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 店員がコーヒーを代田の前にことりと置いた。
 湯気が立っている。
 螢が飲んでいたアイスコーヒーの氷が、また一つ溶けた気がした。
「あの…」
 言い辛そうに代田が口を開く。
「はい」
「どのようなことをされるのですか?やっぱりお経などを唱えたりなさるんですか?」
 その手の質問はよくされる。
 お経や呪文を唱えて悪霊を祓う。というイメージが広く浸透しているらしいのだ。
 霊体専門の人の中には、呪文らしきものを唱えて大人しくさせる人もいる。
 しかし螢の場合は違った。
 言葉をかけて憑き物などの意識を引きずり出すのだが、呪文などを使うことはない。ただ話しかけるだけだ。
 それだけで向こうは螢に答えてくる。
 蛍が霊体に引き寄せられずにはいられないように、霊体もまた蛍を無視出来ないらしい。
 引きずり出せば、後は喰うだけだ。
 不動の場合はもっと簡単で、直接手で掴む。
 まどろっこしいことは一切行わない。
「笹渕と私はそのようなものは唱えません。道具も使いません」
 無論精進潔斎も、身を清めることもない。
 自分の身が綺麗になるなど、かけらも思っていないからだ。己の食欲を満たそうとしている矢先に、身を清めたところで煩悩にまみれていることは抑えようのないことだ。
「では、どのようにして」
 一体どんなことをするのか、気になるらしい。
 説明しても理解を得られるとは思えないのだが、依頼人の言うことにはとりあえず従い、納得してもらうのが良い。
 簡単にそう納得してもらったことはないが。
「人様に取り憑いたものに語りかけます。そして笹渕ですと、素手で人体から引きずり出します」
「素手で?」
 代田は目を丸くした。
 想像も付かないことなのだろう。
「はい。人体から霊体のみを引きずり出して、切り離します。もちろん人体には何の影響もありません」
 不動はただ触れるだけなのだから、人体に傷の一つも付かない。
  「人体に憑くとなかなか離れないものですが、笹渕にはそれを軽く取り出すことが出来ます」
 螢は落ち着いた口調で静かに話した。
 薄く笑みを浮かべている唇から語られていることを、代田は信じられないようだった。
 疑惑の目で螢と不動を見てくる。
 胡散臭さが増したのだろう。
 そんな人に頼み込めない、と判断したのならここで引き取ってもらえばいい。
 こちらから無理に仕事を売り込むことはない。
 仕事が欲しいのなら充が回してくることだろう。
「そんなことが…出来るんですか?」
「出来ます。奇妙なことに」
 不思議でしょう?と螢は微笑む。
 同意を求めながら、返事など期待してはいない。
 私たちはそういうものなのだと、言っているだけだ。
 代田は俯き、複雑そうな表情を浮かべている。こんな連中に任せて大丈夫なのかという不安が手に取るように分かった。
 沈黙が下りた時、店員がやってきた。
「こちら抹茶パフェになります」
 は?と代田が声と顔を上げる。
 唖然としている男の前で、螢が「ここに」とパフェを催促した。
 メニューに載っていた通り、小豆たっぷりだ。
 ぽろりと零れ落ちそうなほどの小さな山に、自然と目元まで緩んでくる。
 だが向かいの席で代田がさらに怪訝そうな顔を見せた。信じられない、と言いたげだ。
 やはり男二人でパフェはまずかったらしい。
 パフェに刺さっているスプーンを手に取ろうかどうしようか、この気まずさを解消した方がいいのか迷っていると、不動が良く通る声を響かせた。
「食えよ」
 決して声量は大きくないのに、不動の声は凛としてよく響く。
 いいのか、と不動を横目で見るが、その男が代田など気にするはずもなかった。
