きつねツキ   11




 沈黙が流れた。
 神が神として成ったのは何故なのか。
 それを社にいるだろう神は考えているのだろうか。
『簡単に言うてくれる』
 聞こえてきたのは苦々しそうな声だった。
『狐ならば容易かろう』
 それは自嘲と共にシロを見下している感もあった。
 だがシロは鼻で笑う。
「世迷い言を。信仰の要などいつの時代も変わりはせぬ」
 まんじりとしている社の神を冷たく切り捨てるシロは、やはり尚基が知っているシロとは違う。
(どちらが本性か)
 犬のように懐いてくるシロと、こうして他者に対して冷淡に接しているシロと。どちらがよりシロ自身に近いのだろうか。
「人が願うは欲と安らぎ。浅ましさに捕らわれれば擦り寄って来ては拝め奉りもする。卑しきことよ」
 吐き捨てるような言い方には、人間に対する侮蔑がたっぷり込められていた。
 そんな意識でいたことには驚いた。
 普段とは真逆であるからだ。尚基に対して卑しいなど言ったことはない。
 人間であるにも関わらず、だ。
(やっぱり心の奥ではそう思ってるんだろうか)
 神使ということは人間などよりずっと尊い者なのだろう。それが人間に対してどう思うかなど、やはり自分よりずっと劣っていると感じるのだろう。
 日常で失敗しながらも尚基に良くしてくれていたのは偽りだったのか。心の中では馬鹿にしていたのだろうか。
 泣きそうになりながらも頑張って朝御飯の仕度をしていた子は、嘘だったのだろうか。
 もしそうなら、少し寂しい。
『ならばそれも同じと?』
 社の神の声に、シロがびくりと両肩を跳ねた。
 そして落胆を禁じ得ず、肩を落としていた尚基を勢い良く振り返る。
 そこにあったのは他者を威圧する冷たさではなく、双眸を見開いて顔色を失っている様だった。
 あまりにも驚愕を示されるので、尚基にまでそれが伝染してくる。
「ち…違う!」
 シロは大きく首を振る。豊かな髪が揺れて乱れるはずなのだが、人の髪の毛のように秩序を失って広がることはなく。尻尾のように美しく整ったままだ。
「尚基は違う!尚基は違うのだから!」
 大声でそう言ったかと思うとシロが駆け寄ってきてはぎゅっと抱きついてきた。
 子どものシロに抱きつかれることはあっても、この姿で抱きつかれたことはなく。自分より少しばかり小柄な男に抱きつかれるのは奇妙な感覚だった。
 しかも結構力が強い。
 骨が軋みそうだ。
「シロ……」
「尚基をそんな風に思っているわけじゃないよ!尚基は別だから!だって尚基は氏子だけど僕たちを信仰しているわけじゃないだろう!?それはそれでどうかと思うって声はあるけど、僕はそれでいいと思ってるし!」
 シロは必死に言葉を紡いでいる。
 間近で訴えて、しかも次第に涙ぐんでいる顔に頭が痛くなってきた。
 ちなみにぎりぎりと肋骨なども軋み続けているので、痛みは広範囲に広がっている。
「僕がお願いして側にいさせて貰っているんだし!僕は尚基のためになりたいんだ!僕が尚基のものになりたいんだよ!」
 今すぐにでも落ちてしまいそうな涙を見せながら、シロが懇願してくる。
 それを嘘だろうと思っても良かったのだが、自分を特別だと言ってくるシロの気持ちは納得しても良いような部分がある。
 第一何故神使とやらが自分の元で、自分の世話を焼くのか。それによってシロが得られることなんて何もないはずだ。
 ただ特別気に入られた、という理由以外存在しない。
(しかし俺のものになりたいって言うのはどうなんだ)
 熱烈過ぎるそれはどう聞いてもプロポーズ一歩手前なのだが、神使にとってそれはどういう意味合いになるのだろう。
 知りたいような知りたくないような、複雑な心境だった。
 これ以上訳の分からない事態になりたくない、というのが本音だ。
「尚基は、僕にとっては別なんだ。それは分かって欲しい。お願い」
 男であっても、綺麗な顔の者にこんな距離で泣きながら願われると無碍にしづらい。
 まして初対面でも何でもなく、共に生活していてある程度情も湧いているのだ。
