胎内の囁き 1 殴られた頬に手を当てた。 熱く腫れるそれは、じき痣になるだろう。 それでも加減をしていると、冷静になった夫は醜い言い訳をする。 洗面所で涙を流しながら、嗚咽を殺す。 洗ったばかりの顔がまた歪んでいく。 夫はいつも、何でもないようなことをきっかけに暴力を振るう。 何が彼の逆鱗に触れるのか、どうすれば回避出来るのか、一年経った今でも分からない。 その日の気分によっても全く異なる反応に、もはや戸惑う以外なかった。 ひたすら機嫌を窺い、どうすれば怒らせずに済むのか、怯えながら考えているしかない。 ここに引っ越してきたばかりで、話し相手もいない。 父は死に、母は兄夫妻と同居している。肩身が狭い思いをしているらしい母に、こんな話をすれば心労を負わせるだけだった。 それに夫はとても暴力を振るいそうな男には見えないのだ。私もそう思っていた。 結婚するまでは。 一緒に暮らして初めて分かったのだ。 誰に訴えればいいのか。夫にどうやって暴力を止めてもらえばいいのか。 日々そればかり考えるようになっていた。 ただ一人で黙って、耐えるしかないのか。 一週間ほど前、初めてこのことを人に話した。 街の中で声をかけられたのだ。 『何か、辛いお悩みがあるでしょう』 外国人と思われる人は穏やかな声で私にそう言った。 何もかも分かっている。そう言いたげな目に、私はつい夫のことを話してしまった。 通りすがりの、何の接点もない相手だからこそ、洗いざらい話すことが出来たのだろう。 何も隠す必要はない。きっともう二度と会わないのだから。 その男は私の話を聞き、時折相づちを打ちながら優しい声で慰めてくれた。 可哀想に。そう言われることで私は涙をぼろぼろと流して子どものようにしゃくり上げた。 その一言が欲しかった。 同情や哀れみで良かった。 この気持ちを知って、優しく接して欲しかった。 男は話を聞き終わると不思議なことを教えてくれた。 『この言葉を毎日口にして下さい。そうすれば貴方は落ち着くことが出来る。そして、救われる』 男の胸元に光る銀色のネックレスを見て、あの神様を信仰しているのだろうと思った。そしてきっとその言葉も関連しているのだろうと。 私は宗教に興味がなく、何の意味があるのかも分からなかったが、男が言ったことを繰り返すと少しだけ心が落ち着いた気がした。 だから家でも、何度も繰り返した。 救われるなんて、心の底から信じてなかった。 けれど救ってくれるものなら、救って欲しい。何でもいい。 私をここから救ってくれるのなら。 『神の手が差し伸べられる』 もし、本当に差し伸べられるのなら。 私は迷わず掴むだろう。 泣きながら、今もあの言葉を繰り返す。 何語なのかも分からないその言葉。 助けて。救って。そう願いながら。 ひくっとしゃくり上げる自分の声に、違う何かが混ざった。 空耳だと思うには、あまりにも明瞭な響きだった。 はっとして顔を上げると、目の前の鏡に何かが映っていた。 振り返るがそこには何もない。 気のせいかと思った。 だが心臓が落ち着く前に、それはもう一度聞こえてきた。 ――救ってやろう。 そう、はっきりと。 体内に精が吐き出された感覚に、ざわりと快楽が背筋を駆ける。 もうとっくに悦楽に溺れている身体にとって、その小さな刺激すら嬌声に変わってしまいそうだった。 繋がっている箇所はとうに溶けて、お互いの身体が一つに物でないことが不思議なほどだった。 甘く清らかな匂いに包まれて、螢は微かに笑みを浮かべる。 不動の茎をくわえ込んでいる自分の身体が満たされている。 飢えは緩和され、身体の奥深くに甘美な味が広がっていた。 この男は美味い。 本来なら身体など繋げなくとも、不動の生気を食うことは出来る。だが螢がこの方法を取るのは、味だけてなく熱も味わえるからだ。 人の身体は暖かく、その情欲もまた蠱惑的に感じられるのだ。 性交は生気をよく使うからかも知れない。 それに不動に抱かれるのは心地良い。 人でもなく、悪魔でも霊体でも、鬼でもないこの男が持つ空気は気持ちがよい。 不動が螢の中から出ていくと、中からとろりと吐き出されたものが溢れる。 流れていく感覚に息を飲んだ。 出ていった男はそのまま螢の隣に身体を横たえた。 もう抱かないということだろう。 荒い呼吸で、螢はまだ自分が完全には満たされていないことを感じる。 不動はもう動かないだろうから、ヤりたいなら上に乗らなければならない。 それを考えると、怠くなって止めた。 腹八分目、そんな言葉が浮かんでくる。 螢は傍らに寝転がった男の横顔を見る。 見た目は二十後半に見えるが、実際はどうか知らない。 充より年上と言っていたので二十五以上であることは間違いないだろう。 均整の取れた身体に、しっかり付いている筋肉。 仏頂面は今も崩されることがない。 さすがに抱き合っている時は欲情を見せるのに、終わればすぐに冷静になってしまうようだ。 それが少しばかりつまらない。 