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 車の助手席に座る。
 左側から見える光景。右ハンドルの車にはまだ慣れていない。
 去年まで、ずっと左ハンドルの車に乗っていたからだ。
 不動は運転席に座ると、写真を手渡してきた。
 そこに映っているのはセーラー服の少女だった。
 髪は黒く、肩まで伸ばしている。口が小さく、不機嫌そうに口角が下がっていた。目つきも少々難がありどこか暗い印象を受けた。
 陰鬱そうだ。
 それがまず始めに抱いた感想だった。
「内容は覚えているか」
 鍵を差し込みながら、不動が尋ねてくる。
「……あーっと…悪魔憑きか何かだっけ?」
「螢」
 エンジンの振動音に混じって、不動が呆れた声で名を呼んできた。
 おまえはしっかりと記憶することも出来ないのか。鋭い目がそう責めた。
「呼んだ悪魔に憑かれた。現在八日目だ」
「悪魔憑きであってるじゃないか」
「曖昧な記憶に頼るな」
 車が滑らかに走り始める。
 どこに向かうのかということは聞かない。
 螢が運転するわけではないのだ。不動が道を知っていればそれでいい。
「年齢は十六」
 どうやら内容を説明してくれるらしい。
 雑談を一切入れようとしない男は口調も淡々としていた。
「十六か…お年頃だなぁ」
 思春期と呼ばれる時期に入っている少女の顔を見下ろす。
 目に見えないものを信じて、力を欲しがるような時期だ。まだ自分には何かしらの力がある、凡人ではない特別なものがあるのだ。そう信じていられる年だろう。
 現実はこんなはずではない、そう目をそらせる時期でもある。
 悲しいことに、目を背けている現実ほど本人を確固として認識してくれるものはない。
 その違いが、こうして軋轢を生んでは螢に仕事を運んでくる。
「一ヶ月前に豹変し、母親が依頼をしに来たらしい。充が初めに向かった」
 充というのは心霊を専門として仕事をしている人だ。
 この仕事は主に心霊関係が先に行く。
 そのため詳細な情報がこちらまで流れてくる。
 大抵は本人の思い込み、精神的なものからくる強迫観念で済ませられる。
 心理的要因は人間の目も耳も曇らせてしまうからだ。
「だが部屋に描かれた奇妙な模様と本人を目にして退散」
 それは生半可なものではない、そう判断されたのだろう。
 心霊専門の人間でも、素人に毛が生えたものから、本格的なプロまで様々なレベルがいる。
 霊体のレベルに合わせた仕事が割り振られるのだが、二人はその中でも特殊なものや厄介事を引き受けていた。
 心霊専門でも、なかなか取り扱えないようなものだ。
「言語は使用しない。畜生でも、霊体でもない」
 霊体ですらない。という言葉に、螢が写真をダッシュボードに置いた。
「呼んじゃったのか」
 軽く口にしたことだが、実際はとんでもない事態だった。
 易々と呼び出せるようなものでもないというのに、あの少女がどうやって引き寄せたのか。
「そういう家柄じゃないんだろ?」
 尋ねてみると、不動が「ああ」と短く答えた。
 呼び寄せる家柄というのがある。
 獣であったり、死んだ人間であったり、たまに生き霊も引き寄せる人間がいる。その多くは血が影響しているらしい。
 そして本人が生まれ持っている才能が組合わさり、初めて可能になる。
 だが身内の不手際を外の人間にさせるほど、あの類の家系は懐が広くない。
 昔からそうだ。きっとその辺りは今も変わりがないだろう。
 この少女はその血がないというのに呼び寄せたのだから、強い才能があったのだろう。
「悪魔を呼ぶ、かぁ…」
 大抵どんな呼びかけをしたところで、向こうは寄って来たりはしない。
 欲しいと思わないものから声をかれられたところで、手を出さないのと同じだ。何かしら惹きつけられるものがあり、初めて肉体を奪い取ろうとする。
 身体に憑依したものを感じれば、呼んだ人間は力を手にしたと喜ぶ。だがその代償は身体と命。両方を支配され、食い尽くされ、人は死んでいく。
 結末はいつも同じだ。
 例外などない。
 それだというのに、人は力を求め続ける。
 何年も何人も、喰い殺されていた人間を見つめてきた。欲望の数だけ、人は死んでいく。
「それにしても、悪魔って呼び方も随分広まってるんだな。俺が出ていった時にはそんなに聞こえなかったのに」
 今じゃ当たり前なんだ。
 螢は小さく呟いた。
 何十年か前に日本を離れた時はまだ車なんてそうそう通っていなかった。今は機械や情報が溢れている。
 茶色や金の髪を見るたびに、真っ黒な髪ばかりが並んだ道を思い出した。
 けれど時代というものは流れ、また過去は潰されていくものだと知っていた。それに関して哀愁は沸かない。
 ただ。
「…ここに来てまで悪魔払いか…」
 どこにいてもやっていることが分からない自分に、苦笑いが浮かんでくるだけだ。
 もう悪魔とは関わり合いになりたいないのだが、不動の仕事に役立つならと動き始めたのか間違いだったのかも知れない。
 今更のようにじくりと生まれる後悔に目を閉じた。



 不動は悪霊払いやら呪いの返し、憑き物落としや祟りを収めるという仕事をやっている。
 もともとそういう仕事は古い時代から生きていた。
 目に見えないものを敬い、恐れ、讃えるのは生き物の性なのだろう。
 だが大抵は霊と対話をして落ち着かせる、なだめすかす、または奉って機嫌を窺うという方法を取る。