 それに神様の仲間からしてみて人間が卑しいという感覚になるのは、無理もないことに思える。
「あの……ごめんね。ごめんなさい尚基」
 何と言って良いものか迷っていると、シロは尚基が怒っていると思ったらしい。ほとんど泣いているような表情で謝ってくる。
 抱きついてきた腕の力が弱まってしまう。
 このまま何も言わずにいれば拒絶されたのだと思って、離れてしまいそうだった。
 それはあまりにも哀れに思えて気付けば「いい」と言っていた。
「別にいい、気にしてない」
 ちらりと棘のようなものが刺さったけれど、シロが抱きついてくる力に溶けて消えるようなものだった。
 むしろその泣き顔の方が後ろめたい。
 シロは涙を浮かべた瞳のまま見上げて来ては「本当?」と尋ねてくる。
 拙さすらするその口調は卑怯だとすら思う。けれど首を振ることなんて尚基には到底出来なかった。
 ああ、と短く肯定するとシロが安堵を見せる。
 それを見ると突き放すなんてことは出来るはずもないのだ。
『なるほど、そうやってたらし込むのか。とんだ欺瞞だな。なんせ』
 嘲笑を感じさせる声がそう言ったかと思うとシロは社の扉に向かって手を向けた。
「黙れ若造」
 遙か高みから自分の下にいるものを踏みにじる、圧倒的な強さがその声にはあった。
 見えないものが言葉を失って、息を潜めたのが気配で感じられる。
 顔を社に向けたため、尚基からはシロの顔は見えない。けれど金色の瞳は刃のように剣呑なものになっていることだろう。
 自分に向けられるものではないというのに尚基の肺まで酸素を止めてしまっている。
「この一件無事には済まさぬこと、御覚悟召されよ」
 改まった言葉遣いには、これまでにない強固な怒りが含まれているようだった。感情を押さえ込んだ方が冷酷さが際立つ。
 白い炎がシロの周りを漂っているような錯覚を覚えた。
「尚基、この山を下りようか」
 手を下ろしたかと思うと柔らかな微笑みと共にシロはそう促した。
 もう何もかも終わったのだと、社を見ようともしない。
『待たれよ』
「待ちませぬぞ」
 引き留める声を切り捨て、シロは社に背を向けて歩き出す。
 その手に尚基の指を絡め取り、軽く引いた。
 立ち止まることを許さない緩くもしっかりとした手に抗うことなく、尚基はシロの後ろに続いた。



「何をするつもりなんだ?」
 玄関のドアを閉めるといつも通りシロが唐突に現れる。
 山で見た時のように大人の姿ではなく、見慣れた子どもの姿だ。
 黒髪の上にはやはり白い獣の耳が乗っている。
 社でのことを訊きたかったのだが、社から少し下りると道路に出るのだ。そこまで来ると人が通る可能性がぐんっと上がる。
 シロは他の人からは見えないらしい。すると声だって聞こえないだろう。尚基にとってはシロとの会話だとしても、端から見るとただの独り言だ。
 完全に変な人に思われるので、尋ねるのは部屋に帰るまで待ったのだ。
 それに頭の中がぐちゃぐちゃでろくに質問すら出てこなかった。
 だが自転車で二十分ほど走っていると冷静さも多少戻って来た。
「あの神様に何かするつもりなんだろ?」
 覚悟しろと言ったのだから、報復めいたことを考えているのだろう。
 しかし神様に対してやり返し、というのも不遜な気がした。
「うーん……今考えてる」
 シロはそんなことはしないと言わない。それどころか思案しているというのだ。
 あの怒りを見ると、可愛らしい仕返しで終わらせるつもりはないだろう。
「困ってるみたいだったけど?」
「そうだね」
 穏便に済ませるという選択肢はないのだろうかとシロを探るのだが、拗ねているような顔をされるだけだった。
「あの神様が何かしたってわけじゃないだろ?」
 シロは尚基がからかわれたことに激怒しているけれど、それをしたのは社の神様ではないはずだ。なのにどうしてあの神様に対してこれほどまでに怒りを覚えるのだろうか。
「己の領地も支配出来ぬ神って、いるのかな。居るって言っていいのかな?」
