5




 早苗は代田を軽蔑の眼差しで見下ろした後、螢と不動を見た。
 冷ややかな、人であれば凍り付いてしまうほど圧力を持った視線だ。
 けれど二人は動揺すらしない。
「どこぞの者を連れて来たのか」
 何を持って来ても変わりなどない。
 大きな瞳がぴたりと見つめても、そこにはがらんとした暗がりが広がっているだけだ。
 人としての生気が伝わってこない。
 強く少女に根付いているようだ。
 言葉で出ていくように促しても、決して応じることはないだろう。
 不動が手首にはめていた水晶のブレスレットを外す。
 自分が特異なものであるという気配を殺すためについているものだ。
 力も加減してくれるものだが、今回はそれを付けたままでは手間がかかると思ったのだろう。
 それを外すと、途端に清々しい水の匂いと、やはりほのかな華の香りが一気に溢れ出した。
 目の前にいる少女が纏っているような甘さはなく、すっきりとした香りだ。そのくせ一度鼻腔に入ってくると身体中に広がっていく。
 この少女に憑いているものより、不動が喰いたい。
 だが昨夜喰ったばかりなので、今日はきっと与えてはくれないだろう。
 欲をそそられていると、不動がブレスレットを差し出してきた。持っていろと言うことだろう。
 それは透明な石が連ねられている。だがよく見ると、五つ透明な石が続くと、一つ青みがかった水晶が間に入れられている。
 済んだ微かな青の石は全てで五つ。
 この石の連なりが不動を霊体から隠している。
「おまえ…」
 少女が顔色を失っていた。
 代田の手を払い、後ろへと下がろうとした。けれど不動が近付けば近付くほど足がもつれていく。
 不遜な態度は消え失せ、小柄な少女は青ざめて驚愕が張り付いている。
「どういうことだ…」
 少女に憑いているものは、不動が何なのか理解出来ないのだろう。
 けれど強く大きなものであることは感じ取っているらしい。
 そのため恐怖が大きいのだ。
 人が理解出来ぬもの、把握出来ないものを恐れるのと同じだ。
「何だ、おまえは」
 少女はリビングの壁にまで追い詰められた。
 それでもまだ後ろに下がりたいのか、ぺたりと肩まで壁に押しつけていた。
(何だろう)
 不動が何者なのか、それは螢にも分からない。
 芳しい香りに擦り寄りたくはなるが、何故そんな香りを持っているのか。その香りの元は何なのかどんな生き物なのか、分からない。
 けれどその「分からない」というところが、気に入っている。
 螢もまた、自身のことなど何も分からないせいだろう。
「人間ではないだろう」
 怯える少女に、代田は呆然としていた。無理もない、代田には不動がどう変化したかなど分からないからだ。
 ただの人に、その空気の変わり様は感じることなど出来ない。
「人間ですよ。ただ、特殊ではあるけどね」
 螢は口元に笑みを浮かべながらそう言った。
 人間でありながらも人間ではない。だからこんなにも面白い。
 不動は無言で少女の額に手を伸ばした。
 触れられた瞬間、少女を大きく口を開けてか細い悲鳴を上げる。
 それが苦痛の声に聞こえたのだろう、代田が腰を上げようとした。助けたいという気持ちが沸いたようだ。
 けれどここで邪魔をされると厄介であるため、螢が代田に寄っていき肩を掴んだ。
 すがるような目に首を振った。
「お嬢さんに危害を与えているわけではありません」
「でも」
「今お嬢さんの意識はありません。痛みも感じられない」
 強制的な深い眠りの中に落とされているのだ。
 大丈夫。そう言っても代田は泣くのを堪えているような不安を隠さなかった。
 不動の手は額を持ったまま、手前に引いた。
 空気を掴んでいるかのようだったが、その指は白い何かをしっかり鷲掴みにしていた。
「あれは……?」
 代田がぽかりと口を開ける。
 不動は白い靄のようなものを掴んでいた。
 灰色になり、黒くなり、それは次々と形を変えていく。
 犬になり、狐になり、猫になり、蛇になり、とりとめがない。
『おまえが人間であるはずがない!』
 その罵声は耳ではなく頭に直接響かせてくる。反響が強く、ぼわんぼわんと奇妙な音になっていた。
 女とも男とも分からない。高くもあり低くもある霊体の声。
 これが人間の死んだ霊体であるなら生前の声を使うのだが、彼らは肉体を持ったことがない。声帯を震わせたことがないのだ。
 そのため性別、年齢、高低すら決められないのだ。
『おまえは何者だ!』
 どうやら不動は霊体の首を掴んでいるらしい。
