偶像の鎖   7




 静かで単調な日々が幾つか流れた。
 外に出れば螢を見たことのある人間がいるかも知れない。きっとあの子は螢を探している。
 見付かるわけにはいかない。
 だからずっと不動の部屋にいた。
 出て行けと言われることに怯えていたけれど、不動はいつまで経ってもそんなことは言わなかった。
 螢が甘言を囁き、部屋の鍵を奪ったあの人はきっとあの子の怒りをかったことだろう。
 酷い仕打ちを受けてはいないだろうか。
 それが不安で、脱走することを前日はとても悩んだ。
 あの子は螢が絡むと冷酷になることが出来る子だ。
 螢が失踪したことで残された者がどうなるか分からない。だがそれを知りながらもあそこから逃げた。
 限界を超えてしまったと思ったからだ。
 留まっても、狂ってしまうだけだとあまりにも簡単に想像が出来た。
 沈みゆく螢の意識を、とある音が引き寄せた。
 誰かがドアをノックしているのだ。
 不動と暮らし始めてそろそろ一週間が過ぎたのだが、訪問者は初めてだった。
 ゆったりと不動は腰を上げ、ドアへと向かっていった。そして足音が増える。訪問者は部屋に入ってきたらしい。
 しかも聞こえてくるのが日本語だ。
 とても砕けた言葉遣いをして、よく喋っている。
 不動があまり喋らない人間なので、流れてくる日本語の多さに螢は顔を上げて入ってくる男を見た。
 オレンジの髪に原色の服。見た目はとても派手だった。
 日本人だと思っていたからオレンジの髪に一瞬驚いた。色を入れているのだろう。簡単に分かりそうなものだが、螢の中で日本人は何十年も前で止まっている感がある。
「言っていた人?」
 男は螢を見ると不動にそう尋ねた。
 螢の話をこの人にはしていたようだ。一体どこまで教えたのかは分からないけれど。
 何かされるのだろうか。人間ではないことで何かしらの対策をとられるのかも知れない。
 どこかに連行されるのかも。
 だが不動がそんな行動をとったとしても、螢は不動を恨めない。勝手に部屋に転がり込み、数日だけでも寝床をもらったのだ。感謝したとしても裏切られたなんて思うのは間違っている。
 だが辛く扱われることは、やはり苦しい。
 頑なに心を閉ざしながら身構える。
「薄幸そうな人だな」
 やってきた人は螢を見てそう言った。
 自分の顔がどう見られるのか、螢はよく分からない。
 穏やかそうだとここ数年は言われたが、それより前は何を考えているのか分からないと言われたり、気弱そうだと言われたこともあった。
 強面ではないということは確からしい。
「探してたのってこの人なんだろ?」
「ああ」
 男に不動が頷く。どうやら本当に螢を探しにこの国に来ていたようだ。随分遠いところからわざわざ来たものだ。
「で、拾ったの?」
「拾った」
 まるで捨て猫か何かのようだ。
 捨て猫の方がずっと世話するのは楽だろう。見た目も愛らしい。
 図体は大きく、生活能力のない同性など拾っても役には立たないだろうに。
「連れて帰るんだろ?」
「え…」
 男の台詞に、螢が思わず声を上げた。
 連れて帰るというのは、螢のことだろう。
 そして不動が帰る場所というのはきっと日本だ。
「帰りたくないか」
「か、帰りたい」
 静かな視線を不動から向けられ、螢は即座に返事をした。帰りたい。もうここではなく日本に戻って、あの子から逃れたい。
「今パスポート作ってるから」
 男はあっさりと言った。
 パスポートを作るなんて、螢はこの男に会ったこともなければ話したのも今が初めてだ。それなのにどうしてパスポートが作れるのか。
「作ってるって……」
 どうやってそんなもの作るのか。
 螢には自分の身を証明出来る物は何もない。戸籍なんて持っているはずもない。
 人とは過ごす時間の流れが異なりすぎているのだ。そんなものを持っていても無駄だ。
「色々適当に決めるけどいい?」
 問われても螢に答えられるはずがない。
 戸惑うばかりで何が何やら理解出来なかった。
 数日前、日本が恋しいと不動には零した。帰りたいとも願っていた。
 けれど連れて帰ってくれるなんて思っていなかったのだ。まさかパスポートの偽造までしてくれるとも。
「とりあえず不動の親戚ってことにしてるから。全然似てないけど」
 男はにかっと笑った。
 不動と螢では顔つきが全く違う。正反対の雰囲気を持っていた。
 それでも親戚だとパスポートにあれば、疑われることはないだろう。
 所詮顔の造形など文字の確かさに比べれば重要ではない。
「写真撮らせて。パスポートにくっつけないといけないから」
 男は肩からかけていた鞄の中からカメラを取り出した。インスタントではなく、ずっしりとした見た目の物だ。
「あの……」
「はい。正面向いて。緊張しないで普通の顔してくれればいいから」
 男の螢の前に立つとカメラを構えた。
 きっと顔は困惑を色濃く出しているだろう。そんな顔をパスポートに貼られるのも気が引けて、螢はカメラのレンズを見ては表情を正す。
 フラッシュがたかれ、写真を数枚撮られる。
 男は無言で、無口に不動も口を開かない。
 急な展開に戸惑っているのは螢だけのようだ。
「あの……」
 カメラのフラッシュが終わり螢が一体何者なのかと男に問いかけようとした。
