きつねツキ 4 申し訳なさそうな顔をしつつも、大変非道な事を告げた狐を凝視して、尚基は耳を疑った。 狐を剥がすためには死ぬしかない。 そう言われた気がする。 いや、気だけではない。確かに言ったのだ。 「な、なんで!?」 「だって繋がったし……」 怒鳴るような声を上げると狐はびくりと震えてから小さく身体を固まらせた。まるで殴られることを覚悟した無力な幼児のような体勢だ。 怒りはあるものの、それより悲壮感の方が強いし、何よりこんな小さな子をいくら狐だからと言っても殴るつもりはない。 なのでその反応には少し傷付いてしまう。 だがそれよりも今は離れられないということが問題だった。 「俺に勝手になんでそんなこと決めるんだよ!」 「ご、ごめんね」 重大なことを決めるならば双方の意見を聞くのが当然だろう。なのにこの狐はどうしてこちらの気持ちも何も訊かずに、一人で命が関わるようなことを取り決めているのか。 「狐ってこんなにも自分勝手なのかよ!そうなんだろうなきっと!」 「ごめ、ごめんなさいっ。でもでも、ずっと待ってたんだ」 責める尚基にすがるように狐は膝に手を置いて泣き顔を寄せる。 「待ってたって、俺伏見稲荷はあの時が初めてだっ」 何言ってると睨み付けると狐は首を大きく振った。 「違うよ!初めてじゃないよ!」 「初めてだって。俺ここにいなかったし」 近畿圏にすらいなかったのだから伏見稲荷に行ったことはない。修学旅行で京都には行ったけれど、巡ったのは清水寺だ。 「昔京都にいたよ!ずっと、前だけど!赤ちゃんの頃!」 「よく知ってるな……」 本人ですら失念してしまいそうになる、些末な情報だった。 父親が京都の出身で、母親は出産間近になってから京都に一時身を寄せていたのだ。 母親の両親がいないため、お産を頼めるのが父方の母親だったらしい。 「でも生まれてから三ヶ月くらいだぞ」 「そう。君はその時うちに来た」 そんなことを言われても、三ヶ月の赤子が何を知っているというのか。憮然とした顔をすると狐はそれを慈しむように笑う。 「宮参りだよ」 赤ちゃんが生まれて約三十日が過ぎた頃に、神社に参る風習。 京都にいたのならば、伏見稲荷に宮参りに行ってもおかしくはないのだが。尚基はそんな話を両親から聞いたことはない。 もっともわざわざどこに宮参りを行ったか訊く子どもも珍しいだろう。 「あの時君はうちの氏子になった。そして僕たちは君を気に入った」 ずっと待っていたと言うけれど、約二十年近くも待っていたのならば。確かに長い間だと言えるだろう。両手にすっぽり抱き込めるような子どもが、百七十を超える身長にまで育ったのだ。 しかし何故小さく何も出来ない赤子が気に入るのか。 「どうして」 「君はそういう質なんだよ」 「分からない」 そういう、というのがどういうものなのか。すら尚基には分からない。自分がおかしな体質だと感じたこともない。 狐の言うことは納得出来ないことばかりだ。 「自覚がなく、見えもしないかも知れないけど」 「変なものは何も見えない」 霊だの何だの、とテレビで騒いでいるのを見ては完全に他人事として眺めていた。 こんなことがあるはずがない、とすらどこかで思っていただろう。 自分の目も感覚も、悪霊だの何だのを感知したことがないのだ。 体験したこともない事象を鵜呑みに出来るほど、尚基は素直でも愚直でもなかった。 「うん。だから良いんだよ」 だからこそおまえは良いのだと、狐は満足そうだ。全く理解出来ない。 「僕らは君を自分たちのものにしようと決めた。でも君は京都から出て行った。どうやら君のお母さんと姑さんの関係が良くなかったらしいね」 「その話は止めてくれ」 子どもの頃から姑との関係がどれほど悪いものだったのか。母は教えてくれた。 二度と会いません。そう切り捨てるように発言する母には何より強固な意志があった。 子どもながらに相容れない関係というのはあるものなのだと感じたが、おそらくそれは死ぬまで続くのだろう。 どちらかと言うと優しい母が鬼のような目をするのだから、仕方ない。 「これから君を保護して可愛がるつもりだったのに。僕たちがどれだけ落胆したか」 「険悪過ぎたんだよ」 「らしいね。でも僕たちはそのまま指をくわえているわけにはいかなかった。だから祖母に関わり、なんとか君をここに呼び戻そうとしたんだけど。どれも裏目裏目で」 残念そうな狐を見て、気の毒だとは思わなかった。むしろ可哀想なのはこちらの方だ。 狐が何をしたのかは知らないけれど、祖母に関わってくれたおかげでこちらにまで被害が来ていたらしいのだ。 「おばあちゃんは変な宗教にはまっておかしくなったって」 電話がかかってくる度に奇妙なことを言い始めた祖母に、父は迷惑そうだった。母はもっと嫌がっていたけれど、直接相手をすることは決してない、と宣言していたのでもっぱら祖母の話を聞いていたのは父なのだが。 京都に帰れというだけでなく、宗教に入ったようなことを言い始めた祖母に、かなり身構えていた。 まさかここが原因だったとは。 「そう。余計に遠ざけられた。それでも僕たちはなんとか君を引き寄せようとしたんだ。けれど君は向こうの土地神にも好かれててなかなか帰って来ない」 土地神に好かれて、と言われるのだが自覚などやはりない。 第一土地神がどんなものかすら知らないのだ。 