5




 一階に下りると、母親が待っていた。
 青ざめて、今にも倒れそうだ。
 激しい物音を聞いていたのだろう。
「娘は…!?」
「無事に祓い終わりました」
 不動はは短くそう言った。微笑みでも浮かべれば多少母親も落ち着いただろうが、無愛想なままだ。
「病院にでも連れていったほうが良いでしょう」
 階段をゆっくりと下りながら言うと、母親は眉を寄せた。
「精神科ということですか?」
 悪魔というものを信じ切ってはいないようだ。
 無理もないだろう。見たこともないことを信じるのは難しい。まして悪魔だの幽霊だのというものは、見たことも接触したこともない者が勘違いなどで話すことも多い。
 間違いなどが露見するたびに、胡散臭さが増している。
 そんなものは存在しない。と思っている人がいても不思議ではない。
「いえ、身体がかなり痩せ細っています。体調の問題です」
 精神の問題など、不動は関与しない。
 あくまでも身体が危ないということだけを伝える。人としてのささやかな忠告だ。
 母親はほっとしたような顔をすると「分かりました」と頷く。精神科より、内科などのほうが良いのだろう。
 二人は階段から下りるとそのまま玄関で靴を履く。
 数十分の作業だ。
「同じことを繰り返さないように、娘さんによく言って聞かせて下さい。自分がどんな状態だったのかも」
 螢は靴を掃き終わると母親に向かってそう言った。
 母親が困惑の表情を浮かべる。自分がおかしくなっていた話など聞かせて大丈夫なのか、何の利益もないだろう、と言いたげだ。
「娘さんに事実を言い辛いということは分かります。ですが御自分がなさったことを理解させるのは必要なことです。彼女も一人の人間なのですから」
 責任を持たせるべきなのだと、螢は言った。
 自分が行ったことの浅はかさを知らなければ、同じことを繰り返すかも知れない。
 そうなれば、危ういのは彼女自身だ。
(説教みたいだ)
 人を諭していることに、苦みが込み上げてくる。
 こんな真似はもうしないと思っていたのに、知らぬ顔をしていればいいのに、何故こうして言葉を伝えようとしているのだろうか。
(伝わらないと分かっているくせに)
 自嘲を表に出すことはなかった。こうして心境を隠してしまうのも慣れたものだ。
「分かりました。娘には…きちんと話して聞かせます。もう二度とこんな愚かな真似はさせません」
 母親は頭を下げた。
 声だけがはっきりしていた。
 その手はきつく握りしめられ、白くなっているというのに。
 あの少女は理解するだろうか。
 自分がしたことを。母親の思いを。
 一瞬だけそんな疑問が浮かんだが、それ以上考えることなく螢は不動と共に家を後にした。



