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  信号を見上げていると、黄色になって車が止まった。
 あの黄色はとある人の髪の色に似ている。
「充は何て言っていた?」
 だらんとした服装をした脳天気な男のことを、不動に聞く。
 見た目はいい加減なのだが、中身はしっかり霊体専門の仕事をこなしている。ついでに情報や依頼などをこちらに回してくる仲介屋の役割も担っていた。
 不動との付き合いは長いらしい。
 仕事の用事以外でも、不動と同居している部屋によく来ている。
「低能悪魔だと」
 充は悪魔の相手は出来ない。だがある程度力を感じることは出来るようだ。
 能力については確かだと思っているので、その判断はおそらく正しいのだろう。
 そもそも、さして力強い悪魔というものを日本に戻って来てからそうそう会っていない。
 やはり日本には日本固有の者が多く存在しているからだろうか。
「おまえが寝ている間にやってきて、呼びされて出ていった」
「起こしてくれればいいのに」
 充がやってくるのは珍しくないが、不動以外の人間にあまり会わない。
 まして不動は無口で、螢は毎日会話に飢えていた。
 その点充はよく喋るので好都合なのに。
「苦しげな寝顔を見ていた」
「いや、本当に起こしてくれないか、そういう時は」
 苦しそうだと思っていたのならもっと早くに起こしてもらいたい。
 あの夢は二度と見たくないと思っていた、現実だったのでなおさら。
「忘れないのか」
 青くなった合図に車が動き出す。
 不動の短い言葉に、心臓がどくりと鳴った。
「そう、言っていた」
 伝聞であるとの言い方に、内心安堵の息を吐く。
 不動がそうして気を使ったことを言う時は大概、螢が追い詰められている時だ。
 今も少し参っていた。あんな夢を見たせいだろう。
「忘れたいよ」
 何もかもねこそぎ忘れてしまいたい。
 螢はずっと日本にいて、異国へなど行っていない。誰も失っていない。誰とも暮らしていない。そして誰も、見捨てていない。
 そう思うことが出来れば、どれほど楽になるか。
「ならそうすればいい」
 いとも簡単に言う不動に、螢が苦笑する。
 出来ないからこそ、記憶が螢を苛んでいるというのに。
「そうしたいよ。出来ることなら今すぐにでも」
「人は忘れていく」
 無表情な不動の横顔を見て、螢は悲しいことに忘れたいと願っている国のことを思い出した。
 懺悔する人々の口から零れてくる言葉。それはどれも己の所行を悔やんでいるものばかりだ。
 その中ではずっと昔のことを今も後悔しては、その罪に苦しんでいる者がいる。
 忘れることなど出来ないのだと、思わせられた光景だ。
「本当に…?」
 可能だとすれば彼らの苦しみは何なのか。
 藻掻きながらも生きている彼らの悲しみは、なぜ消えない。
 忘れられるのならばそうすればいいだけだというなら。
「思い出せば、記憶は深く刻まれる」
 車は住宅街の中に入り、速度を落とした。
 一戸建ての並ぶ様は車の中でも静かさを感じてしまう。
 煉瓦造りの道でも、狐色の家でもない。
 だが小さな窓が並ぶ光景がすっと脳裏に蘇ってきては螢を責める。
 あんな夢を見た後に、悪魔払いに出掛けたからだろう。
 ここは日本だというのに。どこの国を瞳に映しているのか。
「後悔するだけ、おまえは苦しみを重くしていく」
 不動は似たような家が建ち並ぶ中、一つの家の近くに車を止めた。
 こじんまりとした家。アイボリー調で落ち着いている。
 駐車をして、シートベルトを外す。ここが目的の家なのだろう。
 螢もベルトを外していると、運転席のドアを開けて不動が振り返ってきた。
「過去なんておまえにはない」
 それは日本に戻って来る前、螢が言ったことだ。
 積み重ねてきた時間を捨てるようにして、ここに戻ってきた。
 不動はそれを覚えていたのだろう。
 振り返るな。
 そう言われた気がした。



 玄関に立つと鼻が微かな匂いが嗅ぎ取った。
 現実に流れている匂いではない。あえて言うなら目に見えないというのに感覚に引っかかる、何かだ。
 それが、この家に妙な者がいるという証だった。
 不動がインターホンを押す。
 並んで立っていると、不動の方が体格も良い上に身長も高い。
 がっしりとした男の横では、螢も小柄に見えてしまうかも知れない。
(昔はこれでも背が高い方だったけど)
 最近では背の高い人をよく目にするようになった。
 螢も平均的な高さになってしまっているようだ。
 掌サイズの四角いインターホンから『はい』と声がした。
 女だ。
 あまり明るい声だとは思えないが、悪魔に関わっているのに明るく生活している人はいないだろう。
 騙されていない限り。
「依頼を受けた者です」
 低い声でぶっきらぼうに言う。
 そのため時折不動に怯える依頼主もいる。
 愛想を良くしたほうがいいのだが、改善される傾向は全くない。
 代わりに螢がにこにこ笑っている。
 二人して仏頂面で並んでいるとかなり恐ろしいものがあるだろう。けれど螢だけでも微笑んでいれば、印象はがらりと変わってくる。
 ドアが開かれ、中から女が出てきた。
 四十後半ほどに見える女は青白い顔に悲愴な表情を浮かべていた。疲弊しているのがすぐに分かる。
 写真で見た少女に似ていた。印象が暗いところまで共通している。
 母親なのだろう。
 玄関から出て来ては二人に頭を下げた。
 二人の前で門扉を開ける手は、枝のように細い。ちらりと見えた手首に痣がある。人の指がめり込んだように見えた。
 よほど強い力で掴んだのだろう。