住みやすく、心地良い土地柄であったとは思うけれど。それは近所の人も言っていたことであり、人にとってはそういう場所だったというだけだろう。 自分だけが特殊なわけではない。 だが狐はそれも自分の体質のせいだと言いたげである。 「土地にも馴染んで。取り返すのに十八年かかった」 取り返すと言われても尚基は狐のものになった覚えはないのだが。狐はそんなこと関係なしに喋っている。 「稲荷が多くて助かったよ。向こうとどれだけ密に策を練ったことか」 向こうということは尚基が暮らしていた土地ということか。そこに稲荷があっただろうか。よく分からない。 だが狐の像が神社にあることは珍しくない。把握してなくとも近所に自然と置かれていてもおかしくない。 それが作戦を練ったというのか。 「マジか」 「大マジだよ!」 古めかしい衣装を纏っている子がマジという単語を口にしているのは違和感がある。しかもちゃんと意味が分かるらしい。 「ようやく君がこちらに戻って来て、僕たちはずっと呼んでいたんだ」 「戻ってくるって。俺は自分の都合でこっちに進学したんだけど」 何かに引き寄せられる、というような不思議体験をしたわけではない。単純に自分の学力と進路を考えた上での大学進学だったのだ。 それをまるで狐たちが仕組んだかのように言われても的はずれた。 けれど狐はしらりとしたまま、尚基の発言を流す。 「君をうちに呼び寄せて、君は誰を選ぶのかみんな興味津々だったんだ。君がうちで色んな社に参拝をした際には、誰が一番波長が合うのか調べなければ、なんて言ってた」 (選んだつもりなんてないんだけど) ただあまり神社に行くことはなく、関心はどこまでも続く鳥居にばかりあったので。参拝するという行為が二の次になっていただけだ。 まさか試されていたなんて、考えられるはずもない。 「でも君は僕のところにしか来なかった」 幸せそうに狐は笑うのだが、それは尚基の記憶と食い違いがある。 「いや、俺もう一つ参拝したけど」 確か腰に関わる大社だったような気がする。 「あれは狐の元ではないし。何より僕が押し切ったから」 可愛らしい笑顔でそう言うけれど、押し切るなんてことが出来るのだろうか。何か得体の知れ無さが感じられる。 けれどその淡い恐ろしさのようなものを掻き消すようにして、狐は尚基に擦り寄る。 ぴたんと大きな尻尾がまた揺れた。 「そして僕は君に選ばれた。接触も出来た。そして名前で繋がった」 「名前って…」 「シロって呼んだだろう?」 誇るようにそう言うけれど、それを与えたのは尚基だ。 「それが名前って言うのか!?」 「そうだよ。僕の名前」 驚く尚基にびっくりしたように狐が瞳を丸くする。 金色のそれは飴玉みたいだ。 色彩からすれば金属を思わせるようなものであるはずなのに、何故か甘く優しいものを連想させた。 「犬みたいだろ!?」 夢の中でこの子の足下にいた狐がもし犬であったのならば、きっとシロだなんて呼ばれるのだろう。全身が白いから。 そんな単純で何も考えていない発想から出てきた名前だ。 愛玩動物ならともかく、こんな人間の形、たとえ獣の耳やら尻尾が生えていても、日本語を喋っている者に、そんな名前を付けるなんて。 いくらなんでも酷い気がした。 駄目だと言おうとする尚基に返されたのは、緩く首を振って喜びを見せる狐だった。 「構わない。僕は白い狐だからぴったり」 「そりゃ……でも見たまんまだし」 ひねりも思い入れもないのだ。 大体本当に名前になるなんて思っていなかった。ましてそんな風に、嬉しそうな顔をしてくれるなんて。 (いや、ほだされるな。こいつは狐憑きなんだ) 健気だと思いそうになって、自分を戒める。 この人間に見える生き物は、狐憑きの狐なのだ。自分に取り憑こうとしているのだ。 どんな見た目であっても、性格であっても、良くない存在だ。 切り離さなければならないはずのもの。 「……本当に、ずっと俺といるのか?」 「ずっと。この先も」 嘘だろうと否定して欲しい気持ちを狐は裏切る。 尚基にとってはそれ自体がすでに不幸であるのに、狐はこれが最高の幸せなのだと言いたげだった。この違いにずっしりとした徒労がのし掛かる。 「よろしくね、尚基」 「っ、なんで名前」 尚基は名乗った覚えはない。 ここでも、伏見稲荷でも。 第一自分の名前を自分で口にする時なんて自己紹介でしかないだろう。しかしここのところ自己紹介の機会になど恵まれていない。 まして狐相手にするわけもない。 「宮参りに来た時に、尚基はそう呼ばれていた」 「そう、か」 生後三十日前後の自分がどんな様かなんて知らないけれど、両親や祖母が仕切りに赤ちゃんの名前を呼んでいただろうことは、おかしくも何ともない。 「それに稲荷に来てから、ずっと僕は尚基の側にいたんだよ。見えてなかっただけ」 「寝てる時、以外もか」 「うん。ずっと」 愕然とした。 気楽な一人暮らしになって、部屋の中では自由にくつろいでいた。他人に見られてまずい行動はとっていないけれど。自分の気が抜けている姿を眺められていたというのは、気まずい。 もしかしてこれがずっと続くというのだろうか。 夢だと、これは幻なのだと誰が言って欲しい。そう願ったけれど、そんな尚基の思いをせせら笑うように柔らかな毛並みの尻尾が膝に触れた。 次 |