胎内の囁き   5




 マタニティドレスの上からでも、僅かに膨らんだ腹が分かった。
 多佳子と呼ばれた女は二人を見比べて、機嫌を損ねたようだった。
「この方たちは?」
 何故自分が呼ばれたのか、予測が付いたのだろう。
 夫は不信な目を向けてくる妻に、疲れ切った表情を浮かべる。
 並んでいる二人を見ると、実に対照的だった。
 夫はやつれているというのに、妻は健康そのもので艶々としている。
「おまえを直して下さる方だ」
 そう言った夫に、妻はまなじりをつり上げた。
「またそんな人を!私は悪霊なんかに取り憑かれてないわ!」
 神様だと思っているのだから、妻の言い分は不可解ではなかった。
 だが夫はそれに食いつく。
「じゃあどうして火なんか出るんだ!神様が人を燃やすのか!」
「あれは貴方が私を殴ろうとしたからでしょう!?」
 その発言に夫だけが顔色を変えた。
 そして螢と不動をちらりと見る。
 外聞が悪いと思ったのだろう。だが二人は驚きもしない。
 夫婦間で何があっても、今の二人には何ら関係がない。
「あれはかっとなって手を振り上げただけだ」
 もごもごと夫の言い方が淀む。きっと暴力を振るったという自覚があるのだろう。
「あの時だけじゃない!」
 弱腰になった夫とは対照的に妻は怒鳴ることを止めない。
「いつも暴力で私を黙らせて!あの炎は私を守ってくれたのよ!」
 確かに炎が生まれたことで夫は手を引くだろう。
 異常なことが起こっているのに、妻に暴力を振るい続けるというのは考えにくい。
「悪霊なんかじゃないわ!私を守ってくれる神様よ!」
「神が人を嘲るのか!!」
 嘲笑を思い出したのか、夫が怒りを露わにする。
 完全にやかましいだけの夫婦喧嘩だ。
 内容が特殊ではあるが、入り込む隙間がなく二人は黙って突っ立っていた。
「貴方の愚かさを見たからよ。救いようのなさを」
 神すら救えない人間がこの世にいるのだろうか。
 救えない者すら救うのが神のなせる技ではないのか。
 そんなことをぼんやりと螢は思った。
「…帰って下さい」
 夫の反論を待たずに、妻は螢と不動にそう強く言った。
 他人は入ってくるなという態度に、螢は依頼人を見た。
「どうしましょう。ご主人が帰れと仰るのなら、今すぐ出ていきますが」
「妻を元に戻して下さい!」
 依頼人は懇願するというよりも憤りを込めて螢にそう投げた。
「私は変わってなんていないわ!」
「夫婦喧嘩なら、私どもの仕事が終わってからにして頂けませんか?」
 このままだといつまで経ってもらちが明かないと思い、螢は冷たい声でそう言った。
 妻はきっと睨み付けてくるが、それにいちいち反応するほど感情的ではない。
 不動など螢以上に何も感じないことだろう。
「奥さん。貴方は神様をお腹に宿されたそうですが」
「そうです」
 妻は誇らしげにそう言った。
 自分は神だと言う者たちに似ている。
 欠片も疑惑も抱いていない顔だ。何故自分以外の者が宿ったというのに彼らは何の揺らぎも抱かないのだろうか。
 神聖なものであろうが何であろうが、異常な事態であることに変わりなどないというのに。
「悪霊などではないと」
「はい」
 妻は螢と向かい合って、堂々とした態度だった。
「では、その神は貴方に何を要求してきましたか」
「要求?」
 妻は怪訝な様子を見せた。
 螢が言ったことが分からないようだ。
「何も要求なんてされてません。ただ私を救ってくれると」
 妻の言葉を聞きながら、螢は口元に笑みを刻んだ。
 何も要求せずに人を救うものなんていない。
「いえ、要求したはずです」
 螢には、その要求されたものすら分かっていた。
「何も」
 妻には見当が付かないのだろうか。
 どうやら誤魔化しているわけではなく、本当に分からないようだった。強い困惑を見せている。
「では分かりやすいように申し上げましょう」
 口元に浮かんだ笑みが深くなる。
 見ようによっては優しげな、けれどどこか冷たい微笑だ。
「貴方は腹の子と引き替えに悪魔と契約しましたね」
 妻の顔色ががらりと変わった。
 腹の子どもに関して、引っかかることがあるのだろう。
 夫が隣で驚愕の表情を浮かべて、妻と距離を置いた。
「貴方が神としている者が何と言ったのかは知りません。貴方がどう思っているのかも。けれどそれは腹の子どもが欲しいと言ったはずです」
 だから悪魔は腹の子に取り憑いた。
 妻自体は何の影響も受けず、何も感じてはいないだろう。
 子どもが代わりに浸食され、悪魔の支配を受けているのだから。
 言うなれば、腹の子が供物になっているのだ。
「確固とした自我がまだ確立出来ておらず、身体だけを持っている胎児は実に入りやすい器です」
 自我があるのなら、悪魔はその自我を揺らして自分の意志を浸食させて支配することから始める。けれど胎児の場合はその手間がない。
「生まれ落ち貴方たちの元で育ちながら、それは人の形で多くの人間を絶望に突き落として遊ぶことでしょう」
 螢は妻の腹へと目線を落とした。
 ぐらりと腹の辺りの光景が歪む。
 抗議しているのだ。
 ぐたらないことを言うな。黙れと空気を歪めて訴えている。
 だがそうして意志を表示するたびに溢れてくる甘い蜜のような香りが、いっそう螢を急き立てた。
 腹の子に巣くっている者は気が付いていないのだろう。螢が捕食者であることに。
 女に囁きかけ腹の子として生まれ落ち、人間たちを支配して遊ぼうと思っている者は、自分が支配されることなど考えていない。
 そして螢もまた、自分の爪も牙もまだ見せる気はなかった。
