもなれなかつた。



 友達には夢見が悪かったからちょっと疲れている、とだけ言った。
 ひっかかりを覚えているような様子だったけれど友達は深追いはして来ない。
 どこまで踏み込んで良いのか、雰囲気で察知しているのだろう。
 どうしたのかと何度も訊かれたのならば、きっと突き放してしまうところだった。なので丁度良い。
 持ち物やら趣味はあれだけれど、友達の感覚は付き合っていくには問題ないのだろう。
 そんなことを淡々と処理しつつ、見えなくなったシロについて考えるのはそこで止めた。
 自力ですぐにどうにか出来るのならばともかく、本日の自分にはそれだけの気力もなければ、お祓いという職業にツテもない。
 それ以前に現実か夢にも分からない状況を直視するのが嫌になっていた。
 今日はバイトもないのでスーパーで出来合いを購入してアパートに帰る。
 夕暮れを過ぎた宵色の薄暗い町中。無性に哀愁を感じるのだが、帰ったところで満たされるものはなく。実家だったのならば晩飯があっただろうが、自分の飯は今手からぶら下がっている。
 晩ご飯何だろうという、あの期待感はどこにもない。
(一人暮らしだからな)
 分かり切ったことなのだが、何もかも一人でやらなければならない生活は快適で面倒で、少しばかり寂しさがある。
 一人なんて平気だと思っていたのだが、自分は自身が思っていたほど孤独に慣れ親しんだ人間ではなかったらしい。
(一人暮らしをして意外だったのは、自分にこんな一面があったことか)
 寂しいだの悲しいだの腹立たしいだの、そんな持っていても負担になるようなものは大抵しばらくすれば消えているものだった。
 いつまでも手元にあっても何も役にも立たない。
 重いだけなら棄ててしまえ、という考え方だったのだが。
 寂しさというのはどうにも簡単に棄てられるものではないらしい。
 そのことには少しばかり困ったものだが、仕方がない。
(……いや、でも今の俺は一人暮らしと言えるのか?)
 シロがずっといるのならば一人暮らしとは言えないのではないか。だが二人暮らしというのも少しおかしな気がする。
 そもそも今まで見えていなかったのだから、これまでは一人暮らしだったはずだ。
 ならばこれからはそれが変わるのだろうか。
 シロはまた、自分の前に姿を現すのだろうか。
 疑問に思いつつ鞄から鍵を取り出してアパートのドアを開けた。
 ぎぃと軋む音を立ててはこの部屋が年代物であることを伝えてくるドア。真冬になれば隙間風が入って来て寒いのではないだろうか。
 そんなことが容易に想像出来て、ついつい気が重くなったのだが。そんな尚基の前に白い衣が突如出現した。
「おかえり、尚基」
 目の前では獣耳を生やした十二歳ほどの子どもが笑顔で立っている。
 高く柔らかな声は、そうして尚基を出迎えることが嬉しいのだと滲ませてくれていた。
 それを聞いた途端、尚基は呆然と立ち尽くしてしまった。
 まさか自分の心の内側を読んだのだろうか。
 だからそんな風に優しく、まるでずっと待っていたかのように声をかけてくるのだろうか。それならば狡猾過ぎる。
 こんな見た目なのに腹黒いと、怒鳴りたくなる。
(……俺って……こんな単純か?)
 ひとりぼっちで歩いた帰り道が、寂しいと感じていた心の部分が、シロの声に大きく応じていた。
 ただいま!と全力で答えたいと言っていた。
 狐憑きだと嫌がっていたのは自分だというのに、ただこんな風にあったかく迎えられたたけで揺るぐというのか。
 ほだされるというのか。
「尚基?」
 何の反応を示さない尚基に、シロが不安そうに見上げてきた。
「おかえりって、家に帰ってきたら言うんだよね」
 間違っていただろうかと心配しているらしいシロに、俯いてから頷いた。
「そうだな」
 待っている人がいるならば、それが正しい。
 けれど本来ここには待っている人なんていなかったはずなのだ。
 不意打ちは尚基の中に染み渡っていく。
 まるで浸食のようだ。たった一言でそんな感覚に襲われる自分はどうかと思う。
「ただいま」
 おろおろとし始めるシロを感じて、尚基は顔を上げて苦笑した。
 おかえりに返すべき言葉はただいまだ。
 尚基の台詞にシロは大きな瞳を細めて、満面の笑みでもう一度「おかえり!」と元気よく告げた。
 その表情に可愛い顔立ちだと、一目見て思ったことを鮮烈に突き付けられたような気がした。
(この生き物、生き物って言えるかどうかは分からないが。こいつはまずい)
 何かとてつもなく危険な方向に行こうとしているのではないか。この狐に、あらぬ道へと導かれているのではないか。
 そんな疑問がふつりと湧いてくるのだが「晩ご飯だね!」と何故か楽しげにしてるシロを見ると深刻なことを考えるのが疲れてしまう。
 先送りにすることは何であっても良くない。
 そう分かりながらも、今日だけはもういい疲れた、と心の中で弱音を吐いてシロに促されるまま玄関のドアを閉めた。