胎内の囁き   2




 太陽が真上に来る時間。
 充が家に訪れた。
 珍しいことでもない。
 暇な時間が出来るとふらりとやってくるのだ。
 第二の我が家と言っているほどだ。
 ソファに座ると、充と立ったままだった螢を見上げて呆れたような顔をした。
「螢ちゃんはそれを隠そうって気がないわけ?」
「それ?」
 何を言っているのだろうと思いながら、横のソファに座る。
「そこ」
 近くに座った螢に、充が指を指す。
 鎖骨近くを示され、ようやく理解した。
「見えてる?」
 襟元の開いているシャツを着ていたのだが、どうやら鬱血痕が見えていたらしい。
 不動が昨夜付けたのだろう。
 首の回りに食いつくようにして痕を付ける男なのだ。
 たまにしか付けないので、あまり注意して見ることがなかった。
「しっかり見えてる。もっと襟の詰まった服着た方がいいよ」
「そうだな」
 だが襟の詰まった服は、真冬でもないと着たくない。
 首に何かが触れている状態が嫌なのだ。
 マフラーなんて凍えるほど寒くないと巻かない。
「噛んだ痕?」
 充は顔を寄せて、痕を眺めた。
「噛んでない」
 充と螢のコーヒーを持ちながら不動が来る。充はホットだが螢はアイスだ。
 両極端な温度の飲み物を手に、仏頂面で螢の傍らに腰を落とした。
「吸血鬼でもあるまいし」
   不動から自分の分のコーヒーを手に取る。充も自ら手を伸ばしていた。
「前から思ってたんだけど、螢ちゃんって鬼の一種なんじゃない?」
 鬼の一種だと言われ、螢は持っていたアイスコーヒーのグラスを軽く揺らした。
 氷が回る。
「不動の生気食ってるのも、鬼が人喰ってるのと似てるし」
 吸血鬼が血を吸うように、螢は生気を吸っている。
 そう充は考えたのだろう。
「鬼の一種だと思ってもいいのかも知れない、が」
「が?」
 熱いコーヒーを手前のテーブルに置きながら、充と螢を見てきた。
 チャラチャラした男なのに、こういう話になると目だけが真剣になる。
 仕事に関連することに対して貪欲なのは、この職業の特徴なのかも知れない。
「しっくりこない」
 これが螢の本音だった。
 人を見ても、鬼を見ても、螢は同類だとは思えないのだ。
 自分とは違う。異なっている。ということだけ強く感じる。
「年を取らない、人を喰える、そんなおかしな体質ってところは同じではある。でも俺は人の身体ではなく魂しか喰わない」
 鬼は魂になど頓着はしない。
 人間かどうかだけだ。
 精神の入っていない空っぽの人間であっても、生きているのなら喰うだろう。
 けれど螢はそれを喰うことは出来ない。必要なのは命だけではないからだ。
「それに人だけでなく、鬼の魂も喰える。喰えないのは自分の魂だけだ」
 人も鬼も悪魔も、他の生き物も平等に喰うことが出来る。だが惹かれるのは人や悪魔、霊体だというだけの話だ。
「鬼は共食いはしない」
 螢はコーヒーを一口飲み、シロップの甘さに瞬きをした。
 アイスの時はシロップを入れるのだと、不動は覚えてくれていたらしい。
「こんだけ人がいたら、鬼は同類を喰う必要がないんだろ」
 充はそう言った。
 だがそれは完璧な答えとは言えない。
 確かに人は溢れるほどおり、喰うのも簡単だ。
 しかしその考えよりも強く彼らを制するものがある。
 それは共食いへの嫌悪だ。
 知能のある生き物は、共食いを嫌がる。そこに自己を投影するからかも知れない。
 鬼もまた知能ある者として、同族を喰い殺すことを良しとしていないのだろう。
 その点螢は同類がいないので、躊躇いを覚える必要がなかった。
「そーいや、生まれながらの鬼って綺麗に人を喰うらしいけど。それって綺麗な形のまま喰うってことじゃねぇの?螢ちゃんみたいに中身だけ喰うっていうか」
 充はおそらく生まれながらの鬼、天然の鬼に会ったことがないのだろう。
 だから推測でものを言っている。
 事実を知っている螢は苦笑してしまった。
「それはたぶん、何一つ残さず綺麗に喰うってことだ」
 形を美しく保っている状態も、何一つ残さない状態も「綺麗に喰う」と表現出来る。
 誤解を受けやすい表現だ。
「俺が知っている鬼は、指一本残さずに喰うらしい。血すら残さないとも聞いたことがある」
 その土地独特の喋り方で、その天然は穏やかに話してくれた。
 何一つ残すことはない。欠片も残さずに喰らうのだと。
 血なまぐさいはずの話なのに、その鬼の纏っている空気と話し方が凛然としていて生々しさがなかった。
「それってどうやって喰うの?」
 人は殺害する場合は血を流さなくとも、喰うとなれば血を流すことだろう。
 切断しなければならないのだから。
 充の疑問はもっともだ。
 けれど螢はその話を直接聞いた時、何の疑問も抱かなかった。きっとこれが言うのだからそうなのだろう、と頭から信じたのだ。
 そして今も、きっとそうなのだろうと思っている。
「見たことはないから分からない」
 そもそも天然の鬼は滅多に食事をしないらしい。
 螢と話した鬼も、十数年喰っていないと言っていた。
 それだけ耐えられるのだから、天然の鬼というのは凄い。
「俺の知ってる一部の鬼が喰らう人間は、心底好きになった相手だけだから。髪の毛一本たりとも残したくないんだろう」
 殺したいほど愛している。手垢の付いた台詞だが、天然の鬼はこれを守り続けていた。