この関係に誘ったのは螢だった。 飢えて仕方なく、また人の体温が欲しかった。 心も身体も飢餓に支配されて狂いそうだった。 それを見るに見かねたように、不動は螢を抱いた。 一度きりでも構わなかった関係は、そのままずるずると続いている。 恋人と呼んで良いかも分からないような繋がりだ。 だが友達などではなく。生きていく上で螢はこの男がいなければならないとまで思っている。 不動の方も、同じく年を取らない螢を気に入っているようで。今のところ手放す気はないと断言していた。 いらなくなった時は、きっとそう言うだろう。 この男はそういう男だ。 白黒をはっきりつけなければ気が済まないらしい。 過敏になった肌が落ち着き始めると、螢は俯せになった。 こうした方が不動がよく見える。 険しい顔立ちではあるが、整っている部類には入る。何より鋭いまでの目が気に入っていた。 牙を持ち、戦うことを知っている者だ。 守られるだけの生き物ではないことが、螢に安堵を与える。 この男の熱は、奪ってもいい。 欲情を見せても、貪り合っても構わない。 綺麗なだけの言葉を連ねなくてもいい。 解放感に目を細めると、不動の視線が向けられた。 獣は情欲をもう抱いていない。 あるのは静けさだ。 茶色の瞳を見返すと手が伸びてきた。 後頭部を包み込まれ、引き寄せられる。 濡れたままの口付け。 散々舌を絡め合ったのに、飽きずにまた舌を差し出した。 欲情を煽るというより、肌をそっと撫でるように舌を吸い上げる。 身体と心、全てを欲しがっても不動は責めない。 拒まない。 ようやく、螢が螢のままでいられる場所が出来た。 嘘を付く必要も人目を気にする必要も、他の何かを演じる必要もない。 偽らなくても、何も失わずにいられるのだ。 それはなんて幸せなことだろう。 口付けながら、泣きたいような気持ちになる。 この男は、螢の偽りを必要としない。真実を見ても逃げない。 そんな者は他にはいなかった。 「乗らないのか?」 不動は螢にそう尋ねた。 そこにはやはり欲情はなかった。 だが螢が乗るのならば、応じるつもりはあるのだろう。 けれど緩く首を振る。 「乗らない」 口付けだけで満たされたような気になった。 もう飢えはかけらも感じない。 「そうか」 手は離される。だが不動も螢も距離を取ろうとはしなかった。 「不動は」 思いついた疑問を螢はなんとなく投げかける気になった。 「突っ込んでて気持ちいい?」 欲情しているのも、精を吐き出しているのも快楽を伴っているからだろう。 だが精神面ではどうなのか、未だによく分からない。 この男はとにかく喋らないからだ。 ベッドの中でもそれは変わることがない。 いいも悪いも言わない。 たまに不安になって尋ねるのだが、その時は良いと言っているような反応をくれるのだが。 果たして冷静になった時に、良いと思ってくれているのか。謎だった。 蛍だけが気持ちよくなって、飢餓感も満たされ、不動は何も得ていないのでは不公平だ。 それに一人だけ満たされているというのは、奪うばかりで少しばかり後ろめたい。 「気持ちよくないなら、イってないと思うが」 「男は突っ込めばとりあえず出すもんじゃないの?」 「おまえはそうなのか?」 下品な質問だが、不動は感情を変えない。淡々としたままだ。 「いや、それはないな」 気分が乗らなければ、欲情もしない。 そもそも螢はセックスだけをしたいと思うことがない。 食事にくっついてくるものだ。 なので生気が取れるのであれば、精など吐き出さなくても構わない。 純粋な快楽は、食事に負けている。 不動と抱き合っているのは、食事の良さとセックスの良さが両方味わえるから、麻薬のように後を引いて欲しがってしまう。 「それと同じだ」 同じだと言われても、セックスだけで満足することのない螢にはとても同等の感覚だとは思えなかった。 生気を食わせてもらっているのだから、自分と同じだけ気持ちよくなって欲しいのだが。 どうすればいいのか難しい。 長年生きて人の中に混じっていると、同性と寝ることもあった。 だがここまで深く関係したのは不動が初めてだった。 手探りの状態で、自分が情事に関して得手だとは思えない。 もっと良くなってもらうには。 そう思い眺めている間に不動は目を閉じて眠りに入ってしまった。 寝る、と一言伝えてくることもなく、マイペースだ。 寝顔は天使、なんて言葉があるが。 不動の場合は眠っている時も不動だ。表情が元々あまり出てこないので、寝ている時も印象は変わらない。 実に代わり映えのしない男だ。 (なんで、不動は俺を甘やかしているんだろ) 異国で螢を拾い、日本にまで持ってきて、餌を与えてくれている。 自分の生気という、身体に多少の負担のかかる餌を惜しむこともなく。 答えの与えられない問い掛けを、螢は今日も心の中だけで呟いた。 尋ねるくせに、答えが返ってくることを初めから期待はしていなかった。 ただ不動に捨てられる日が来ないことを、願っていた。 next |