望まれぬ者   1




 自殺だなんて。
 そんなことしそうに見えなかったのに。
 人々の声がちらほら聞こえてくる。
 白と黒ばかりの空間は静かで、余計その声が大きく思えるのだろう。
(一番驚いてるのは俺だ)
 妻がこんな形で亡くなってしまうなんて。
 よぼよぼになるまで一緒に。と言ったのはそう昔のことではない。
 それなのに彼女は自宅で首を吊っていた。
 長い髪がだらりと流れているように、身体がぶら下がっていた。
 その姿と共に蘇ってくるのは、生前彼女が狂ったかのように訴えてきたことだ。
『祭壇の作って!崇めてちょうだい!』
 涙を浮かべ、彼女はすがりついてきた。
 一体何のことかと、動揺しながらも彼女を引き剥がすと信じられないことを口にした。
『あれが来る!貴方が崇めなきゃあれが来て私を殺すって!お願いよ、あの御方の祭壇を作って!』
 あの御方。
 それは両親がよく言っていた言葉だ。
 目に見えることも、耳にすることも出来ない。この世には存在していないはずのものを呼ぶ際に、両親は「あの御方」と言った。
 それを彼女に言ったことはない。この口から誰かにあのことを言った覚えなど一度もないのだ。
 それなのに、何故知っているのか。
『貴方が次にあの御方を崇め、お世話をする役目なんでしょう!?』
 何故それを言う。
 まるで両親のように。
 次はおまえがあの御方のお世話をしなさい。そうすれば幸いを運んできて下さる。
 そう両親は真剣な眼差しで言っていた。
 けれど信じてなどいない。そんな見ることも触れることも出来ないものを信仰するなんて。
 頼るなんて。
 だがそれを振り切ってすぐ、妻は死んだ。
 遺影を見つめても声はない。
 何に絶望して死んでいたのか。
 小学生になる娘が、隣にちょこんと座った。
 片付けも滞りなく進み、じき人がいなくなる家の中でたった一人、寄り添ってくれる存在だ。
 大切な家族。
 母を失ったこの子は、これから寂しさを抱えて生きていくのだろう。片親だけでどこまでこの子を可愛がって、何不自由なく生活させてやることが出来るだろう。
 そっと頭を引き寄せ、小さな身体を抱き締めた。
 あまりに、不憫だった。
「パパ」
 高く拙い声が胸に響く。
「どうした?」
 頭を撫でながら娘を見る。すると大きな瞳できょとんと見上げてきていた。
 この子には未だ母親を失ったということが理解出来ていないのかも知れない。
 母が亡くなった時は部屋で眠っていたらしく、首を吊った姿は見ていないらしいのだが。それでも母の死体と別れる際も涙一つ見せなかった。
 まだ小さいので理解していないのだろうと、周囲と父の憐憫を誘った。
「祭壇は?」
 さいだん。などという言葉をどこで覚えたのだろう。
 テレビか何かだろうか。
 きっと仏壇と間違っているのだ。
「ママならここにいるよ」
 遺影を指してやると、娘の瞳から感情が消えた。
「その女じゃない」
 がらりと口調が変わった。それまでどこか拙かった声も、喋り方も、理性的な大人のものになっている。
 そして何より、氷のような冷たい響きだ。
 娘が自分の母親に向かって言った台詞だとは、到底思えない。
「御方の祭壇はいつ作るつもりだ」
 オンカタノサイダン。
 何故知っている。
 妻といい、娘といい。何故あのことを知っているのだ。
 教えてなどいない。
 両親も妻とは言え、他人になど教えるはずがない。
「どうして…」
 娘は父の驚愕に、冷ややかな目を向けた。
 ちらりと滲む侮蔑に、背筋が凍り付いた。
「次は娘か」
「何を…」
「お前一人、この世に残ることになるぞ。それでも良いのか」
 妻のように娘も首を吊るやもな。
 そう、愛らしい小さな唇が語った。
 声も出ない。
 まさか、娘の何かにいるとでもいうのか。
 今まで一度も直接働きかけたことなどかったというのに。
 いるかどうかも疑っていた、そんなものが、娘に取り憑いたとでも!
「…何故…今…」
 娘は目を閉じ、かくりと力を抜いた。
 慌ててそれを支えると、ぱちぱち瞬きをしては再び、パパ?と父を呼ぶ。
 けれどそこには冷たさも、大人のような口調もない。
 いつもと変わらぬ様子に戻っている。
 だが娘の中にあれがいるかと思うと、指先が震えた。
 恐ろしいことになっている。
 頭の奥を激しく叩きつけられたような衝撃に、男は目の前が真っ暗になるのを感じた。