 犬のように形で大きく口を開け、不動を罵る。
(首を掴むってさすがだな)
 一番掴まれたくないところであり、それを掴まれれば身動きがとれなくなる箇所だ。
 霊体の首を掴むということは、半ば決着がついている。
「おまえには関係ない」
 それまで人を見下し、自分があがめるべき者たちだと考えていたであろう人間に、そんな言い方をされて霊体に藻掻いた。
 唸り声を上げて身をくねられている。
 代田は震えながらも、目を見開いて霊体を見上げている。
 少女もまた同じだ。
 こちらはまだ意識が戻っていないのだろう、抜け殻のようだ。
『おまえたちが呼び出したのであろう!?この仕打ちは何だ!』
 霊体は代田に向かって叫んだ。
 二つの瞳らしきものに、真っ赤な色が宿る。
 灰色の靄にある二つの赤は禍々しい。
『約束を違えたのもおまえだ!今まで冨を与えたのも忘れたか!』
 代田は怒鳴られ、震えながらも口を開いた。
 強く拳を握り、自分を奮い立たせているかのようだ。
「そんなものは知らない!」
『偽りを!おまえの親が私を呼んでどれほど家が栄えたか見ていただろうが!!』
「知らない!」
 そんなものは知るか!と代田が力の限り怒鳴った。
 これほど霊体に向かって抵抗する人も珍しいものだ。今まで溜まっていた苦しみが爆発したのかも知れない。
『恩知らずが!!』
 人間臭い台詞だと思われがちだが、霊体のほうが人間より約束ごとに関しては律儀であり公平だ。
 何故なら彼らは約束、契約の中だけで自分たちを保っている存在だからだ。
 それをおろそかにしてしまえば、自分たちの存在自体が揺らぐ。
「妻を殺すようなやつに恩も何もあるものか!」
『あがめられぬから代償を貰ったまでよ!』
 霊体と代田が罵声を浴びせ合っている。
 どちらの言い分の理解出来るので、他人は口出しをしない。
 不動も黙っていた。
 ただいつまで怒鳴り合っているのか。いつ始末すればいい。という目で螢を見てきた。
 そんなものは螢にも分からない。肩をすくめて見せる。
『痴れ者が!!』
 代田はその罵倒に顔が真っ赤にした、怒り心頭らしい。
「笹渕さん、早くそんなもの始末して下さい!」
『どこまで愚かなのかおまえは!』
 不動はようやくか、という顔で軽く息を吐いた。だが霊体は苦しみ、蛇になって身を激しく動かしながら代田を硬直させることを言った。
『私の世話が出来なくなったからと言い、己の命を捧げた親を何だと思っている!』
 見上げた心だ。
 そう螢は内心呟いた。
 霊体と約束をするということはそういうことだ。生きている限り世話をする。そしてそれが出来なくなる時は、死ぬ時だ。
 だが代田はそうは思わなかったのだろう。
「親を…うちの親父とおふくろを殺したのはおまえか!!」
 代田は殴りたいと言うように震える拳で霊体を睨み付ける。
 その言葉に、霊体は怒りはしなかった。
『そのような見方しか出来ぬか。あれは私のために己を供物にしたのよ。ほんにおまえは愚かだ』
 このような愚息ではあれが哀れでならぬ。
 憐憫の声に、代田が言葉を失った。怒りが強すぎると人は言葉も出なくなる。
 螢は代田より、不動の顔が気になった。こんな展開を眺めるために来ているのだろうか、と疑問を持っているようだ。
「言いたいことは終わったか?」
 螢が霊体へと語りかける。
『おまえたち。人でもないというのに私を消すか』
 代田に向けたような感情は一切なく、淡々としたものだった。
 祟るべきなのは螢でも不動でもないと理解しているのた。
「見た目が似てるだろ?」
 単純な理由に霊体が鼻を鳴らす。そんなくだらないことで、とも思っているのだろう。
「この世は不条理なものだ」
 不動はどうでもいいかのように告げ、霊体を掴んでいた指に力を込める。
 そして拳を握ると、霊体は吐息のような音を立ててぱらぱらに散っていった。
 一見霧散したかのように見えるが、螢の目には掌程度の大きさになって空気中に散っただけだと分かった。ふわりふわりと漂い、すぅっと姿をくらましていく。
 意識を保つには力も大きさも足りない。けれど消えてしまうほど小さくもない。
 時間が経てばまた力を得て、意識を持つだろう。
 けれどこれまでの記憶などは消えてしまっている。
 代田に実害はないだろう。
 突然見えなくなった霊体に、代田は呆然としているようだった。
 だが早苗が火がついたように泣き出し、リビングはまた騒がしくなった。
「大丈夫」
 螢は大声で泣く早苗を腕に抱き込んで、背中をぽんぽんと叩いた。
