偶像の檻 1 鉄柵のはめられた窓。そこから外を眺めるのはあまりにも空しく、いつもただ日が昇り、落ちては夜が訪れることだけ感じ取っていた。 一日の大半をベッドの上で過ごす。動くことすら億劫なのだ。 しゃらり、と鎖が鳴る。足首の拘束具から長く伸びたそれは、部屋の隅に繋がっていた。 随分長く、この部屋を自由に動き回れるほどだ。 何ヶ月この部屋に閉じ込められているだろう。 日数を数えることは止めてしまった。 時の流れはこの身体に何の意味も持たない。 さらさらと砂のように落ちていくものだ。 平凡なアパートの一室。だが実際は監禁するために作られたようなものだった。 ドアが鈍い音を立てて開かれる。 内側からは決して開かれない扉だ。 トレイを持った青年が部屋に入ってくる。 食べ物の匂いがしたが、食欲は全くない。元々それは自分の栄養になるようなものではないのだ。 いわば趣味のようなもので、取らないからと言って変調をきたすことはない。 もちろん死ぬことも。 「食べて下さい」 青年はベッドの傍らまでトレイを持ってきた。そして近くのテーブルに置く。 スープとパン。ごくシンプルなメニューだ。 こんなものを持って来られても、無意味だと分かっているはずなのに。 ベッドの上に座ったまま、青年を見上げる。 きらきらとした金色の髪と冴えた青い瞳。優しげな容貌をしている人は、こうして部屋に囲っている者が人間でないことは十分承知していた。 何週間も食事を取らず、平然と生きているのだ。どう考えても異常だろう。 けれど何一つ驚かない。心配もしない。 口にされることのない食事を形だけ運んで、そして処分する。 それは彼らがかつて過ごした日常の残骸だ。それを名残惜しむかのように、青年は毎日繰り返す。 「お考えは変わりませんか」 ベッドの傍らで、青年は問い掛けてくる。 黒い服に、首からぶら下げられたネックレス。 銀色のそれに目をやりながら首を振った。 「変わらない」 どう足掻いても、彼と意見が合うことはない。擦れ違ってしまったわけではない。出会った瞬間から、異なっていた。けれど彼はそれを受け入れない。認めようとしない。 だからこうして、縛り付けている。 逃れられないように。 「私は、おまえとは共にいられない」 何度この台詞を口にしただろう。そして何度諭しただろう。けれど一度たりとも彼に伝わったことはなかった。 そして今日も、彼は苦笑した。 どうして分かって下さらないのですか、そう子どもを窘めるような目で見つめてくる。 「私はおまえが望むものなど与えられない」 真っ直ぐぶつけてくるその眼差しが望むものは、何一つ与えられないのだ。 かつて小さなその手を引いたように、難解な言葉を解いて聞かせたように、何かをしてやれることなどもう一つとしてない。 むしろ、奪うことのほうが多すぎる。側にいたとしても、お互いがお互いを食い尽くすだけだ。 「私は貴方の側にいること以外、何も望みません」 穏やかな表情で男はそう言った。 どこか幸せそうでもある。その満たされた様子に、胸が凍り付く。 彼は理解しようとしない。目の前にいるものが何なのか見ようとしていない。 事実から目を背けて、ただひたすら異なったものを信じているだけだ。 「私は…神ではない」 万能でも、慈悲深くもない。 感情も身体も、酷く身勝手で恐ろしい生き物なのだ。それだというのにどうしてこの男は、純粋な信仰を向けてくるのか。 「いいえ、貴方は神です」 そっと微笑み、彼はそう口にした。 祝福を告げているかのようだ。 だが彼の言葉はこの心臓に突き刺さっては、棘を出して血を流させる。 「神が人を殺すというのか」 人を救い、人を殺すこともある生き物だ。彼と一緒にいる時は、神の御技と呼ばれているようなこともした。けれどそれは人間ではない別の生き物だったから出来たことだ。決して神であったからではない。 むしろ神などとは対極に位置しているというのに。 「貴方は、人を救われています。誰も殺してなどおりません」 心を苛まれることはありません。あれはあの人間が持っていた罪です。 それを償ったまでなのです。 彼は静かな口調で淡々と告げる。 揺るがない姿勢に、息が止まりそうだ。 「悪魔を退け、人を救う。それが神です」 恍惚としたものをちらつかせた目で見つめてくる男から、視線を逸らしたくなる。その網膜は何を映しているのか、この思考は何を考えているのか。 これほどに食い違ってしまったのはいつからなのか。 何もかもが分からなくなってしまっていた。 「貴方は私の元にお姿を現された神です」 男はひざまずき、恭しく頭を下げた。 そのせいで、見上げていた視線から見下ろすものに変わってしまった。 この頭を撫でて誉めていたのはついこの前だと思っていたのだが、人は本当に早く成長してしまう。 あっと言う間だ。 そしてその間に思いもかけない成長をしている。 こんなはずではなかった。 そう心が悲鳴を上げていた。 こんな風に目を潰すために、一緒に時間を過ごしたわけではない。狂わせるために、共に歩んだわけではない。 「逃がしてくれ…」 敬愛を向けられれば向けられるたびに、絶望を感じる。 傍らにいればいるほど、彼と世界との間に歪みが出来る。目の前にいる男は神などではない。