胎内の囁き 6 妻は震え始めた。 人間が螢を見ても怯えることはない。 どういう生き物なのか感じ取れないからだ。 だから、怯えているのは腹の子に憑いた者。 「おまえ…」 妻の声が妙な響きになる。 女でも男でもない、金属めいたものがありながらも、感情を如実に伝えてくる声。 空気を震わせて響かせている声ではない。それは精神の中に語りかけてくるものだ。 直接、浸食するかのように。 「動くな」 螢は苛立ちのまま、鋭いそう命じた。 逆らうことを許さない、遙か高みから下す声に妻の肩がびくりと跳ねた。 それまで自信にあふれていた人は、小動物のように小さく縮こまっている。 「おまえ…何だ…」 一体何者だというのか。 妻の目を通して、悪魔がそう口にする。 その問い掛けの答えは螢本人ですら分からないというのに。 「人ごと喰い殺してしまおうか」 舌打ちをしたいほどの感情に揺れに、思わず本音を零す。 このまま二つ、いや三つ同時に潰してしまえば少しは気が晴れるだろうか。 不動がちらりと視線を寄越して来たのが感じられる。 清水のような気配がささくれ立つ気持ちを撫でているかのようだ。 「おまえ…人ではないな…鬼か」 悪魔は震えながらも、衝撃から立ち直ろうとしているらしい。 彼らは精神を乱されてはならない者たちだ。そのため衝撃から逃れるのも早い。 「鬼は同族を屠りはしても喰いはしないだろう」 螢は一歩一歩妻に近付いた。 後ろに逃げようとするが、螢が睨み付けると妻は硬直する。 人間であろうと、悪魔であろうと。 本当の恐怖に晒されて動ける者はいない。 「ならば」 上擦っている声を螢は無視する。 硬直している妻の腹に、そっと手を置いた。 人の体温を感じた途端、腹がどくりと脈を打ち、中のものが動いた。 まるで腹の中に別の生き物を放り込んだように、藻掻いては螢の手を押してくる。 中の胎児が蹴っているのだとしても、動きが大きすぎる。 大した膨らみもないというのに、これほど大きく動くだろうか。まるで、螢の手を殴っているかのように。 「ひぃ」 大きくうねる腹に、妻が悲鳴を上げた。 ガタリと物音が聞こえてきたが、どうやら夫が腰抜かしてしまったようだ。 夫妻の驚愕をよそに悪魔が腹の中で暴れている。 螢はそれを見下ろし、目を細めた。 鼓動が伝わってくる。 甘い響きと、とろりとした熟れた香り。 苛立ちはまだ残るが、それを宥めるだけの良さがあった。 「おまえの喜びはここにはない」 声音は酷く優しく、また誘い込むように柔らかなものだった。 自らの魂を螢の中に溶け込まそうと、悪魔自身が望むように仕向けるのだ。 獣の口の中に己を投げ込む。それを恐怖ではなく快楽にすり替えることが、螢のやり方だった。 悪魔が人の恐怖や悲しみが糧だとすれば、螢は快楽や喜びを喰らいたいとしている。 その方が味が良いからだ。 「おまえの喜びは私の中にある」 慈愛を滲ませ、螢は囁く。 決して声は大きくないというのに、はっきり部屋の中に広がっていく。 妻の表情は驚愕から困惑へと薄まっていくが、腹の動きはいっそう激しくなった。 「何を」 おまえは何を言っている。 ぐらつき、戸惑いながら悪魔は螢の手を押す。 逃げ場を求めているのだろうか。だがそうして螢が触れているというのにどこに行こうとするのか。 「あらゆるものが私の中にはある。おまえの求める快楽全てが」 螢は妻と目を合わせることはない。ただ蠢く腹を、その奥にある者だけを見つめていた。 「私がおまえを全てから解き放ってやろう。そこには退屈も怒りも屈辱もない」 悪魔が最も嫌っていることは退屈だ。刺激のない繰り返しを厭う。