偶像の鎖   8




 充が帰ると部屋の中が静まり返った。
 訪れる前の状態に戻っただけなのだが、充がよく喋っていたので静寂が新鮮に感じられた。
 不動は充が残していった、本のようなものをぱらぱらとめくっていた。
 何を考えているのか、表情が読めないため分からない。
「どうして」
 螢は沈黙が漂う空間の中に、一つの疑問を落とした。
 ベッドに座ったまま、目の前で椅子に座っている不動を見上げるけれど、何の反応もなかった。
「何故連れて帰ってくれる」
 ここに置いてくれることも謎だった。
 けれど日本まで連れて帰ってくれることはもっと謎だ。
 そんなことをして不動に何の利益があるというのか。仕事で利害関係を結ぶとしても、もっと安全な相手がいるだろうに。
 自分の生気を喰うような、厄介な生き物ではなく。
「帰りたいと望んでいるようだったから」
 不動は書物から顔を上げることなくそう言った。
 さも大したことではないかのように告げられ、螢は釈然としないものを感じる。
「それだけ?」
 たったそれだけのことで、得体の知れない者のために動くのだろうか。
 怪訝な螢の声に気が付いたのか、不動はようやくこちらを見た。しかし感情はそこから見えてこない。
「日本で仕事をする気は?おそらくここでやっていたことと差はない」
 螢が出来る仕事などそれくらいしかない。
 それに充も優秀そうだと言っていたから、仕事を斡旋する気でいるのだろうとは分かっていた。
「……出来れば」
 自分に出来ることなんてそれしかないのだと悲しいまでに知っている。
 真っ当なことなど出来はしない。
 老いを知らない螢は常人の元で長くは暮らせないのだから。
「出来る。充が仕事を回すだろう」
 不動は書物をぱたんと閉じる。螢とちゃんと話をする気になったようだ。
「日本に住める場所は?」
「…ない」
 かつて世話になっていた家系など、とうに螢のことを忘れているだろう。
 覚えていたとしても、何十年も経って戻ってこられてもきっと困るはずだ。
 それに螢は日本にいた時のことを鮮明には覚えていない。
 どんな家柄でどこに住んでいたのか曖昧になっているのだ。
 探し出すのは困難だろう。
「頼れる者は?」
「いない……」
「なら一緒に来て、一緒に暮らせばいい」
 あっさりと口にされ、螢はまじまじと良いとは言えない目つきをした双眸を見つめ返す。
「不動と?」
「そうだ」
 なんて酔狂なんだろう。
 どういうつもりなのかという疑問がより一層膨らんだ。
「怖くはないのか」
 螢は人間を喰えるのだ。それは不動にも告白したはずだ。
 現に今不動の生気を喰っているではないか。それを一時だけでなくずっと傍らに置くとはどういう考えか。
「何が」
「私は人じゃない。人を喰う側なのに」
「おまえは俺を殺すのか」
「殺さないっ」
 好きで人を殺すことなんてない。
 苦痛を与えることもなく殺すはことは出来るだろう。容易だ。けれど殺したいと願うことなんて一度だってなかった。
「なら構わない」
「普通は……構うだろう」
 螢がいくら人は殺さないと言ったところで、人間にしてみれば常に鋭利な刃物を持っているようなものだ。
 機嫌が悪ければ、喧嘩をしてしまえば、魔が差して殺すかも知れない。何が起こるか分からない。
 不動はそうやって他者を恐れることはないのだろうか。
 困惑している螢に、不動は一つ溜息をついた。
「…俺の半分の血は人間じゃない。とても寿命の長い者の血だ」
 不動は己の血について話し始める。
 ただの人間ではない、おそらく半分は異質の血が入っているだろうとは察していた。それがどんな類かまでははっきりしなかったけれど。
「おかげで俺の寿命もとても長いと言われた。酷く、長いと」
 酷く、そう告げた時に不動の瞳から僅かな悲哀が感じられた。
「おまえもそうなのだろう?」
 螢の生もまた酷く長い。そう。酷く、だ。
 残酷なまでに長い時間を過ごしてきた感覚がある。覚えてなくとも、痕跡がなくとも、この心は孤独に打ち震えて泣き叫んだことを記憶している。刻まれている。
「だから気になった。独りで、生きていくのかと」
 同情かと思った。
 哀れみなのだと。
 自分がこれから行くであろう道を思い、すでに歩き続けていた螢に対して情けが生まれたのだろう。
 人によってはそれをとても嫌がるらしい。
 哀れみは見下されているように感じると。自分は可哀想な人ではないのだと憤る者がいるようだった。
 けれど螢は不動の言葉に泣きたくなった。
 この気持ちに共感なんてしてもらえない。
 人間はどうあがいても螢のように長くは生きられないから。
 姿も変えず、人には混じれず、たった独りで置いて逝かれる苦痛を味わうことは出来ないから。
 彼らは終わりに怯えることはあっても、終わりのない道に恐怖することはない。
 果てのない生き方に這い蹲ることはない。
 だから螢はいつだって独りだった。
 気持ちをうち明けることも出来ず、分け合うことも出来ず、訴えられもせず。ただ独りで耐えていた。
 耐えることしか出来なかった。
 それを、不動はすくい上げてくれるというのか。
「…生きてきた…」
 声は震えるかと思った。
 独りだった。
 死にたくとも死ねず、独りきりで立っていた。