 心底好きになって、心も体も通じ合った後、鬼はその相手を喰うのだ。
 自分を生かすための血肉、いわば自分の一部になるものなのだから、好きでもない者など受け付けられない。
 一つになりたいと思えない相手は喰えない。
 そう言っていた。
「意外と情が深いんだよ」
 螢はそれを聞いた時、喰うという行為が親愛の行為のような錯覚を受けた。
 相手はどう思っているのか、ということも考えたのだが。
 ほんのりと微笑んだあの鬼を思うと、喰われた人間は夢見心地のまま死んで逝ったのかも知れないと思えた。
 全てを捧げても構わないと思わせるだけの魅力が、あの鬼にはあった。
「鬼が情け深いってなぁ」
 充は釈然としないらしい。
 だが人も鬼も感情がある者はみんな、それぞれの個体によって違う。
 人より情け深い鬼もいれば、薄情な鬼もいるだろう。人が同様であるように。
 充は鬼に区別など付けていないだろうが、螢からしてみれば目にする者全てが違う者たちなのだから、種類で分けるより個体で分けたほうが良いということは経験から学んでいた。
「まぁ、俺が知ってるのは、だけど」
 天然などその辺りにころころ転がっているはずがない。
 一人だけにしかまだ会えていない。
 それでも出逢えただけ、運が良かったのだろう。
 おかげで喰える種類ではあるが、決して手を出してはいけない者がこの世にはあるのだと知ることが出来た。
「じゃあ螢ちゃんとは全然喰い方が違うんだ?」
「違う」
 螢は人の身体には興味がない。
 血も肉も全く惹かれない。その辺りは人間の感覚と同じだ。
 怪我をして血が流れていれば痛そうだ。肉なんてスーパーなどでパックに入っているものしか見ない。そんな生活を送り続けている。
 これが覆されたことはない。
「じゃ螢ちゃんと不動は?」
 自分の話題が出ても、不動は眉すら動かさない。
 ただ黙って聞いているだけだ。
「全然違う」
 鬼より強く否定した。
 不動の半分は人間だ。そしてもう半分も螢とは全く違ったものだろう。
 混じり合った生気はとても甘美な味を持っている。
 もう半分について詳しく聞いたことはないが、おそらく日本に古くからいるものだろうと思われた。
 それもなかなかに力があるものだ。
 螢も特異な体質で人の中に混じってはいるが、そういうものに会うことはよくあった。
 悪霊などに間違われて、螢が呼ばれるからだ。
「螢ちゃんの同種って、本当にいないのか」
「いないなぁ」
 のんびりと答えた。
 まだどこにいるのかも知れないが、噂すら聞かない。
 異国にまで出ていったが、そこでもやはり同種はいなかった。
 人の魂ではなく感情だけを喰う類のものはいるが、それは命までは奪わない。
 生気もまったく喰わない者たちだ。
 そしてやはり、人以外の者は喰うことが出来ないようだった。
 会った時、互いに違う生き物だと話したことがあった。
 かろうじて、目に見えないものを喰うところだけが似ている。
「さみしーね」
 充はそう言って、温度が少しばかり下がったであろうコーヒーを持った。
 その湯気を眺めながら、螢は苦笑する。
「まぁ、今はそうでもないけど」
 今は同じように時を重ねて、傍らにいてくれる者がいる。
 だが不動に会うまでは孤独を強く感じていた。
 どれだけ人に似ていても、人と親しくなっても、誰もが螢を置いて逝く。
 かと言って人ではない者たちとは、滅多に会うことがなかった。
 会ったとしても、踏み込めない領域を感じるのだ。
 螢の手が自分たちに伸びてくるかも知れない。そのことが鬼や他の者たちの脅威なのかも知れない。
 彼らにとっての脅威などそういないのだから。
「見れば分かるよ」
 充は螢の首もとを見て、曖昧に笑った。
 仲がよろしいことで、と言いたげだ。
 その視線は不快でも何でもなかった。むしろこうして人に呆れられることがくすぐったい。
「幸せそうな螢ちゃんにパスタ作って欲しいなぁ」
 螢が自然と浮かべて笑みを見て、充がそう要求してきた。
 確かに昼飯の時間であるのだが、作る手間と今日の気分を考えて螢は眉を寄せた。
「昼飯たかりに来たのか」
「たまに食べたくなるんだよ、螢ちゃんのパスタ」
 美味いじゃん。と言われても螢は嬉しくない。
 日本以外の土地に住んでいた時、よく作っていたから上手くなっただけのことだ。
 あの土地のことは記憶から捨て去りたいと思っているのに、手に馴染んだことは消えてくれない。
「誉めても作らない。俺は不動の和食が食いたいのに」
 日本に戻って来たから、螢は和食を好んで食べていた。
 やはり異国にいた時間より日本にいた時間の方が長く、思い入れも深い。気が付けば舌に染み込んでいた味というのは離れがたい。
 不動は強面でごつごつした手を持っているというのに、意外と器用に料理をする。
 主に和食しか作らないが。
「俺はパスタだ」
 隣に座っていた男はあまりもはっきりと発言した。
 黙っていることが多い男なのに、こういうところだけはしっかり意志を表示する。
「多数決でパスタ決定!よろしく螢ちゃん!」
 充は満面の笑みを見せる。
 パスタ派に挟まれて、螢は盛大に舌打ちをした。
「民主主義め!」
「それって罵倒?」
 思いついたことをそのまま言えば、充の冷静な感想が降ってきた。



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