きつねツキ   5




「あっ!」
 シロは何かに気が付いたように声を上げた。ついでにぴんと耳が立った。
 やはり感情と連動しているのだ。
「朝御飯だね!」
 起きたのだから朝御飯だ、と簡単な思考回路で言うシロにぐったりと疲れてしまった。
 朝飯だの何だのを考える余裕がなかった。
「僕出来るよ」
 自慢げにそう言ったかと思うとシロはキッチンに向かう。
 とは言っても開けっ放しになっているスライド式の硝子戸を開ければすぐにキッチンだ。しかも狭い。
 大学生の一人暮らし、キッチンやトイレ、風呂場が別に付いているだけましなのだろう。
 シロは素足でフローリングを歩いて行く。そしてガンコンロに置いたままだったやかんを手に取った。
 自分が持つと小さなやかんなのだが、シロが持つとそれなりの大きさに見えた。
 体格の違いを見せつけられる。
 水道の蛇口をひねってはやかんの中に水を入れて、再びガスコンロに戻す。どうやらお湯を沸かすつもりらしい。
 尚基が朝、コーヒーや紅茶を飲んでいることを知っているらしい。
(やっぱり俺の生活見てたんだな)
 すでに取り憑かれていたことを知ってしまう。
 憂鬱さが増していく一方。疲れ果てた精神がぼんやりとシロの行動を眺めていた。
 シロはガスコロンのツマミを回して、カチカチ音を立てていた。けれど炎が出ることはなく、シロは首を傾げる。
「あれ?」
 どうして炎が出ないのか、不思議そうだった。何度もつまみを回しているけれど、一向に変化は起こらずガスコンロは沈黙を続けている。
 いつ気が付くだろうかと思っていたけれど、シロの耳がへたんと寝てしまったので尚基は渋々立ち上がった。
 可哀想に思ってしまう自分が忌々しい。
 これは悪霊なのだと言ってしまいたいのに、何故かそう判断出来ないのだ。
「元栓が閉まったまんまだろ」
 そう言ってガスの元栓を開けてやる。
 シロの横に並んで立つと胸元に頭が来ていた。大人と子どもの差は大きい。
「そっか!そうか元栓か!」
 ようやく分かったとシロが喜びの声を上げる。ついでに耳もまた元気よく立った。
 そして聞きとしてツマミを回して、ぼわりと生まれた炎に手を叩く。
「付いた!」
 まるで初めて文明に触れた古代人のような反応だ。
 無邪気すぎる表情に毒気も抜かれる。
(稲荷の狐ならガスコンロなんて触れる機会なかっただろうしな)
 こうして機械を使ったことなんてなかったのだろう。だからこんなにも目を輝かせるのだ。
「次はパン!」
 ここのところトーストを食べていることも知っているらしい。
 食パンはシンクの傍らにある小さな棚に入れてあり、それは気が付いて取り出している。そして棚の上に置いてあるオーブントースターに一枚入れた。
 そこまでつまみを回してじっと中を見つめ始めた。
 残念ながらトースターは炎が出ているのが一発で確認出来ない。
 だが本来なら内部が赤く光り始めるはずなのだ。
 けれど暗いままで明るくならない。それにまたシロが首を傾けた。
 同じことをガスコンロでも行ったので、黙っていれば気が付くだろうかと思ったけれどシロはトースターは暗くても働くのだろうかと思ったらしく。そのままじーっと凝視していた。
「電気」
「でんき?」
 尚基はトースターのプラグの先端を持って、シロに見せてやった。これを差し込まない限り、永遠にパンは焼けない。
 どうやらシロは炎がどこかから供給されるエネルギーによって生まれるのだという認識がないらしい。
「これ」
 尚基からプラグを受け取るとシロはきょろきょろと辺りを見渡す。そしてコンセントを見付けると「これ?」とプラグを両手に持ったまま尋ねて来る。
「そう。それ」
 教えてやるとシロは勢い良くプラグを差し込んだ。いやいやそんな気合いはいらないだろうと思うのだが、電気が供給されると途端に明るくなったトースターの内部に尻尾が振られた。
 きっとそれを眺め続けることだろうと思い、尚基はとりあえず洗面所で顔を洗う。口の中に洗浄液を入れてうがいをしながら、こうしていつもの朝を過ごそうと努力している自分の滑稽さを思う。
 現実から逃避して、全部なかったことに出来ないだろうか。
(有り得ない。こんなことはあってはならないことだ。明日になったら完全リセットとか、ねぇかな)
 一日限りの夢でした。ということにならないだろうか。あの狐と一緒に生きていくなんて想像も付かない人生ではないか。
 霊能者なんて者に会って祓って貰うべきか。しかしあの手の胡散臭い職業とは関わり合いになりたくない。
 特に両親が宗教者と呼ばれる人種を毛嫌いしていたので、尚基も関わり合いになってはならないという意識が根強い。
 しかし狐本体と霊能者と、どちらがより胡散臭いだろうか。
 頭の痛い問題を抱えつつキッチンを振り返ると、シロが両手にコーヒーの粉が入った瓶を持っていた。  それをシンクに置いたマグカップの中に入れようとしているようだった。
 ちゃんと入れられるだろうかと思って近寄っていくと、瓶ごと傾けて入れようとしているためなかなか上手く中に入らず。その上手を滑らせて瓶を落とした。
「あ、うわっ、やっちゃった」
 しかもキッチンの床に落ちてはころころと転がって中身がばらまかれる。
「ご、ごめんね。ごめんなさい」
 シロは尚基に気が付いては謝りながら、慌てて中身を掻き集める。