そして屈辱を受けることに怒り、屈服することを恐れる。 彼らに悲しみと痛みはないのだ。 それは悪魔以外のものが持つ感情であり、彼らが所持することはない。 彼らにとって恐れとは屈服と支配のみだ。 螢はそれを今悪魔に強いている。これから逃れたいのなら、いっそ螢に溶けてしまえと囁いている。 それは支配でも屈服でもないことだと、幻を流し込みながら。 「私は尽きることのない喜びをおまえに与えることが出来る。おまえだけの幸いを私は持っている」 ここに存在している。そう腹に微笑んだ。 慈しむ表情に悲鳴に似た叫びが聞こえた。 「私に甘言を囁くか!」 本来であるなら甘言を囁く側の者だというのに、自分が揺れ始めていることが許せないのだろう。 悪魔の声に螢はさらに柔らかい眼差しを向ける。 「来ないのであればおまえをここから引きずり出そう。さあ答えない」 螢はそっと腹から手を離した。 「姿なき者。おまえが身体を求めることは許されない」 胎児に取り憑き、それを支配するなど許されることではない。 断罪する声に、悪魔はぴたりと静まった。 腹の動きも止まり、異様な事態が収まる。 螢は腰を屈め、妻の腹に唇を寄せた。 神聖なる者に口付けるように、目を伏せそっと触れる。 芳しい香りを裏切ることなく、極上の甘さが螢の中に流れ込んでくる。 触れれば落ちてしまいそうなほど熟した果実。 口の中ではなく心臓の近くで感じる味に、頭の芯がくらりととろけてしまいそうだった。 だがそれもすぐに消える。 悪魔が身を委ねることを拒絶したのだ。 そして螢の指に炎が生まれる。 痛みとしか感じられない熱さに一瞬襲われるが、螢はすぐにそれを制してしまった。熱いと感じるのは人がそれを熱いものだと認識しているからだ。 本能に擦り込まれている情報が生きている証拠だろう。 だが螢の本能は、人とは異なる。この程度の現象なら容易く覆してしまうのだ。 獲物の甘さを前にした状態であるのならば。 「螢」 「構わない」 不動は人であるため、そう鋭い声で名を呼んできた。 けれど不動が動くことのほうが、今は問題だ。 手を挙げ不動を止めた。その手から全身へと炎が移る。 「おまえは哀れだ」 もう快楽に溺れることは出来ない。 螢の言葉に応じるようにして、炎がすぅと消えていく。 炎にとっては悪魔が主なのか、螢が主なのか、見ているだけでは分からなくなってしまいそうだった。 「憐憫すら突き放し、消えていく」 あまりにも哀れだ。 そう切なげに囁きながら、螢は炎が宿る前と何ら変わりのない手で再び妻の腹に触れた。 すでに妻は理解できないという様子で呆然と佇んでいる。 腹に当てた手を、すぐに手前へと引いた。 そこには煙のようなものが掌に絡みつく。 白さが混ざっているかと思いきや無色になり、そして僅かな暗がりを持ち、再び消えていく。生き物のように形態と色を変えては、その周囲の光景を歪めていく。 いびつな者がそこにあるのだと大気が訴えているかのようだ。 獣の雄叫びような、だが金属がぶつかり合うようでもある雑音が、その歪みから生じていた。 妻はへたりこみ、螢の手が握っているものをぼんやりと見上げている。 「おまえは快楽の果てを拒み、幸いに満ちたものを捨てた。私はおまえに初めて痛みというものを与え、おまえは苦しみながら逝くだろう」 声音はあまりにも静かで、螢は慈悲の滲む眼差しでそれを見た。 こんなやり方は望ましくない。 抵抗されたとしても、時間をかければこの悪魔とて墜ちてきただろう。 だが螢はその手間をかけることを止めた。 それを欲しいとも、すでに思えなくなっていたのだ。 