 車に戻るは憂鬱な気持ちで助手席に収まった。
 今日はろくな日ではない。
 ころりとソファで仮眠を取ってから、胸を塞ぐような気持ちがのし掛かってくる。
 その上記憶を刺激することが続いている。
 もう一年経つ。  まだ、と言うべきなのだろうか。
 螢を日本に繋ぎ止める者たちがいなくなり、ふらりと出ていった所で。
 捕らわれて戻ってきた。
 こんなに馬鹿げた話はない。
(神様は…やっぱり未だに見付からないな)
 日本を出る前に口にした言葉が蘇る。
 神というものは何なのか。一体それは何なのか。
 その中でも熱心に独りの神だけを崇めていた者がいた。それは世界でもとても多くの者たちが信じていると聞いた。
 だから見たいと思ったのだ。
 そして縁のある者と共に日本を発った。
 けれど結果的に、神様を求めて、自分が神様になっていたなんて。
 なんて馬鹿げた話なのか。
(神様なんてもんになれるわけがない)
 化け物になら、生まれた時からなっているが。
 溜息をつくと、不動が運転席に入る。
 黙ってエンジンをかけると携帯電話を投げてきた。
「充に報告を」
 依頼が無事に終了したことを充に伝えろ、ということだろう。
 普段は不動がぶっきらぼうに「終わった」とだけ言うのだが。
 昼間に話が出来なかったことを気にしてくれているのか、それとも人と会話をさせなければいけないほど今の螢は気鬱そうに見えているのか。
 その両方かも知れない。
 未だ慣れていない手で充のメモリを呼び出して電話をかける。
 耳に当てると呼び出し音がした。
 その間にも、車が走り出す。
『もしもーし。終わった?』
「無事終了。怪我なし。損傷なし。かなりスムーズに終わったよ」
 螢がそう報告すると、充が『螢ちゃんじゃん!』と声量を上げた。
「そのちゃん付け止めろって」
『いいのいいの。不動の隣にいたら螢ちゃんなんて可愛いもんよ』
「比べられたくない」
 厳ついと言える不動の隣にいたら、大抵の人間は可愛くなる。
『昼間にそっち行ったんだけどさー。自分の仕事で急用入っちゃって』
「らしいね」
『起こすのは悪いかと思って黙って帰ったんだけど』
「そんな気は使わないで起こせば良かったのに」
 そうすればあんな夢は途中で途切れだろう。
 馬鹿馬鹿しい感傷に浸る余韻など残さず。
『でも寝起き悪いらしいじゃん』
 不動に聞いたのだろう。
 確かにあまり良くはない。
 自力で起きると平気なのだが、人に起こされるとぐすぐずとしている場合が多いのだ。
 眠りの中が気持ちいいのだ。
 けれど今日はとても眠気に身を委ねる気分ではなかった。
「時によるって。今度は起こしてってよ。不動と暮らしてても全然喋ってくれないから。いい加減唇くっつきそう」
 そう良いながらも無口な男と暮らすのは苦痛ではなかった。
 話しかければちゃんとしたことが返ってくる。そう分かっているから沈黙も苦しくはない。
『唇なんかくっつかないでしょーが。舌入れたらすぐに離れるって』
 不動と螢が何をしているのか知っている男は、軽く笑った。
 同性だというのに一切の抵抗感を示さない。充の周りには同性愛者が元からいたらしい。
 不動も同じだ。充と交流関係が重なっているだけあって、なかなかに奇妙な人とも知り合いらしい。
 この中で抵抗があったのは、螢だけかも知れない。
「そんな卑猥なことを言うのって、問題なんじゃないのか?なんだっけ、この前ニュースで見た」
 カタカナが思い浮かぶが思い出せない。
 そういうものとあまり縁がない生活が長かったため、思い出すのに時間がかかる。
『セクハラ?』
「それそれ。セクハラだ」
『ちゃんと思い出してくれよー。痴呆入ってきてる?』
「そんなもんが入る年はとっくに終わってるよ」
 人間の年齢なんかに換算されては、とっくに死んでいることになる。
『ボケないように、また構ってあげるよ』
「暇になったら、いつでもどーぞ。俺の家じゃないけど」
 不動の家に居候しているのだ。
 けれど部屋の主は「おまえの部屋だろうが」と静かに言った。
 その言葉に驚いていると『んじゃまたぁ』と充が電話を切っていた。
「違うのか」
 …違わない。そう唇だけで言った。声にはなっていないので不動の耳には届いていないだろう。
 この男にどこまで入り込んでいいのだろう。
 どこまで浸食していいのだろう。
 きっと不動は潰れない。自我が強く、崩れることも、揺らぐこともない人だ。
 螢の正体を知っても、過去を知っても、平然としていた。だから大丈夫。
 けれど保証はない。どこまで寄りかかって良いかなんて分からない。
 自分がいないのに寂しがってもらえないのは嫌だ。けれど自分がいなければ生きていけないなんて思って欲しくもない。
   依存して、依存しないで。
 この気持ちを上手くコントロール出来る境界はどこにあるのだろう。
「帰ったら、不動を頂戴」
 ちらりと金色の髪がよぎって、空しさに螢はそう口走っていた。
 身体が飢えれば、螢は不動へと手を伸ばす。
 だがこれは身体というより、精神的なものだろう。
 それでも、飢えには違いがない。
 満たすためにはほんの少しの気力を吸い取るのだ。体力や気力、精神力は魂の欠片。
 不動は人間とそれ以外のものが組合わさって複雑な味をしている。それは今まで味わったことがないもので、食すと癖になってしまったのだ。
 先ほどのように知能も力もない悪魔を喰うよりずっと美味しいと感じる。
 無言の横顔は顰められた。
「寿命を縮めるわけでもないのに、そう嫌がらなくても」
 悪魔を喰うように魂自体を喰っているわけではない。螢に喰われても死ぬわけではないのだ。
 それに大抵食事は情事として行われる。
 そのため途中から食事というより、純粋に身体が快楽を求めていくのだ。飢えが満たさたかどうかなど気にならなくなる。
 応えるように不動もしっかり欲情しているので不快ではないはずなのだが。
「今日は飢えてもないし」
 時折身体の飢えが強いと、がっつくようにして不動の体力を奪う。
 見た目通り頑丈な男なのでさして問題はないようなのだが、気怠さが残るのは気に入らないらしい。
 どれくらいまでなら許容範囲なのか、未だによく分からない。
 動きたくない、と言い始めたらもう駄目なのだろうか。
 だがその台詞は「動くのが面倒になってきた」という意味に感じることが多すぎる。
 暗に上に乗れと促されているような気がしないでもないのだ。
 本当はどうなのだろう。
 身体の相性はいいのに、どうも感覚に違いがあるようだ。
(難しいなぁ)
 人と付き合っていくのは難しい。
 だが不動の傍らにいるのはとても楽だ。
 何も隠さなくていい、取り繕わなくても、幻を見せなくても良い。
 ただありのままで、思ったことを口にしていいのだ。
 それを不動に言うと、大抵の人間はそうしている、と返ってきた。
(俺もそうだった。昔は)
 だが自由を知っていた過去のことなどもう覚えていない。
 記憶はある程度の期間が過ぎると、自動的に消去されていく。知識としての情報は残されるが、人間の顔、名前、自分が何をしていたのか、などの感情が混ざってくるような情報は消されていく。
 そうしなければ新しいものを覚えられないのだ。
 入れ物には何であれ、限界がある。
(だからきっと、あの子のことも忘れる時がくる)
 脳裏によぎった憂いを帯びた青年の顔。彼のことも忘れる時が来るだろう。
 その時までじっと、黙って耐えていればいい。
 ただ、出来るなら彼が全てを捨ててくれることを願った。
 檻から逃れた幻のことなど忘れ、歩みだして欲しい。
 あの少女のように、呪縛から逃れたのだから。
(光など一つではない)
 どこにでもある。
 それこそ、自分の中にも。
 気が付いて欲しい。
 そう、遠く離れた地で螢は祈った。







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