きつねツキ   3




 ふわりとした毛並みは大変柔らかそうだ。
 しかし艶やかでもあり、まるで銀色の粒子をふんだんに含ませたような白い体毛が美しい。
 犬などよりずっと大きくふさりとした尻尾は尚基の視線に応じるように大きく一つ振られる。
(どうなってんだ……)
 尚基がよく知っている狐は焦げ茶色だ。そして黒や白が所々に模様としてある。という印象だった。
 しかし目の前にいるは真っ白でしなやかな獣だった。
 狐は尚基に自分をちゃんと見せようとするかのように、その場でくるりと回ってみせる。そしてそれが終わると長い鼻面を尚基に押しつけた。
 濡れた冷たい感触に瞬きをするが、意識はまだ覚醒しない。
 夢ではないのかと心が叫び声を上げるのがどこかで聞こえる。
「まだ、起きてない」
 呆然と呟くと狐は腰を上げて曲芸のように一つ跳ねた。くるりと宙返りをするとあの子どもが戻ってくる。
 しかも今度は狐であったことを証明するかのように頭には二つの可愛らしい耳が付いている。狐と同じ白くふさふさした獣の耳だ。
 よく見ると尻尾も付いているようだった。
 なんかのコスプレですかと言いたくなるような格好だ。狩衣に獣耳。そして尻尾も律儀に付いているなんて、三次元に生息することが許されないようなものだろう。
「着け耳ってなら分かるけど」
 そう呟くと子どもはきょとんと目を丸くした後に尚基との距離を縮めた。
 膝が触れあうくらいの近さに来て、下から尚基を見上げる。
 目の高さに獣の耳が来るように仕向けたようだった。
 誘われるままにその獣耳に触れると、見た目通り優しい手触りを得られた。
 撫でるとくすぐったいと言うように子どもが笑った。
 無邪気なそれは間近で見ると可愛いとしか言いようのない表情だった。
 子どもはそんなに好きではない。嫌いかと言われるとそうでもないのだが、好んで関わりたいという気持ちはないのだ。
 そんな尚基の目にも特別に見えるほど、その笑顔は愛らしいものだった。
「現にあり、君の手も触れることが出来る」
 これは現実であり、おまえは起きているのだと子どもは残酷にも告げてくる。
「でも他の者には見ることも出来ないし、触れることはまして叶わない」
 見た目は幼いというのに、説明をしている口調はしっかりしている。尚基よりも硬い表現も使いそうな雰囲気だった。
「まれに波長や素質によって見ることが出来る者がいるが、触れることは出来ない。僕が望まないから」
 僕、と子どもは自分のことを示す。
 そこからも性別を知ることは出来なかった。僕という単語だけなら男の子と思いたいところなのだがニュアンスがどうも柔らかすぎるのだ。
「それは、俺が触れることは望んでいるってことか?」
 未だ耳の辺りを撫でている尚基が尋ねると子どもは「うん」と力強く答えた。
「だって僕はずっと君に会いたかったんだ」
 運命だとでも言い出しそうな勢いがそこにはある。
 しかし子どもに君呼ばわりというのは何とも落ち着かない。
 訂正したくとも子どもはそんなことにはお構いなしに喋った。
「選ばれたかったんだ。待ってたんだ。君をずっと。本当はそんなに長い間じゃなかったかも知れないけど、僕にとってはすごくすごく長く感じて」
「待て、あの。待ってたって」
 放置すれば一人で勝手に話し続けるだろう子どもを制して、どういうことであるのか知ろうとする。
 すると子どもは大きな瞳で尚基をじっと見た。
「僕は伏見稲荷の狐。末端だけど」
 やはりあそこから持って来てしまったのか。
 しかし持って来たと言っても普通は実現化しないだろう。何故形を取るのだ。
 腑に落ちるような、新しい衝撃を受けたような、何とも言えない複雑さに声が出てこない。
「あんまり出来は良くなくて、みんなからはみそっかすだって言われたりするけど。でも力がないわけじゃないんだ!ただ使えないだけで!」
 稲荷の狐だと主張する子どもは喋っている間に興奮してきたのか、拳を握っては力説してくる。
「はあ……」
「許されてないんだ。僕が未熟だから。あと、ちょっと色々あってどうしてもまだ無理で。だから馬鹿にされたりするんだけど」
 最後は尻つぼみになって弱々しくなっていく口調に、尚基は肩を落とした。
 ついて行けない、と感じるのだが。目の前にいる以上無視も出来ずどうしたものかとあぐらをかいては途方に暮れる。
「それで……稲荷の狐がなんでここに?」
 会いたかっただの待っていただの言っていたのだが、尚基にはそんなことを言われる理由が分からない。
「この前うちに来たでしょう?」
 あの大きく荘厳な神社を「うち」の二文字で軽く言うのだから、恐れ入る。
 もっとも狐にとってみれば本当に家のようなものなのだから、間違っていないのだろう。
「それでお参りをしたよね?」
「ああ……」
「二つだけ」
 よく知っているものだ。
 神社の中で行われたことに関してこの狐は全て把握出来るのだろうか。それもずっと尚基を見ていたのか。
 山を登っていた際に奇妙な気配などなかったはずだ、と思いながらも時折違和感を覚えたことはあった。
 しかし神社という空気に呑まれたのかと。
(もしかして俺、とんでもないとこに行ったのか?)
