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 螢は何度か目にしたことのある悪魔のポスターを眺めながら少女と距離を取っていた。
 呼べば実体としてあれが出てくると思っていたのなら大きな間違いだ。
 大抵初めは人の形を持たず、宿主を殺して悪魔は形を得るのだから。一度形を得た悪魔など、こうして陣による呼びかけなどに応えることは滅多にない。
 まして一人の少女の命は引き替えに出てくるなど有り得ない。代償が小さすぎる。
「それにしても才能だよなぁ、これは」
 低級であったとしても、これだけ不十分な陣で悪魔を呼び出したと言う事実は変わりない。
 誉めているのだが、少女にはそんな言葉が通じるはずもなく、じりじりと距離を詰めてくる。
「プロでもこんな陣で呼び出せないだろう。やっぱり最期に全てを決めるのは才能なのかな」
 同意を求めても不動は答えない。少女をじっと睨み付けているだけだ。
 並大抵の神経なら、この眼力に目をそらす。それだけ圧迫感のある眼差しをしているのだ。マフィアではないかと疑われることもあるらしい。
 時々とんでもなく危ないというところはマフィアと似通ってはいるような気もするが。
 のんびりと構えていると、少女が床を蹴って飛びかかってきた。
 四つ足で襲いかかってくるところを見ると、やはり知能の低い者を呼んだのだろう。
 あまりにも知能の低い悪魔というのは、人の精神や生気を喰らうことしか知らない。
 感情を揺らして遊ぶという行為をしないのだ。
 だから宿主は早い段階で精神を病み、衰弱して死んでいく。
 飛びかかってきた少女から、螢はすっと身体を避けて逃れた。
 肉眼で確認出来ているのだから、簡単だ。
 ましてこの部屋に漂っている空気も重いものではなく動きを制限されることがない。本当に小さな悪魔だ。
(でも、日本でそうそう大きな獲物がいたら困るか)
 日本には日本で憑き物という似たようなものがいるのだから。
 不動は逃げるわけでもなく、その場に立ったままだった。
 まるで的になっているかのようだ。
 少女は頭上から不動に襲いかかろうと爪を伸ばしてくる。
 異様に尖り、根本から赤く染まっているそれは人間のものではないだろう。
 しかし、その爪が届く前に不動が腕を伸ばした。
「ひっ」
 身長差がそのまま腕の長さに比例され、不動の手は少女の爪よりも早く丸い頭をがっしりと掴んだ。
 その手首に数珠のようなものがはまっているのが見える。
 透明な珠が連なって出来ている。
 不動がつけているたった一つの装飾品だ。
「ぎぃあああ!!」
 頭を掴まれた少女は悲鳴を上げて、床に落ちた。
 掴まれた頭から、微かに煙のようなものが舞い上がる。
 まるで不動の手が灼熱を帯びていて、少女の頭を焦がしたかのようだ。
 だが実際は炎が上がるわけでもなく少女の髪には何の変化もない。ただ靄だけが昇る。
 焼いたのは、目視出来ないものだ。。
 少女は床の上でのたうちまわり、呻き声を上げている。
 服が乱れるのも構わない。
 不動の牽制で収まってくれればいい、そう思いながら螢はベッドからシーツを剥がした。この白いシーツも爪で引っ掻かれている。穴が開いた箇所に苦笑いを浮かべていると、少女が頭をもたげた。
 靄は収まり、痛みも消えたのだろう。
 はぁはぁと肩で息を付くとぎらぎらと野蛮な光を宿した目で、螢を凝視してくる。
 触れるだけで痛む男より、まずは安全そうな奴からとでも思ったのだろうか。
 しかしその判断は間違っているとしか言いようがない。
 いくら本質を隠しているからと言っても冷静になれば分かるはずだ、本能が囁いてくれるはずだ。
 この生き物こそが最もおかしい、異様なものだと。
 しかし少女は、少女に憑依した者はそこまで気が回らないらしい。