 混乱している人にまずかける声は、大丈夫、心配いらない、だ。
 そうすることで僅かでも弾け出す不安が抑えられるらしい。
「もう大丈夫。変なのが入ってきて怖かったね。でももうやってこないよ。大丈夫」
 大丈夫。と繰り返して螢は優しい声音で語りかけた。
 落ち着いて、大丈夫。そう思う心は本心で、優しさを取り繕っている時よりも声音が柔らかい。
 それを感じ取れるのか、早苗は悲鳴のような泣き声を抑えてしゃくり始めた。
「もう怖くないよ」
 頭を撫でていると、代田が呆然としながらも娘に心配そうな顔を見せる。
「一時的に彼女の中へと入り込んでいたので、意識が圧迫されていたのでしょう。それがいきなり自由になったから混乱しているようです。今まで自分に直接語りかけてきた存在がいため、それが急に消されたので少しの間は不安定になるかも知れません」
 霊体が早苗にどんなことを話していたのか。存在を潜めていたのか、教えていたのか。それすら分からない。
 だが早苗は自分の中に何かがいるということは分かっていただろう。けれどそれを誰かに訴えようとすれば止められる。
 その恐怖と抑圧がいきなり解放されたのだ。
 安堵と喪失感で、しばらくは現実感が曖昧になったり、幻聴のようなものを感じるかも知れない。
「ですがすぐに元に戻ります。もう憑いていたものはいませんので」
 いない、という言葉に代田が「本当に…?」とぼんやりとした疑問を口にした。
 解放された実感が、こちらはわかないらしい。
「形すら持っていません。近付くことはおろか、貴方たちを認識することすら出来ませんよ」
 大丈夫です。そう早苗だけでなく代田に向けた。
 すると代田は深く息を吐いて、早苗に手を伸ばした。
 螢は早苗を放し、父へと渡す。
「早苗、早苗…」
 父はたった一人の娘を抱き締めて、ようやく涙を見せた。



 夜の街を歩く。
 八時半。仕事は早く終わった。そのまま車に乗って帰ろうかと思ったのだが、帰って晩ご飯を作るのが面倒だった。
 不動も同意見のようで、外食に切り替わったのだ。
 人通りの多い道、様々な店がずらりと並んでいるが二人の気を引く店はまだ見えてこない。
 対面から歩いてきた女性の肩が触れて、その人が良くないを背負っているのが感じられた。けれど振り返りもしない。関係のない人に忠告しても変人扱いされて終わりだ。
 それに見ず知らずの人に関わるほど今は暇でもない。
「細かく散ったなぁ」
 早苗に憑いていたものについて呟くと、不動は「あれでいい」と言った。
「まあそうだろうなぁ。あれも元々は神様みたいにあがめられてたものだし。悪意そのものじゃないんだし」
 代田に関しては意見の相違。という点だけだ。相手を陥れたい、なんて気持ちすらなかった。
「哀れか」
 散っていった霊体に対して、螢が同情しているとでも思ったらしい。
 不動が淡々とした声で聞いてくる。
「時代の変化だろう。神様をあがめるよりも、恐れになるなら消してしまえっていう」
 昔ならそんなことを考えている者は多くなった。いたとしてもそれを口に出せば周囲の人間たちから責められた。
 神様をそんな風に考えるなどとんでもない、と。
 けれど今はそんな考えも静かに風化していく。
「こうして尊敬や恐怖を持つことを止めていくんだろう」
 夜が暗闇でなくなり、様々なことが明るみになったように。
 尊敬も恐怖も解体され、晒されていく。
「だが人は目に見えぬ者を焦がれることを止めない。特に神を欲しがることを、諦めない」
 不動は静かにそう言った。
 感情なんて籠もっていないように聞こえるのに、妙に優しげに思えるのは螢の錯覚だろう。
「すがりたいんだろ」
 人は神にばかりすがる。
 自分ではどうしようもないことに対して、救いを求める。絶望に食われることが最も恐ろしいのだ。
「おまえのように」
 その一言に、螢は苦笑する。
「生き物はみんな同じだ」
 どこかで神様を信じたい。
 救いがあるのだと、思いたい。
 それは愛されたいという気持ちとよく似ている。
「俺は神より飯が欲しい」
 より生き物らしい発言を、不動は無表情で言う。
 繊細なことを言わない男に、螢は小さく笑う。
 即物的で、いい。
「中華が食べたい」
 この先に見える中華という看板を見て螢が言う。そろそろ店を探すのも面倒になってきた。
「ゴマ団子か」
「俺はあんこで出来てんのか?」







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