正しさなど持っていない、誰も救いはしない。それを理解しないかぎり、彼はいつか崩壊してしまう。 「私を離してくれ」 こんなところに閉じ込め、神と崇めるよりも、世界をもっと見て欲しい。 正しさはこんなところにはないのだ。 けれど言葉は彼に届かない。 「考えを改めて下さい。貴方のお力が必要なのです」 「人のことなど知らない」 突き放すと、彼は顔を上げた。 悲しそうな顔をして、すがるように見上げてくる。 慈悲を。そう願っている男に唇を噛んだ。 おまえに与えられるものなど何もないと、そう喉が裂けるほど声を上げたい。そうして、彼が分かってくれるのなら本当に喉を裂いただろう。 けれど目を閉じ、耳を塞いだ男には、声を上げたところで何も感じさせることは出来ない。 「私は神ではない。人でもなく、化け物だ」 年月を知らず、他者の命を奪って生きている化け物。 正義も慈愛も持たず、ただ独りで生き続けている。目的も何もない。ただ流されて辿り着いた先がここであっただけで、今までも多くのものを拾っては投げ捨ててきた。 「おまえの母を殺した悪魔と変わらない化け物だ」 真実を述べても彼は憂いを帯びた双眸を向けてくる。 「貴方は私の母を救い、私を守って下さいました。悪魔であるはずがない」 母を苦しめていた悪魔をどうして殺すことが出来たのか、この男は理解しようとはない。 それは悪魔と近い力を持っていたからだ。少しばかり悪魔より優位な能力だった、ただそれだけのことだ。 もし悪魔とは全く異なる生き物であったのなら、人間であったのなら、きっと彼の母親と同じように喰い殺されたことだろう。 慈悲だけに満ちた者であったのなら、悪魔に対抗出来るだけの非情な力など持ってはいないはずなのだから。 「アルディ…目を覚ましなさい」 小さな頃から呼んでいた名を口にする。 彼の元から離れると決めた時から、なるべく呼ぶのを控えていた名前だ。 どうしておまえは私を見ようとしない。そんな泣き言が口から溢れてしまいそうだった。 「私の目は閉ざされてなどおりません」 凛然と、誇るように男は言った。 その自信に緩く首を振る。 「ならば、どうしておまえの手は染まってしまったのだ」 同じ生き物の血に、彼は染まってしまった。 穢れなきように生きていたはずなのに。 何故躊躇わなかった。 おまえはやってはならないことをした。 そう叫んだ時も、彼は今と同じように微笑んだ。 静かに、そして優しい声音でこう言った。 「貴方を失うことよりも恐ろしいことなど私にはなかったのです」 目覚めると鋭い目がそこにあった。 茶色の瞳。睨み付けるように見下ろしてきているが、不機嫌でも怒っているわけでもない、これが通常なのだ。 瞬きをして、夢を見ていたことに気が付く。 あまりにも生々しいため、目覚めたことに戸惑ってしまった。 数年前に断ち切ったはずの記憶が、夢という形で蘇ってくる。忘れるなと言われているような気分だ。 「うなされてた?」 そうでなければ目の前にいる人がこうして人の顔など覗き込んではこないだろう。必要以上に干渉することなどないのだから。 「ああ」 男はぶっきらぼうに答えて、そっと身体を離した。 鍛えられた大柄な体躯。短く刈られた黒髪。どこか近寄りがたい雰囲気。どれをとっても夢で見た人とは違いすぎる。 だからこそ、この男と一緒にいるのかも知れない。 ついたままだったテレビからは日本語が流れてくる。 ああ、ここはあの国じゃない。 そう思って深く息を吐いた。 「何時?」 ソファに寝転がったまま、そう尋ねた。 「三時」 問われたことに簡潔に答える。それがあの男の、不動の良いところでもあり、悪いところでもあった。 知りたいことは分かるが、それに付随してくるはずの情報までは分からないのだ。 三時には何かがあったような気がする。 「仕事?」 ぼんやりとなけなしの記憶力でそう言うと「ああ」とかろうじて肯定と分かる相づちが返ってきた。 もっと言葉で交流をはかってもいいだろうに。 髪を掻き上げて、前髪が少し長いことに気が付いて横に流す。 この身体は老いることがない。それなのにこうして髪が伸びていくから不思議なものだ。 夢の中では腰まであった髪はこの国に戻ってきてばっさりと切った。それから伸ばさないようにしている。 そろそろまた切る時期だ。 「車?」 「一時間ほどだ」 不動は車の鍵を片手にこちらを見てくる。用意をしろ、行くぞ。ということだろう。 目線で話が出来るようになったのは、あまり喋らない人と暮らすために身につけたことだ。他愛ない談笑など望む方が無謀だ。 「たまには運転したいな。気分転換にもなるだろうし」 「死ぬ気か」 即刻拒否され、思わず笑ってしまう。 初めて不動を乗せて運転した時のことを思い出したのだ。 感情の起伏が乏しく、いつも無表情に近い男は助手席で凍り付いた。あれほど硬直した不動を見るの初めてで、自分の運転の危険度よりもそちら気を取られたものだ。 「やっぱ駄目か。いつになったら出来るようになるんだろう」 ソファから立ち上がり、テレビを消した。 画面に映っていた女の髪は金色だが随分褪せた色をしていた。 作りだした色は本物には敵わないのだろう。 そんなことを考えた思考に、憂鬱な気持ちが浮かんでくる。 斬り捨てたはずなのに。 next |