 目覚めると一人だった。
 二人で眠ると狭いベッドだが、一人でいると広く感じる。
 不動の体格が大きいだけに、強くそう感じるのだろう。
 カーテン越しに入ってくる光の中で、螢はそっと息を吐いた。
 満たされた感覚がしっかり残っている。
 昨夜は深夜まで不動と抱き合っていた。螢は空腹を、不動は欲情を満たしていた。
 お互いの利益がしっかりと噛み合っている。
 我慢する必要がない。それが何より有り難かった。
 ベッドから起き上がり、近くの目覚ましを見ると十時半を指している。不動などこの四時間近く前に起きていることだろう。
 眠りに落ちる時間が遅くとも、不動は大抵朝が早い。
 パジャマのままリビングに向かうと、L字型に置かれているソファで一人の男がくつろいでいた。
 まるで住人のような態度だ。
 脱色してオレンジに近い髪はワックスで遊ばせている。指には髑髏のリングがはまっていた。顔立ちはどこか子どもっぽさを持っているが、彼が既に三十に近いことは知っていた。
 一人用のソファで足を組み、螢を見つけると手を挙げてくる。
「おはよ、螢ちゃん」
「充…」
 不動は朝の挨拶をしない。目を合わせるくらいだ。
 なので寝起きに満面の笑みで挨拶されると、少し調子が狂う。
 だが充はそんな螢にもお構いなしだった。
「元気?」
 睡魔が完全に払拭出来ておらずぼーっしている状態で聞かれても、何とも答えず辛い。
「まあね。顔洗ってくる」
 リビングから風呂場へ向かおうとすると、不動がキッチンでお湯を沸かしていた。
 こちらはやはり無言だ。
 鋭さのある目と視線が合う。螢もまた何も言わない。
 ただ少しばかり身体に残っている情事の感覚がじくりと疼いた。けれどそれは一瞬で、すぐに消えていく。
 洗面台で顔と歯を磨いてリビングに戻ると、不動もソファに座っていた。
 二人がけのソファの方に座り、充に近い側の場所を空けている。そこに座れということだろう。
 パジャマという格好を着替えようかとも思ったのだが、ソファの真ん前に置かれているテーブルを見て、そのまま直行した。
 マグカップから漂うコーヒーの匂いと、その傍らにある四つ一パックのあんパンが螢を誘ったのだ。
 不動は無愛想で無口だが、なかなかに気の利く男だ。
「螢ちゃんあんパン好きなんだって?」
 不動の横にすっぽりと座り、さっそくあんパンに手を伸ばす。すると充が興味津々という顔で見てきた。
「あんこが好き」
 あんパンを初めて食べた時は、なんて画期的な食べ物かと思った。
 ふっくらとしたパンの中にしっとりした餡がみっちり入っているなんて、素晴らしい。そう感動した。
「不動はあんパン好きじゃないのに、こんなのあるからどーしたのかと思ったんだよねぇ」
 菓子パンの類を、不動は食べない。
 そもそもパン自体があまり好きではないらしい。そのため朝も大抵ご飯だ。
「日本はあんこだ。日本人はクリームよりあんこをもっと広めるべきだ」
「広めるべきって」
 クリームよりあんこが好きなので、螢は個人的にそんなことを口にする。
 充はあんパンを見下ろしながら苦笑していた。
「向こうで食ってなかった反動じゃない?」
「…かもね」
 日本に戻ってくる前のことを、充とさらりと言う。
 あの国にはあんこなんてなかった。
 けれど食べたいなんて思ったことはなかった。
 日本を出てから、日本食を恋しがった覚えもない。舌で感じる味覚にさほど魅力を感じていなかったという理由もあるだろう。
 食事は何日取らなくても平気だった。
 別のもので満たされていれば。
「ところでさ、朝からヘヴィな話していい?」
 充はどうやら遊びに来たわけではないらしい。
 仕事を持ってきたのだろう。
「寝起きで聞きたいような話じゃないだろーけど」
 一言置いて、充と螢を窺ってくる。寝起きだろうが寝る前だろうが、いつ話してもらっても螢は気にしない。
「いつでもいいよ」
 コーヒーの苦みを味わいながらそう答える。
 あんことコーヒーの組み合わせはなかなかに悪くない。一番好きなのは緑茶だが。
「螢ちゃんはこういうの関係ないもんな…」
 人間から離れている螢を見て、充が羨ましそうな顔をした。
 こういうの、というのは霊の話をしていると寄ってくる、という古典から話されている現象についてのことだ。
 充と霊体専門として仕事を受けてはいるものの、私生活にまで霊体と関わり合いたくはないらしく、こういう話題をするのを好まない。
 けれど二人に仕事を渡すには、否応なくその手の話にしなければいけないのだ。
 そのため寄ってくることを覚悟で、説明を始める。
 螢にしてみれば寄ってきたところで影響は受けない、意識から外せば感知することもない。それでも気になるようならば、自分がどんなものか示せば良いのだ。
 捕食者の口に自ら飛び込んでくる獲物はいない。
「充はまだ時々迷惑くらってんの?」
 霊体を始末出来るとはいえ、精神力を使うものらしい。そのため霊体に寄って来られると酷く疲弊するそうだ。
「くらうよ」
 不満そうに充がぼそっと零した。
「睡眠の邪魔だね」
 寝ている間が無防備になるのは、霊体に対しても同じだ。
 夜中に目が覚めると何かが自分を見ていた、というありふれたものに何度か遭遇して充は嫌気が差しているらしい。
「契約すれば楽になるのに」
 充がこの仕事をしている裏には、人間ではない存在がちらついていた。
 まだ会ったことはないが、螢はなんとなく勘付いていた。
 それは人と結びつくことの出来る者であり、人間と同化することによって安定する者だと。
 同化すれば人を守る側に回る。なので人にとってはいいものであるかのように思われるが。
 それと結びつけば真っ当な人間からは離れてしまう。充は以前からそれを渋っていた。
「腹が決まりません」
 今も難しい顔でそう言った。
 軽いノリの格好をしているだけに、真剣な様子が強調される。
「小心者」
 それまでずっと黙っていた不動が一言、ぽつりと零した。
「俺は人間様ですから」
 口元を歪めて、充と一字一句強く発音した。
 アンタらと違って。と言いたいようだが、今更充に言われるまでもなく二人とも自覚している。
 そのため「そーだな」と螢から淡々とした反応をされ、充はさらに肩を落とした。



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