「がっ」
 吠えるような、唸るような鈍い声を上げて、少女がまた四つん這いになる。
 襲いかかってくるだろう、そう理解しながら螢は微笑んだ。
 来ればいい、ここに来て、この腕の中に収まればいい。
 シーツを広げながら悠然と笑む。
 少女は狂犬のように後ろ足で床を蹴って、爪を螢に向けてくる。その爪がこの身体を傷付けられると思っているのだ。
 その稚拙な考えに、笑みはいっそう深くなった。
 愚かしい。
 そう唇が紡ぐ。
 シーツを広げ、螢は襲いかかってきた少女を包む。白い布の中で藻掻く身体を腕に囲い、上からこう囁いた。
「捕まえた」
 それまで喋っていた声とは異なり、すぅと耳から身体の奥へと入り込む不思議な響きを持っていた。
 小さく囁いただけだというのに、幾つもの音域の中で反響する。いつまで経っても消えることがなく、洞窟の中に入れられたような錯覚に陥るものだった。
「あ…あぁ…」
 少女がシーツの中で震え始める。
 ようやく気が付いたらしい。
 自分がどんな生き物に抱き締められているのか。
 捕食者の元に自らを投げ込んだのだ。
 無害そうな花に惑わされて、その内側にどんな仕掛けがあるのか感じ取ることが出来なかった。
 愚者は恐怖に落ちた。
 螢はいつもこの瞬間、落ちてきた相手がとても愛おしい者のように感じる。
 その愚鈍さが、醜さが、螢を生かしてくれる源へと変わっていく。
 小動物のように震える少女をそっと優しく包んだ。
 少女の頭を手探りで探し、螢は唇を寄せた。
「動くな」
 とても優しい声音だ。けれど有無を言わせぬ何かが込められていた。
 少女はびくりと身体を強張らせたかと思うと、微動だにしなくなった。それでも小刻みに震える様子は、極度の恐怖を抱いていることを教えていた。
「抗うのなら、宿主と共にこのまま殺めてしまう」
 螢はそう囁く。
 脅しでも何でもないことは、相手にもよく伝わっていることだろう。
 人間と悪魔を同時に喰い殺すことなど動作もない。
 魂であるのなら、大抵の者を喰うことが出来る。
 しかし螢は人を喰らうことを良しとしていない。けれども憑依した者はそんなことを知らない。
「安息の死。苦痛に満ちた死。おまえはどちらかを選ぶことが出来る」
 螢はシーツの上から頭を撫でる。まるで宥めているかのようだ。
 けれど口から紡がれることは残酷だ。
 死ねと、そう言っているのだから。
 逃れる選択肢を与えることなくゆっくりと真綿で首を絞めていく。
「知恵なきおまえへの慈悲だ」
 言語すら使うことの出来ない者は、むやみに人間などに手を出したからこんな目に遭うのだということすら知ることが出来ない。
 欲に目が眩んだ畜生に近い。
 知恵が少しでもあったのならば、躊躇ったかも知れない。躊躇い、呼び声から耳を塞いだかも知れない。そう思うと多少の哀れみはある。
 圧倒的優位な立場にいる者が抱く、気紛れのような慈悲だ。
「苦痛を得るというのなら、逃れるがいい。おまえを焼き殺す者が傍らに立っている」
 不動は少し離れた場所で、螢と少女を眺めていた。
 興味のなさそうな顔をしているが、螢がこの腕を離せばあの男は迷わない。
 その手にかかれば、この程度の悪魔、すぐに焼き殺されるだろう。
 手で頭を掴まれただけで、あれだけの煙が上がったのだ。
 螢も異質だが、不動もまた異質であることに変わりはない。
「だがもし、安息の死が欲しいというのなら」
 螢は少女を抱き締めていた腕を離した。
 ここで逃れたのなら、この悪魔はすぐさま殺されることだろう。
 不動の素早さと優秀さは螢の比ではない。確実に素早く始末する。
 こうして言葉を投げかけることもない。
「顔を上げて私を見るがいい」
 普段とは全く異なる口調で、螢は静寂を讃えた眼差しを向ける。