 すると男はそれを先読みしたらしい。
「ああ俺充ね」
「みつる」
 それは日本人の名前だ。
 不動とも日本語で喋っていたので、そうだろうとは思ったけれど。
「日本では幽霊扱ってたり、同業者に仕事回したりしてる」
 仕事を斡旋する人間のようだ。
 ここでもそういう人間はいる。
 だが螢はいつしかそういう人間からあまり仕事を貰わなくなった。螢の情報だけが一人歩きして、嫌でも向こうから仕事が訪れるのだ。
 その大半が悪魔や霊体とは関わりのない、人間の精神面の問題ではあるが。たまには本物も混じっていた。
「不動との付き合いは結構長いかな」
 充はカメラを鞄に納めた。
 それにしても螢のパスポートを作るなんて本気だろうか。どうしてそんなことまでしてくれるのだろう。わざわざパスポートを偽造するなんて、手間だろうに。
「そんな顔しなくても、どっかに付き出したりしないよ」
 充は不安を露わにしている螢に笑った。
 そんな心配はいらないのだと言いたいのだろう。けれど信じていいのか分からない。
 螢はどこに突き出されてもおかしくない状況なのだ。
 きっと外では螢のことを探している。あの子は血眼になっていることだろう。そしてどんな噂を流していることか。
 それを聞いて不動、もしくは充が螢のことを警戒して遠ざけようとしてもおかしなくい。
「逃げ出したいのだろう」
 信じたい。けれど信じられない。
 頼りたい、だが頼れば突き落とされるかも知れない。
 その揺らぎの中にいる螢を、不動は感じ取ったのだろう。近付いてきては相変わらずの淡々とした口調で告げた。
 泰然としている人は、見ているだけで安定感を与えてくれる。
「……にげたい」
 幼子のように、螢は呟いた。
 今の自分はあまりにも無力で、誰かの助けがなければ無事に逃げ出すことも出来ないのだ。
 そのことを痛感している。
「なら一緒に来ればいい」
 人間じゃない。
 悪魔なんて怪しげなものを糧にしている、不気味な存在。まして不動に手を出している。
 そんな者を持って帰りたいという、不動の神経が分からない。
 自分も多少変わっている人間だから。不可解な螢をさして大事だと思わないのだろうか。もしそうだとすれば、不動はあまりにも肝が据わっている。
「噂では優秀だって話だし。いい仕事しそうだ」
 充は斡旋を主にしているのかも知れない。
 だから螢には優秀であるかどうかをまず気にしたのだろう。
 言われるように、螢は悪魔に関しては神の僕、神の術を持つ者とまで言われていたほどだ。
 螢自身も、自分以上に悪魔を始末出来る人間がいるとは思っていない。なぜなら人間にとって悪魔は消すか、祓うかしかないけれど、螢にとって悪魔は喰い物だ。食物と同じ、目の前に出されれば噛みつけばいい。抵抗など微かなものだ。
 目にすれば、喰いたいと思えば悪魔は喰える。
 絶対的に螢が優位だった。
 現に今まで喰えなかった悪魔はない。
「パスポートはもうちょっとかかるかな。まー、今月中には終わると思うけど」
 今月中と言われて、螢は首を傾げた。
 今は何月何日なのだろう。
 この部屋にはカレンダがない。
 新聞もない。
 テレビはあるけれど、螢はそれを見なかった。この世の情報を遮断したかった。
 この世の中で生きており、自分もまたその一つの要素なのだと思うとじっとしていられなかった。今すぐどこかに逃げ出さなければ、消え去らなければあの子が追い掛けてくるような気がした。
 強迫観念だ。
 追いつめられている精神が螢を急き立てているだけだ。それは理解しているのに、心は不安で押し潰されそうだった。
 だからテレビの電源は付けなかった。
 不動はまれに付けているがあまり興味がないらしく、すぐに消す。
「今、何日?」
「三日だよ」
 充はすぐに答えてくれる。
 だが三日と言われても、螢の疑問は解けなかった。
「何月の?」
 尋ねると充が眉を寄せた。
「この部屋、季節感ないけどさ。貴方はどれくらいの期間、世間から隔離されてたの」
 その言葉に、きっと充は螢がここに来るまでの間にどんな扱いを受けていたのか知っているのだと分かった。
 世界から切り離された檻に入っていたことをきっと不動から聞いたのだろう。
 あまり人に知られて気分の良いものではない。自分が不快になるというより、どれだけ特赦な生き方をして、人を惑わせてきたのかという事実を、人の反応から突き付けられる。
 季節を失うほど、檻に入れられていた自分の愚かさを見せられる。
「……正確なところは分からない」
 何ヶ月間だったのか。それはどれくらい人の心の中を流れていったのか。
 螢には何一つ分からなかった。
 あの時の自分にあったのは、あの子と広がっていく溝の深さと絶望だけだった。
「早く帰ろう。そしたらちょっとは幸せそうな顔が出来るんじゃない?」
 充はそれ以上螢に言葉を求めても無理だと思ったのか、からりと話題を変えた。
 重かった雰囲気を軽くしたいのか、笑みまで浮かべて不動を振り返っている。
 二人が別の話題を始めたのを聞いて、螢は目を伏せた。
 幸せ。
 それが何なのか、どんなものだったのかもう分からなかった。



next 



TOP