 場の空気を戻すことを諦めてスプーンで小豆をすくい取る。
 まろやかな甘みが口の中にふわりと広がった。
「やっぱ小豆だよなぁ」
 しみじみそう言うと、代田が「あの…」と遠慮がちにこちらを見た。
「仕事を抜けてきていますので、私はこれで」
 パフェに視線をやらないのは、見たくないからだろうか。
 見た目も可愛らしく、味も美味しいのだが。
「それでは八時にお待ちしておりますので」
 失礼します。と代田は伝票を持って立ち上がった。
 不動が伝票に手を置いて「結構です」と一言かけたのだが、代田は少し強張った笑みで首を振って伝票を離しはしなかった。
 少ししから、ドアの鐘がからんと鳴った。
「これ美味い」
 抹茶のアイスもなかなかにコクのあるアイスだ。
 小豆と一緒に食べるとさらに美味しい。
 そう言うと不動の手が伸びてきてスプーンを取った。
 抹茶アイスをごっそりえぐり、一口で中に放り込む。そんなに一気に食べたら頭が痛くなるだろうに。
「甘いな」
「バニラよりマシだろ。それにブラック飲んだ後だから余計」
 ブラックコーヒーと抹茶アイスでは、抹茶アイスの方が甘いに決まっている。
 螢は代田がいた場所にぽつりと残されているコーヒーカップを見た。ほとんど残したまま、代田は出ていった。
「崇めるのって面倒かね」
 今でも神様をあがめている家はいるだろう。
 少しの手間でも構わない。要は大切にしているという形を示すことが大切なのだ。
 祟られている、あがめれば収まる。それでも代田はその手間を惜しんで、排除することを望んだ。
 妻を殺された今は、あれだけ頑なに拒絶しているのは理解出来るが。
 殺される前も、向こうから忠告はあったはずだ。
「さあな」
 コーンフレークをかりかりと食べていると、またもスプーンは不動の手に渡った。
「抹茶アイスばっか食い過ぎ!もうなくなってるじゃないか!」
「…おまえが食うかって言ったんだろうが」



 八時過ぎにオートロックを外してもらい、代田の部屋に向かった。
 マンションの廊下に付けられている蛍光灯の電気がおぼろげに周囲を照らしている。
 人の声が所々から聞こえてきた。微笑ましい家族の会話が漏れて聞こえてきたかと思うと子どもの泣き声が盛大に響く。
 螢などは苦笑するのだが、不動は耳に入っていないかのように無反応だ。
 音だろうが物だろうが、必要のないものは無意識の内に認識するのを止めているのではないかと思わせられる。
 代田の部屋のインターホンを鳴らすと、すぐに反応がありドアが開かれた。
 その途端、部屋の中からふわりと華の香りがした。
 思わず舌なめずりをしたくなるような匂いだ。けれど今日は螢の仕事ではない。
「失礼します」
 不動が頭を下げ、中に入る。
 螢も続いて入ると、空気の密度の濃さが肌にまとわりついてくる。
 華の蜜が空気に溶けているかのようだ。
「わざわざご足労頂いて」
「仕事ですので」
 不動はそう言って部屋を見回している。
 代田は昼間と同じく顔色は良くない。そして肩や頭に乗っている物は大きくなっていた。
 これでは身体が重そうだ。
 リビングには位牌が置かれていた。遺影の女性は妻だろう。
 依頼人と変わらぬ年頃の女性が穏やかに微笑んでいる。自分がどんなものに祟られて死んだかを、彼女は理解出来ただろうか。
 妻の気配はどこにもない。
「娘を連れて来ます」
 そう言って男はリビングから出ていった。
 残された二人は周囲に気を張る。
「不動」
「問題ない」
 この家に漂っている空気を、不動も感じ取っているだろう。そして相手がどの程度の力を持っているのか、感知しているはずだ。
 名を呼ぶと、自分で処理出来るレベルの相手であることが返ってきた。
 螢の感覚からしても、この程度なら不動が苦戦するほどでもないと思えた。
「娘の早苗です」