 暴れたのかも知れないな。螢は頭の中で悪魔に憑かれた少女を思い浮かべた。
 乱暴になるということは、力でねじ伏せようとしているのだろう。そうして暴れるという行為で自分の力を誇示したがる者は知能が低い。それは悪魔も人も変わりがない。
 不動も会釈をして自分の名前を名乗った。ついでに螢の名前もさらりと流してくれる。
 あらかじめ充から話が行っているのだろう。母親は「お待ちしておりました」と言って二人を中へと促した。
 玄関から中へ入ると、螢が気にしていた匂いが濃くなった。
 花とアルコールをほどよく混ぜた香りだ。
 蠱惑的なそれは、人間には感じられないらしい。不動も匂いだけは察知出来ないと言っていた。
 これはおそらく食欲を誘う匂いなのだろう。
 螢だけが感じて、螢だけを呼び寄せる匂いだ。
「娘は二階におります」
 痛ましいものを見るかのように、母親は上を仰いだ。
 タイミングを計っていたかのように、上からガタンと大きな音がする。
「ああしてずっと暴れているのです。部屋に入ろうものなら、私に襲いかかってきて」
 前まではそんなことなかったのに…と弱々しい声で母親が言う。暴力をふるうような娘ではなかったということだろう。
 不安げな表情で、母親が痣の付いている手首を握った。
 強く掴まれた時のことを思い出しているのだろうか。
(でも、まだマシだなぁ)
 螢は悲愴な顔の母親が目の前にいるので黙っているが、今まで見てきた悪魔の中でもこの現状はマシなほうだった。
 部屋に籠もって暴れているだけなのだから。
 外に出て人を殺すことも、火を付けることもない。
「…悪魔は…祓えるものなのでしょうか」
 母親は娘の異常な姿を見て驚きながらも、悪魔というものは信じていないのかも知れない。
 懐疑的な眼差しが不動にそそがれる。だが不動はその眼差しに対して何の反応も示さない。
 信じたいものだけ信じればいい。そういう態度を崩そうとはしないのだ。
「お任せ下さい」
 代わりに螢が微笑んだ。
 すると慰めでも良かったのか、明らかに母親がほっとしたように息を吐いた。
 それに対しても不動は何も言わず、ただ二階へと繋がる階段を睨んでいる。
 この先にいるだろう悪魔のことを考えているのだろう。
(そんな風に見なくても、大した相手じゃない)
 螢にとっても、不動にとっても。
 上にいる悪魔は相手にもならない程度の者だろう。
 こんなもの、すぐにでも終わらせられる。
 香っていくる匂いに力の強さをすでに察知していた。甘さと苦さを混ぜた匂いはほんわりと微かにしか感じられない。
 力のある者ならもっと強烈に、螢の意識をぐらつかせるほど強い香りを放ってくるのだ。
「上がってもよろしいですか?」
 許可を求めると、母親が頷いた。
 青ざめた顔。娘の変わり果てた姿でも思い出したのだろうか。
「お気をつけて…」
 とん、と押せばそのまま崩れてしまいそうな人だ。
 不動は母親に対して一つ頷くと階段を上り始めた。
 その後ろに続く。
 階段は一段上がるたびにぎしりときしんだ。
 それを聞きとがめたかのように、部屋からガタンと大きな物音が聞こえてくる。
 ドアを開ければすぐにでも飛びかかってきそうだ。
 部屋の前まで辿り着けば、不動がドアを睨み付けていた。
 中にいる者がどの程度か探っているのだろう。
 だが螢は中を見なくてもどの程度なのかすでに感じ取っている。
「大したことない」
 そう言ってノブに手をかけた。
 掌から伝わってくる、ぴたりと肌に張り付く甘さ。
 痺れに似ている。
 これが心霊相手だと、電流のような痺れと共に冷たさが伝わってくる。
 甘さに捕らわれることなく、螢はドアを開いた。
 途端に小さな風圧を感じる。実際は風などではなく、威圧感だ。
 少女は部屋の中央で四つん這いになってこちらを睨み付けていた。ぼさぼさになった髪、血走った目、セーラー服はあちこち破れ、誰かと争ったかのようだ。
 爪は割れて血が流れている。無理矢理堅い物を引っ掻いたように見える。
 その証拠は彼女自身に残っている。
 首筋、手首、足などに細い爪痕があるのだ。
 部屋の絨毯には大きく模様が書かれている。円形の中に広がる奇怪な文字と図形。これで悪魔を呼び出したのだと思われるが。
(あまりにも拙い)
 完成形とは口が裂けても言えない、あまりにも雑で、欠陥の多いものだ。所詮の子どもの落書き、何の威力も持たないものにしか見えない。
 その上どんな言語にも見えないのだ。
 螢は今まで悪魔を呼んだ人々というのを見てきたが、その中でもとびきりヘタなものだった。
 模様からは何も感じられない。
 悪魔を引き寄せるようなものは何一つ。
(それでも呼んだのか)
 歳月を得れば得るほど、人は悪魔を呼び出す方法を曖昧にしていった。今では正確に召還出来る者もごく少数だろう。
 だが誤ったものでも、何かのきっかけに呼び出してしまうのだ。
 むしろ人の命を奪おうとしている側にとっては、これだけ不完全で未熟な陣のほうが良いのだろう。正確な陣では人と契約を結んでこちらに来る。しかし不完全なものならば呼び出されても人間の支配を受けないのだから。
 絨毯だけでなく、壁にも模様が描かれている。張れているポスターの中には何やら人間と動物を組み合わせたような絵があった。
 悪魔をモチーフにしているようだ。
 これがこれを呼び出そうとしていたのだろうが。
(残念ながら、人の形を取ることも出来ないものが来てるみたいだ)
 獣のように唸る少女を見て、螢は苦笑した。



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