 霊体と接触をして、なんとか自分たちの言い分と相手の言い分を丸く収めようとするものだ。
 霊能力者はこの方法を使う者が大半だが、不動は違う。
 不動は相手の意見を基本的に聞かない。
 聞いて欲しいと願う者には耳を傾けるが、自分の言い分だけをわめき散らして人の話を聞かないタイプの霊は問答無用で消しにかかる。
 宥めるという行為が苦手なためらしい。
 だが無言で存在ごと消し去るだけの力を、普通の人間は持っていない。あるとすればよほどの血筋か、突然変異だろう。
 不動の場合は人間ですらない。正しくは半分は人間だが、半分は人間ではないのだ。
 どんな者なのか、螢は知らない。不動の親に会ったことはないからだ。
 ただ日本に昔から住んでいる、古い者だということは感じ取っていた。
 人間ではない。そしてその身体の中に流れる時間がゆったりしていることが、螢を引き寄せた。
 不動はおそらく、そろそろ年を取ることがなくなるだろう。
 人間ではない半分の血が、老いを許さなくなるのだ。
 それはとうに年を忘れてしまった螢にとって、喜ばしいことだった。
 誰もかれもが螢を置いて死んで逝く。百年という歳月は螢にとってはあまりに短い。
 けれど不動とはまだこれからも一緒にいれるのだ。
 そのせいか何の不安にも捕らわれることなく、傍らにいられる。
 己が異質であることも、積み重ねてきた時間も、誤魔化すことがない。
 今までこれほど自分のことを晒すことの出来る者はいなかった。
 同じように年を取らない生き物と出逢っても、螢は彼らを喰らうことが出来るからだ。
 螢は霊体を喰らう。魂を喰らう。
 人であるのなら身体を傷付けることなくその命だけを奪うことが出来る。化け物相手であってもそうだ。
 けれど化け物、特に日本には鬼などの類がいるがそれらに関しては、とてもではないが喰おうという気にすらならない。
 特に生まれながらの鬼など、手を出すことが出来ない。
 あれの前では自分も喰われる側の生き物になってしまいそうだった。
 他には悪霊などという死んだ人間の霊体なども喰えるが、あれはあまりにも味も力も薄いため依頼がないと手を出さない。そもそも、よくうろうろうしている悪霊などは人間の仕事だ。
 人や動物が霊体になるのならば、まだ現実世界で生きていた頃の感覚に捕らわれているので、人の問い掛けなどに答える者が多い。
 霊体専門の者ならちゃんと祓えるのだ。
 けれど生まれながらにして霊体の者は、人を「取り憑く相手」「遊ぶ道具」という認識しかない。そのため語りかけられても己に向けられたものだと気が付かない。
 または気が付いたとしても、人間の言葉など何の影響も持たない。
 それを喰うのが、螢だった。
 生まれながらにして霊体である者は螢の食指を動かす。
 本来の食い物はおそらく、それらなのだろう。
 憑き物たちは「誘う者」とも呼ばれている。
 ふっとした瞬間、それは闇の中から人を誘うのだ。
 願いを叶える。望むを与えてくれる。人にそう錯覚させて心の隙間に入り込み、人を食い尽くす。
 そしていつの間にか自我を奪われて、死んでいくのだ。
 宿主が死ねば、憑き物はするりと抜け出てまた新しい宿主を捜しにいく。
 人が狂いながら壊れていくのを面白がっているのだろう。おもちゃを扱うように。
 彼らは寿命がない。身体がないため痛みも病も飢えも知らない。そんな者たちにとって唯一の刺激が、人間に憑くことなのだろう。
 その中で最近日本でも囁かれる者があった。
 悪魔だ。
 日本には元々憑き物という者がおり、悪魔とさして変わりがなかったのだが、西洋文化が馴染んだため、それらもまた日本に入ってきた。
 内側から誰かが呼ぶのだ。
 興味半分なのか、本気なのかは分からない。
 けれど悪魔など人種が何であれ、遊ぶことが出来ればそれでいい。
 ただ人間にしてみれば、憑き物より悪魔の方が厄介と呼べることがあった。
 悪魔憑きの発覚が難しいことだ。
 日本の憑き物は異常行動を示す場合が多かった。けれど悪魔、特に知能も力も高い者になってくると大人しくなりを潜めるのだ。
 一見宿主に変化はなく。また自覚もない。けれど次第に異常を感じ始めた頃には意識を奪われている。
 周到な者たちなのだ。
 そして宿主に飽きる、または死が近くなって来た頃には自殺や事故に見せかけて殺してしまう。
 憑かれたことも、殺されたことも分からず、弄ばれた者が誰にも知られずに存在していることだろう。
 それだけの力がある悪魔は、しっかり言語も使っていた。
 達者な口で、彼らは螢にこう言う。
 おまえも悪魔と変わりがないくせに。
 彼らは見抜くのだ。螢が自分たちと同じだと。
 人間の魂を喰って殺すことが出来ると。その精神を弄んで殺すことと、元から絶って殺してしまうことはさしたる違いもないだろう。
 同じではないか、そう悪魔たちは螢に告げる。
 何故おまえは人ではなく、悪魔を殺す。
 どうしてこの世に溢れている人間をまずは殺さないのか。
 とても簡単なことだろうに。
 そう言われるたびに螢は口を閉ざした。
 化け物側にも、人間側にもいられぬ自分が、酷く惨めだった。
 どこにいても螢は、独りで生きていた。



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