「何を言ってるんですか!?この子は私を救ってくれるんです!人を落として遊ぶとか、そんなことはしません!」
 螢は少しばかり意地が悪そう口角を僅かに上げる。
「有り得ませんか?」
「そうです!そんなこと有り得ません!」
「神だから?」
 自分を救ってくれる者なら、この女にとって悪魔は神なのかも知れない。
 邪魔だと感じた瞬間に殺される羽目になったとしても。
 だがその神が他人にとっても神だと、何故信じられるのだろう。
 誰に対しても穏和で、救いの手を伸ばしてくれるものなのだと、どうして盲信出来るのか。
「貴方を救ってくれる者であっても、他人を傷付けないという保証はない」
 現に夫は傷付けられている。
 彼にとって腹の子に憑いている者は神でも何でもない。
「それは貴方の神でも私たちの神ではない」
 螢はそう言い、笑みを消した。
 その言葉を、何度繰り返したことだろう。
 個人だけの神なら、悪魔や憑き物という形で数え切れないほど見てきた。
 けれど大勢を救うとされる神は、救いの手を持つという神は。
 螢を救ってくれる神はどこにもいない。
 時折こうして神を見られる、感じられる、私には神がいると言う人間が羨ましくて仕方ない時がある。
 騙されていると知っていても。間違っていると分かっていても。
 螢はそのまやかしの神すら手に入れられないのだ。
「そんなことはありません!神様は、この子は人々を救うと」
「甘言は悪魔の得意とするところです」
 むしろ甘言のみで悪魔は生きているとも言える。
 実際に人間に対して危害を加えることなどない。宿主の確保のため、自分の存在を主張するため奇妙なことをする場合はあるが。
 人間という宿主を持たない悪魔が人間に対して傷を付けるなどの行為はない。
「現に、それは腹の胎児を喰らっています」
 こうしている間にも、悪魔は胎児の精神を食い散らかしていることだろう。
 悪魔に憑かれている間、人間は精神を止めていることになる。発達もしなければ記憶もない。
 このまま胎児が生まれ落ち、ある程度育った状態で悪魔を払ったとしても。
 きっとその子どもは生きていけない。
 精神は胎児のままで止まっているからだ。
 身体も完全に作られていない、羊水で漂っている状態の胎児のままで。
「早くしなければ、貴方はとんでもないものを産むことになります」
 人の形をした悪魔だ。
「どうしてこの子を悪魔にしたがるの!?」
 妻は螢の言っていることに驚きながらも、信じたくないらしい。泣きそうになりながら叫んでいる。
 救いだと思ったものが、実は狂気だったなんて、理解したくないのだろう。
「感じることが出来るからです」
 腹を見つめた。
 熟れた匂いが螢を包んでくる。
「それが胎児を供物して喰らっていることが、感じられる。神であるのなら人の精神を喰うことはないでしょう」
 それを喜ぶことも。
 囁くようにして、そう口にした。
 妻の表情が歪む。
「引きずり出しましょうか、それ」
 腹に手を当てて、霊体を掴みだしてみようか。
 そうすれば女は目を覚ますだろうか。
 残酷とも思えることを考えた時、妻の瞳孔がぶるりと震えたように揺れた。
 異様な動きは、人ではない者の気配を滲ませた。
 妻はうっすらと唇を開いたかと思うと、突然フローリングを蹴って螢につかみかかってきた。
 伸ばされた手に炎が生まれ、絡みつく。
 悪魔のやりそうなことだ。
 身体を持てば、それを使って自分を守ろうとする。
 炎や人では出せない怪力も平気で出す。
 それが人体にどれほどの負担をかけるのかなど、悪魔にとっては関係のないことだ。
 人間の痛覚など悪魔は痛みとして受け取らない。むしろ快楽に近いだろう。
 素直にそのまま掴まれて、ついでに引きずり出そうかと思った。
 だが螢にその手が届く前に、不動が妻の手首を掴んだ。
「不動!?」
 真横から伸ばされた手。
 炎が絡みついてくるが、不動は眉一つ動かさない。
 不動の手首にはめられていた数珠が、炎に巻かれてぷつりと切れた。
 硬質な音を立てて、丸い水晶がフローリングの上を転がっていく。
「離せ!」
 妻が大きく叫んだ。
 不動の手に小さな裂傷が生まれる。
 男の骨張った手の甲。美しいと表現するようなものではなかった。
 だがそれが血を流す様など、螢は見ていたくない。
 離そうとする前に、妻が悲鳴を上げて仰け反った。
 耳を突くような高く大きな叫びに、不動が眉を寄せた。
 傷付けられたことより、騒音の方が神経に障るらしい。
 不動は投げるようにして妻の手を払いのけた。
 炎はすぐに消え、妻の手首にはまるで焼き印を押されたように不動の手形がついた。
 そこをさすりながら、妻が目を見開いた。
 不動の気配が一斉に部屋へと溢れ出す。  甘く、そのくせ清らかな香りに螢は妻を睨み付けた。
「……おまえ…」
 今まで不動が悪魔に傷付けられるなんてことはなかった。
 人間に傷付けられることはあっても、こんな風に触れてもいないのに裂傷を受けるなんてことは、螢の前では一度もなかったことだ。
 悪魔の持っている強い甘さを持つ香りにさえ、苛立った。
 ようやく出逢えた居場所を、こんなものに傷付けられるなんて。
 ぎりと奥歯を噛み、螢は己の存在が何であるか隠すことを止めた。
 妻の顔に驚愕と恐怖が広がっていく。いつもならそれを哀れだと思うが、今日ばかりは冷ややかな目線で見下すことしか出来なかった。



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