 どこか生々しさを失った者のようだった。揺らぎがなさすぎるのだ。
 少女は身じろぎをしたかと思うと、シーツから腕を出した。
 細く、白い手だ。
 そしてするりとシーツを剥ぎ取る。
 涙と恐怖に満たされた目が螢を見上げる。だがその表情は歪んではおらず、むしろ安らいでいるかのように見えた。
 うっすらと開かれた唇からは、荒い呼吸が零れる。
 嗚咽を殺し続けたのだろう。
 螢は少女のまぶたに触れた。そっと目を閉じさせる。
 もう何も見ることない。そう告げているようだ。
「哀れな」
 口ではそう見下すような言葉を言う。けれど螢は慈愛に満ちた表情で微笑んだ。慈しむようにまぶたに置いていた手を離し、顔を寄せる。
 そして我が子に接するように、口付けた。
 神聖さを漂わせる光景だった。
 肉欲など欠片も含まれていない。感情すら感じられないものだった。
 少女は目を閉じ、されるがままになっていた。怯えていた身体は震えるのを止め、全身から力を抜いていく。
 人の魂の気配を感じながら、それまで喰わないように螢は神経を尖らせる。
 心臓の奥から甘みが広がっていく。
 人間のようにしてとっている食事は口で味を感じるが、こうして悪魔やら心霊やらを喰っている時は身体の奥、主に心臓で熱や味を感じていた。
 とくりとくりと鼓動が歓喜を伝えてくる。
 いつもとは違う味がちらりとよぎった瞬間、螢は唇を離す。
 人間を喰うつもりはない。
 少女は唇が離されると、そのまま横に倒れ込もうとした。
 そっと腕を伸ばして抱きかかえると、その軽さに驚かされる。
 畜生に近い悪魔に憑依されると何もかもを摂取される。栄養自体も奪われるのだ。
 あのままでは近い内に栄養失調で死んでいたことだろう。
「容易に手を出すと、こういうことになるんだよ」
 螢は人のような生々しさを取り戻して、苦笑した。
 似たような人間を見てきた。同じ言葉を繰り返してきた。
 そして同じ人には二度と会わなかった。
 もう悪魔に憑かれなくなったのだと思いたいが。
 実のところ、再び悪魔に憑かれた人間というのは浸食される度合いが非常に早い。
 早々に意識を奪われて、食い尽くされ、そして死んでしまうのだ。
 螢のところに来る前に。
 そっと頬に手を添える。
 暖かな血肉を持った生き物だ。
 ごっそりと痩けた頬を撫でる。ふっくらとした顔になれば随分印象は穏やかになるだろう。
「これに懲りたら、もう二度としないことだね」
 聞こえていないと分かりながらも語りかける。
 これは願いだった。
 これから先を生き、様々なことに出会い、そして死んでいく。確かな命と身体を持った正常な生き物に対する願いのようなものだった。
 ぼろぼろになったシーツに少女を寝かせる。
 満たされた感覚、心臓に残る甘さ。
 だがその感覚が薄れていくにつれて、唇を噛みしめた。
 戻ってきてまで、やっていることは同じだ。
 こうして慈愛をちらつかせて悪魔を喰らっている。
 優しさなど見せても誰も救えないと知っているくせに。
 霊体を喰って生きている化け物だというのに、何故こうして慈しみを見せているのか。
 押し寄せる苛立ちと自責に息を吐く。
 不動の視線が突き刺さった。
 この感情を、不動は見透かしているだろう。
「螢」
 名を呼ばれて顔を上げた。
 いつも平静さを漂わせている人に見つめられ、波紋を知らぬ水面に似た眼差しに意識を引き寄せられる。
 だが不動は何も言わず、部屋を出ていった。
 沈む螢を引き上げた。けれどそれ以上のことはしない。
 他人の気持ちにどれだけ干渉しようとしても、本人が変わらなければ何の意味も持たない。
 それを知っている人だった。



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