 だが平日だというのにあれたけの人間が訪れるような場所なのだ。危険だなんて考えないだろう。
「その一つが白狐大社だよね?」
「まさか」
 この狐は真っ白な毛並みをしていた。ということはその大社の名前と繋がっているということか。
「あれは僕たちの領域」
 そう君の思った通り、と子どもは笑う。それは狐と言われるに相応しい、どこか意地の悪さが滲んだ笑みだった。
「本当は僕よりずっと偉い人がいるんだけど。今手が離せないから僕にお譲り下さったんだ」
「譲るって、何を」
「君を」
 満面の笑みで言われたことに尚基は凍り付く。
 自分の知らないところで、狐たちにやりとりをされていたなんて。一体この狐は自分の何を譲られたというのか。大体尚基は尚基自身のものであり、知らぬところで取引をされるべき者ではない。
 だが現代社会のルールが通用するとは到底思えない相手にどう言えばいいのか。
(つか……俺の何が取られるんだ。全部か?)
 狐と言えば何であるのか、真っ先に思い付くのは狐憑きだった。
「取り憑く、のか?」
 何度も繰り返し夢に狐が出てきたのも、あれも取り憑く前兆のようなものだったのか。
 しかし恐怖を感じながらも責めるように睨み付ける尚基に、狐と困ったようにへたりと耳を垂れた。
 叱られた犬のような反応に驚いた。
「そんなに怖い顔しないで。僕は何も恐ろしいことはしないよ?宿るだけ」
「宿るって、取り憑くってことだろ」
 狐憑きと何が違うのだ。
 宿るも憑くも言い方を変えただけではないか。
「言い換えてしまえば……そうと言えないこともないけど」
「止めてくれよ」
「なんで?」
 首を傾げられてこの狐は阿呆かと思ってしまう。
 憑かれて喜ぶ人間がどこにいるのか。
「だって狐憑きってあれだろ、なんか半狂乱になって」
「祟らないよ!むしろ良いものを運んでくるんだよ?」
 狐憑きと言われて尚基がイメージするものを述べようとすると、狐は即座にそれを否定する。
「悪さをするようなやつをはね除けるし、病知らずで御飯にも困らなくなるし!僕だけでも御利益はちゃんとあるよ!」
 狐憑きの本体ならばもっと傲慢に脅しをかけてくる、くらいのことはしそうなのだが。この狐はひたすら尚基に対して説得を試みている。
 強引に乗っ取る、ということはしないらしい。
「でも狐憑きって不幸になるだろ」
 それがお決まりではないか。この狐がどう言ったところで真偽を確かめるこも出来ないのだ。
 懐疑的な目で見るのだが狐は傷付いたような顔をして、大きな二つの瞳に涙を浮かべる。まるで尚基が幼気な子どもを残酷にも苛めているかのようだ。
 完全にこちらの方が被害者だというのに、この罪悪感は何だろう。
「そんなことしないよ!僕が幸せにするよ!宿らせてくれるなら!」
 まるでプロポーズのようなことを言い出したのだが、条件が酷い。
 取り憑かせてくれるなら幸せにする、と。それは狐にとっての幸せであって尚基にとっての災厄ではないのだろうか。 
「もし嫌だって言ったら?」
 絶対に嫌だと言えば、引き下がってくれるのだろうか。期待を込めながら問いかけるのだが狐はじとりと尚基を見る。
「……君は神様がどうやって信仰を集めたのか知っている?」
 唐突な質問だった。
 しかし簡単過ぎると感じるそれに、口はすぐに動いた。
「そりゃあ……人の願いを叶えてきたからだろ。でも今の俺には神様に頼まなきゃいけないことなんてないぞ」
 希望も欲望も人並みにあるけれど、狐に取り憑かれても構わないと思うほど切望することはない。
 ごくごく平均的で普通の大学生なのだ。
 だからこそ、困っているのだが。
 そんな答えに狐はふっと泣きそうだった顔を止めて、苦笑のようなものを浮かべた。
「君は純粋だね」
 子どもらしいと感じていた幼さは微塵もない。そこにあるのは達観した者が浮かべる淡い慈悲のようなものだった。
「いや…思い付かないだけで、叶えてくれるって言うならお願いしたいことくらいあるんだけど。でも憑かれるのはちょっと」
 欲がない人だと思われたらしいのだが、単純に引き替えにされる代償が大きすぎるせいで踏み出せないだけだ。
 欲だけなら溢れるほどある。
(だからって取り憑かれるのを許せるわけないだろ)
「君に拒まれるとすごく悲しい。本当に嫌?」
 笑みをたたえたまま、狐は再び懇願をしてくる。
 愛らしい顔がそうして願っているのを直視すると、怪しい薬でも焚かれているのかと思うほど心がぐらぐらと揺れてしまう。
「でも、俺だって困るし」
「困ったとしても君はすでに僕を名付けた。だから切り離せないんだ」
「名付けって……」
 いつそんなことをしたのかと記憶を探れば、夢の中でシロだと言った。
 もしかしてあれのことを言っているのか。あんな適当な付け方で良いというのだろうか。
 しかし訊くまでもなく、狐は名付けを認めているようだ。
「どうしても、離れないのか?」
 お祓いでは駄目なのか。狐憑きを祓ってくれる人なんて知らないけれど、調べればいるだろう。
「どうしても、だよ。それでも望むというのなら」
「なら?」
 方法があるのかと意気込む尚基に突き付けられたのは、訊かなければ良かったと心底思わせるものだった。
「死ぬしかない」