「それは孤独だろう。人では味わえないほど」
 この男はもう知っているのかも知れない。
 悲しいばかり、寂しいばかりの生き方を。
 味わう前から空しいと感じているのかも知れない。だからそうして静かで、淡々とした瞳をしているのだろう。
「ああ……」
「この世でその思いをしている者がいるなら、少しは苦しまないようにしてやりたい」
 不動は悲哀を帯びたまま、静寂が消えない部屋の中で螢に心の中をさらけ出す。
「いずれ、同じ道を歩む」
 どうして、そう問いかける螢に対するこれが答えだ。
 悲しい。
 あまりにも悲しい、同情だ。
 優越などどこにもない。
 そして優しさだけでもない。
 ただ悲しいばかりの、切ない思いだった。
 長すぎる命は辛い。辛いばかりの生き物だ。
 心があれば傷付く、身体があれば疲弊する。
 短い命であるのならば、精神がすり切れてしまう前に終わるだろうに。長すぎる時間は、すり切れても、ぼろぼろになっても、まだ傷付かなければならない。
 いつか狂うのだろう。そうぼんやりと思うほどに、心は冷たく磨り減ってしまっている。
 不動も同じことを思い、感じ、こんな風に痛みばかり重ねていくのだろうか。
 苦しいことを苦しいと伝える相手もおらず、いたとしてもその人と共感出来れば出来るほどけ置いて逝かれた悲痛さに涙を流すことも出来ず。
 身体の奥から込み上げる切なさに心臓が潰れれば良いと願うのだろうか。
「……抱き締めてもいいか?」
 螢はベッドから腰を上げると、不動にそう尋ねた。
 無性に目の前ににいる者が愛おしくなった。
 悲しい、辛い、痛いばかり道を歩んでいく人。
 励ますことは出来ない。螢は到底そんなことが出来る生き方をしていない。後ろめたいことばかりで、人のために出来ることなんて何もない。
 ただ、切なかった。
 この人がとても切なかった。
 自分の気持ちを共感して欲しい。分かって欲しい。そう切実に願うけれど、それでも。
 同じ道を誰かに進んで欲しいとは思わない。
 それなのに、この人は否応なくその道しかないのだ。
「ああ」
 抱き締めてもいいかと問われ、不動は平然と許した。
 その身に纏っている陰を感じて、螢は自分より体格の良い人を両腕に包んだ。
 鼓動が、吐息が感じられる。
「寂しい生き方だ」
 とても、切ない生き方だ。
 螢は元から人間ではない分、諦められる部分がある。
 けれど不動は、半分は人間だ。それだけにやるせないものがあるだろう。
「おまえも寂しいか」
 寂しい。
 世界は広く。自分と同じ外見をしている人間は溢れるほどいるのだ。
 寄り添って生きて、支え合って生きて、独りで生きることを拒んでいる。
 螢も拒みたい。支え合いたい。独りは嫌だ。
 けれど、それは許されなかった。
「孤独だ。どこまでいっても」
 独りで立ちつくすことしか出来ない。
 どこにいても、何をしていても。螢は独りだ。
「いつまでも……」
 人間以外の生き物も知っている。
 日本には鬼と言われる者もいた。
 だが彼らと共には生きられない。
 彼らは人を喰う。螢のような魂だけを喰うというわけではない。文字通り肉体を喰らい摂取するのだ。
 その残酷さは受け入れられなかった。
 いくら寿命が長いとしても、相互理解は到底望めなかった。
 他の生き物も似ている。
 理解し合うことは出来なかった。
 彼らには同族がいるのだ。
 螢のようにたった独りしかいない種なんて、お目にかかったことがない。
「ならずっと一緒にいればいい」
 不動は抱き締められるまま、螢に抱かれていた。
 心なしか声が柔らかくなったような気がする。
「少なくとも人間よりずっと一生が長い。喰い物にも困らないだろう」
 不動は自らを喰い物だと称した。
 そんなつもりで接したくないのだが、言ったところでまだ認められないかも知れない。
 今の螢はまさに不動を食料扱いしている。
「……貴方はそれでいいのか」
 これからずっと、そう不動は言うけれど人間より長い時間を持つ螢にとって「ずっと」なんて表現は不動が想像出来る長さではない。
 人間が頭で理解するレベルを超えてしまっているはずだ。
 何もこれは契約ではない。
 やっぱり無理だと言って、明日離れても仕方のないことなのだが。
 今はこの言葉にすがりたいと願ってしまうのだ。
 まして不動は、この痛みをいつか理解してくれる気がするのだ。
 本当の孤独が何なのか、いつか分かってくれる気がする。
 その時螢は少しだけ救われるだろう。
 ほんの少しだけ。
「おまえの話を初めて聞いた時から決めていた」
 意外な言葉と共に不動は螢の腰に腕を回した。
 初めて聞いたというのは、出会った時のことだろうか。
 あの時すでに決めていたなんて。
 道理で螢を手元に置いては共に日本に帰る用意をしていたのか。
 手際が良いのではないかと思ってはいたのだ。
 抱き返され、一層抱き返し。
 あったかさに涙が滲んだ。
 不動はこれからもこうして抱き締めてくれるだろうか。何十年後もこうして、螢と一緒にいてくれるだろうか。
 時間を得ない螢を異常だと恐れることもなく、いてくれるだろうか。
 そう願って目を閉じた。



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