 代田が手を繋ぎ、連れてきた娘は華の香りを纏った少女だった。
 小学校二年生。まだ小さな子どもは怯えるようにして父に後ろに隠れている。
 微笑ましい光景ではあるが、螢も不動も笑いはしなかった。
 そこにいる、からだ。
 少女が全身に何かを秘めている。それは湯気のように舞い上がっていた。けれど色は白、灰、黒へと色を変化させながら揺らいでいる。
「こんばんは」
 螢は挨拶を口にして、ようやく笑みを作った。
 すると早苗は益々奥に隠れようとする。人見知りをしているのだろう。螢はまだ本性を晒していない。
 晒せば、少女がこうして父の後ろに隠れているはずがない。一目散に逃げ惑うか、狂ったように襲いかかってくるか、どちらかだ。
 少女は螢ではなく、不動を見て泣きそうな顔をした。
 怖いのだろう。
 顔立ち自体は悪くないのだが、雰囲気といい、目つきといい、とても善良そうには見えない。
「このお兄さんたちが悪いものをやっつけてくれるんだよ」
 父はしゃがみ、怯える娘の肩をそっと掴んだ。
「怖い夢もきっと見なくなる」
 どうやら早苗の夢の中にも出てきているようだ。夢見の良いものだとは到底思えない。
「ほんと?」
 娘は泣き出しそうな顔で父に問い掛けた。
 代田も不安であるように、早苗もまた不安なのだろう。
「本当だよ」
 だから大丈夫だ。そう代田が力強く微笑むと、早苗が大きく息を吐いた。
 溜息のように。
 泣きそうな表情はみるみる内に消え失せ、ぷっくりとした小さな唇には笑みが浮かんだ。
 あどけない少女が浮かべるにはあまりにも不釣り合いな、妖艶な形の微笑に、代田が凍り付く。
 華の香りがいっそう濃厚になってくるように、少女の中から何かが現れたのだ。
 驚愕のまま動けなくなっている代田に、少女が冷ややかな眼差しを向けた。そして肩に置かれている手をぱしりと払いのける。
「無駄なことを」
 少女のか細く高い声だ。
 けれど傲慢なまでに高みから物を言っている様子は、完全に支配者のものだった。
 侮蔑を滲ませて代田を見下ろす。
 父と娘は、支配者と支配される者に変わり果てていた。
「何を連れて来ようが人間に私とおまえは切り離せぬと、そう教えただろう」
「早苗を…早苗を返せ!」
 我に返った代田は再び少女の両肩を掴んで揺さぶった。
 だが少女の口元には嘲笑が浮かぶ。
「返せ?娘はおまえのものである前に私のものだ」
「黙れ!おまえにくれてやるものなんて一つもない!」
 代田が叫ぶ。
 喉が裂けるのではないかと思うほど、悲痛な声だった。
 娘が取り憑かれた、ということは聞いているが。そのたび彼はこれだけの痛々しさで叫んだのだろうか。
「おまえは愚かだ。おまえの血筋はまず誰にものでもない。私のものだ。おまえに貰ういわれもない」
 それはおそらく代田の両親がそう約束したのだろう。
 うちの者は貴方様のものだと。
 家を栄えさせてもらおう、守ってもらおう。とするのであればそう約束するのがお決まりになっている。
 身内になったからこそ守ってもらえる、冨を運んできてもらえるのだから。
「本当に、おまえは救いようがない」
 少女は鼻で嗤った。
 激しく罵ることも、叱咤することもない分。冷静さと強固な意志が感じられた。
 どうすれば約束を守らせることが出来るのかということを淡々と考えていたのだろう。
 そして最も効果的なことを選んだ。
 妻の命をまず奪い、娘を人質にとって支配する。
 代田も、こうして霊体を始末する者に出逢えなければ根負けしてあがめる役目を負ったかも知れない。
 だが代田はここまで辿り着いた。
 相手が霊体である以上、何であっても始末してしまう者に。



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