不動を傷付けた者が自分の中に入る込んでくることに、小さな不快感を感じていた。 祈りの言葉も、罵りも、口にすることなくそれを握りつぶす。 どくりと脈打つ柔らかな固まりがぐしゃりと潰された感触を掌に感じた。 部屋全体を揺るがすようなけたたましい悲鳴を上げ、悪魔が霧散する。 不動の視線が刺さる。 こんなやり方は、不動の前では初めてだった。 いつもなら怒りなど見せないやり方をしている。 何か言うかと思ったが、不動は無言で床に散らばった水晶を拾い始めた。 深く息を吐き、ずっしりとした疲労を感じた。 ガタガタと何かが震える音がして、そちらを見ると妻が歯を鳴らして泣いていた。 よほど恐ろしかったようだ。 「あれが神様ですか?」 追い詰めるような言葉だと、言ってから気が付いた。 だが妻は螢の声など聞こえていないように、泣き声もろくに上げられず震えていた。 「怒っているな」 車が走り出すと、ようやく不動は口を開いた。 外灯の光が車内も照らしてくれる。 ハンドルを握る手に小さな傷が付いているのを見て、螢は目を伏せた。 「うん…」 血の色を見ると心がざわめく。 途端に不安になるのだ。 人はそれを多く流すと死んでしまうから。 不動が消えるのではないかと思ってしまう。ましてそれは、螢が相手をしていた悪魔に付けられたものだ。 「指…」 「すぐ直る」 それくらいのものならすぐに直り、消えてしまう。 だが傷付けられたということは、螢の中に残ってしまう気がした。 「これ…どうしようか」 ダッシュボードに置かれた、ばらばらになった水晶。一つも残さず拾ってはきたが。 「作り直す」 「繋ぐための紐は?」 ただのブレスレットでない。 不動が生まれつき持っている気配を消して、ただの人間と変わらないものにしているのだ。 水晶だけでなく、繋ぐための物も特殊な物で作られているはずだ。 「実家にある」 「戻るの?」 「ああ」 不動の実家がどこにあるのか螢は知らない。不動はあまり多くは語らないからだ。 「母が作るだろう」 「人間じゃないっていう?」 尋ねると不動は頷く。 どんな者だろう。 螢はまだ見ぬ者を想像するが、不動の横にいても上手く予測がつけられない。 不動のように仏頂面で感情も出さないような者なのだろうか。 水晶を一つ摘み、夜の中に溢れている人工の光を反射させる。 ぎらついた光のはずなのに、水晶に当てるとまろやかに清められるようだ。 「喰わなかったな」 「…不動の血を見てちょっとかっとなってね」 「腹は減ってないのか」 仕事が入ってから、螢は不動を喰っていない。 空腹でいた方が、悪魔に対して甘言を上手く吐けるのだ。 「あんまり…」 血を見た衝撃で、食欲は消えてしまった。 人と同じで精神面に大きく影響されるのだ。 水晶をダッシュボードに戻し、螢は背もたれに身体を預けた。 「少し落ち着く。力任せに握りつぶすなんて久しぶりだったから気持ち悪い」 掌にあの感触がまだ残っている。 「気持ち悪いのか」 ちらりと不動がこちらを見てきた。 信号で止まっているからだろう。 「最悪だ。生き物をそのまま握り潰したようなもんだから」 あえて、心臓のようなものとは言わなかった。だがその気味の悪さと後味の具合は察しがついたのだろう。 不動はそれ以上何も言わなかった。 「神様か」 ぽつりと呟き、螢は目を閉じる。 あの女にとって悪魔は神だったのだろう。 どんな者であったとしても、それを信じれば神になるのだ。 信仰すれば、どんな生き物であっても、物体であっても、神になり得る。 そう知りながら、螢は神を求めて彷徨い続けていた。 いるかどうかも信じていないというのに。 |