 大きな金色の双眸はじっと尚基を見上げてくる。
「僕は違うと思うよ」
 それは居ないと同意義なのだとシロの視線が告げている。
 しかもそれはシロにとっては苛立ちを覚えるようなことなのだろう。
 神様だの何だの、ということは尚基にとっては理解の出来ない領域の事柄だ。降参するように目を逸らすしかなかった。
「もっとも、僕がどうにか出来ることじゃないから。他の神様に相談して御判断を委ねるまでだけど」
 シロは硬くなっていた声音をほぐしては、興味を失ったように言った。
「僕は神使だからね。出来るのはそれだけ」
「でも脅しみたいだったが?」
 それだけ、なんてシロにとっては些細なことのように言っているがあの神様は最後に怯えているようだった。
「あの神様は僕が怖いわけじゃないよ」
 そんな風に苦笑しているシロは威圧感はない。けれどあの時尚基にとってシロはまるで恐怖の塊のようだったのだ。
「なれ、だっけ?」
「え?」
「あの神様。なれって言うんだろう?」
 初めにシロはあの神様に対して「なれ」と呼びかけていた。なのでそれが神様の名前なのだろう。
 けれど尚基の台詞にシロは瞬きをしては不思議なことを聞いたかのように、止まっている。
「違うのか?」
 何か奇妙なこと言っただろうかと首を傾げるとシロはふわりと表情を緩めた。
 慈悲に満ちた、包容力のある微笑みだ。
「なれ、とはさんずいに女で作られる漢字」
「……汝、じゃないのか?」
 シロが言う通りの文字を思い浮かべると「汝」と出てくる。
「そう。汝はなれとも読む。神様の名前を容易に口にすることは出来ない。僕たちは所詮神使だから」
 そう言いながらも美しい狐は神様を罵倒していたような気がするのだが。
 子どもの格好ならばともなく、あの成人した狐の姿では見事に迫力があった。
「そういえば、あれがおまえの本当の姿なのか?」
 この姿をしているのは尚基の部屋が狭いせいだと言っていた。この部屋が狭くなければあの姿で現れたのだろうか。
「本当ってわけじゃないよ。僕の一つの面ではあるけれど」
「そうか。狐にもなるしな」
 むしろ動物の狐としての姿が本物なのかも知れない。
「あの姿の方がいい?」
 望む通りになろうとしてくれているシロを見て、尚基は見惚れてしまった衝撃を思い出す。
「いや、いい。落ち着かない」
 あの男が自分の横にぴったりと寄り添っている様を想像するだけでも、居たたまれない。
 年頃ならば自分より少し上くらいだっただろうか。
(……つかこいつ何歳なんだ?)
 見た目通りの年齢ではないだろうとは思っていたのだが、一体どれほども年月を過ごしたのか。
 社では気になる一言もあった。
「あの神様を若造って言ってたけど」
「うん」
「おまえ、いくつなんだ?まさか伏見稲荷が出来てからずっと生きてるなんてことは、ないよな?」
 伏見稲荷が出来た年がいつかなんて知らない。けれど百年、二百年ではないだろう。
 そんな長い年月、この世にいたというのだろうか。
 とんでもない答えが返ってくることを、期待半分恐ろしさ半分で待っているとシロが人差し指を立てて唇の前に持って来た。
「秘すれば花なり。秘さずは花なるべからず」
 どこかで聞いたことがあるような言葉が、シロの口から聞こえてくる。
 悪戯をした子のように金色の飴玉に似た瞳が細められた。
「知るもまた、知らぬもまた面白き」
「つまり、言うつもりはないと?」
 遠回しな言い方をしているけれど、教えるつもりはないのだ。
 知るのが怖いと思う部分もあったので、それにほっと胸を撫で下ろせば良いのか。それとも謎が深まったと溜息をつけば良いのか迷うところだ。
「知る機会があれば分かるし、知らずとも僕が僕であることに変わりない」
「それはそうだろうけど」
「この見た目通りでもいいし」
 人差し指を下ろすと、シロはおどけてくるりとその場で一回転した。
 一つに結っている髪の毛と尻尾が揺れては、尚基をからかっているようだった。
「それはないだろ」
 断言するとシロは愉快そうに笑い声を上げた。