 白い指が茶色の粉に汚れていく。
(鈍くさい……)
 物を知らない狐だと思ったのだが、もしかするとそこにドジという性格も入るのかも知れない。
 それにしてもコーヒーの場所も知っていたらしい。
 本格的にシロが自分の生活を見ていたのだと実感せざる得ないらしい。
 溜息をつく尚基の前でシロは一生懸命瓶の中にコーヒーの粉を戻している。
 そしてそれが大方戻し終わった頃を見透かしたかのようにピーッ!とやかんがけたたましい音を立てた。
 お湯が沸いた合図なのだが、尚基はこの騒音が嫌いでお湯が沸騰してこぽこぽと気泡が生まれている音を敏感に聞き取ってやかんが鳴る前に止めるのだ。
 なのでシロはこの音を知らなかったらしい。
「ひぅ!!」と悲鳴を上げたかと思うと耳と尻尾を毛羽立たせて硬直した。
 相当驚いたらしいシロは持っていたコーヒーの瓶を再び落としては粉をぶちまける。
 またか、と思っていると今度はトースターがチーン!と軽快な音を立ててくれて。
 シロはとうとうシンクの縁にしがみついて、涙を浮かべた瞳で尚基を見上げてきた。
「おまえな……」
 助けを求めるかのような視線に、尚基は非常に重々しい息を吐いては天井を仰いだ。



 結局それからは自力で用意をした。
 尚基のためになりたいのに、とシロは悲しげに言っていたのだが放置していると部屋の被害が広がっていきそうで勘弁して欲しかった。
 好きにさせていると実に危険なことになりそうだったのだ。
(厄介なやつだ)
 多くの面でこの狐は厄介な存在になるのではないか。
 自分も未来が曇天になっていくことが見える気がして、どんどん気分は暗い方向へと向かっていく。
 布団を片付け、ローテーブルの前で朝御飯となった。
 もそもそとトーストをかじっていると、向こう側でシロがじっとこちらを眺めていた。
 何が面白いのか、その唇には笑みが浮かんでいた。
 食べたいと欲求を締めているようではない。ただ楽しそうなのだ。
 この年齢の子ども、たとえ見た目と実年齢が違ったとしても、の前で一人だけ食事をしているというのもやや後ろめたい。
「おまえ、食事取ったりするのか?」
 触れようと思えば尚基は触れられる。けれど他の人間には無理。そんな曖昧な存在が食事を取るという行為は出来るのだろうか。
「出来るよ。ただ必要はないけど」
 狐には御稲荷さんが備えられる。
 神に供え物が必須であるように、狐とて例外ではないだろう。ならば食べられるのかも知れない。
(……お供え物をされるような相手ってことは、偉いんだよな。神様みたいなもんって言うか)
 自分にとっては憑き物であったとしても、伏見では狐として崇められる対象であったのだろう。
 少なくとも伏見稲荷で狐は特別な存在であるはすだ。
 そんな相手をぞんざいに扱って良いものだろうか。
「おまえとか、言ってていいのか?その、神様なんだろう?」
 すでにかなり非礼を働いてるのだが、祟られたりするのだろうか。しかしすでに祟られているような状態なのだが。
 もしかして危険なことをしていたのかと、窺うようにシロを見ると不思議そうな視線が返された。
「敬えとか、そういうこと要求したりしないのか?」
「しないよ。尚基は僕の宿り主。僕と同じ。敬うことなんていらないよ」
 何を言っているのかと、シロの方が怪訝そうだ。
 それは自分が狐と同等になっているということだろうか。よく分からない。
(俺はどうなってるんだ?)
 ただの平凡な普通の人間であるはずなのだが。
「僕は神様でもないし。尚基が気にすることないよ」
「稲荷の神様だろ?」
 伏見稲荷ではあんなに狐の象がいっぱいあって、みんなそれの前で手を合わせたりありがたがっているではないか。
 なのに神様でないとは、どういうことなのか。
 つい疑問に思って口に出したことだったのだが、それにシロは目を見開いた。
「……伏見稲荷の神様は何だと思う?」
 恐る恐る尋ねてくるシロに、尚基はコーヒーを飲もうとしていた手を止めた。
「狐?」
 あれだけあるのだから、という考えでそう言うとシロが硬直した。
 そして眉を寄せたかと思うと非常に悩ましげに肩を落とした。
 急に空気が重くなったような気がして、つい自分の発言を思い出す。
 そんなにおかなしことを言っただろうか。
(狐じゃないのか?ならあそこの神様って何だ?)
 そんなことまで考えたことはなかった。
「……近年の人々は信仰に関してあまりに無知であり、その欲ばかりに囚われ何も見えておらぬようだが。よもや吾が宿り主まで斯様なことを申すとは、嘆かわしや」
 いきなり古めかしい口調になり、シロはどうも落ち込んでいるようだった。
 言われている内容は曖昧に理解出来る。
「え、違うのか?」
「狐は神使であって神様そのものじゃないよ」
 しんし、と言われて尚基の頭に浮かんだのは紳士だった。
 おそらくこの単語では意味が通じないのだが、しんしとだけ言われてもよく分からない。
 だがシロはそれで説明は済んだと思ったらしい、やや渋い顔で「伏見では多くの神使が」と喋っている。
 次の話題に入った時点で「しんしって何だ」と訊けなくなっている上に、また悩ましいという顔をされるのも遠慮したかった。
(そんなの知らなくても俺の生活は困らなかったのに)
 知らないことを責められるのは筋違いなのだが。
 この狐は一向にそんなことはお構いなしのようだった。