偶像の鎖   5




 そこから見える景色は全て灰色で。
 私は毎日外を眺めては己の罪を思っていた。
 あの子を拾ったことが過ちだったのか。あの子に優しさだけを見せていたのが過ちだったのか。
 彼と出会ったのが過ちだったのか。
 付き合ってくれと言われ、一時だけでも幸せのようなものを求めたのが過ちだったのか。
 そもそも、神などというものを求めて異国を彷徨ったのが過ちだったのか。
 そしていつも私は一つの結論に思い至るのだ。
 私が存在していること自体が罪なのだと。
「その部屋には鎖が置いてあった。私はそれが何のための物なのか分からず、手に取っていた。それに気を取れられている間、あの子はその鎖の先端にある輪を私の足首にはめた。かちりという音を聞いた時には、遅かった」
 馬鹿みたいな話だ。
 だが私は分からなかったのだ。
 この部屋の意味が。
 だからあの子の行動など気にしていなかった。
「鎖は長く、部屋の中を歩き回れるくらいあった。その長さを見た時に全てを理解した。あの子の意図も」
 そして目の前に微笑んでいるあの子が心底恐ろしくなった。
 狂気が、見えたのだ。
 誰かを部屋に閉じ込めて鎖を付けるなんて許されることではない。他人の自由を奪う権利は誰にもないのだから。けれどあの子はそんな当たり前のことを無視するほど、いや、もはや頭にないほど、私に対する信仰を深めていた。
 壊れるほどに。
「部屋の扉は外側から鍵をかけられ、窓も格子がはめられていた。内装がどれほど綺麗であっても、そこは牢獄以外の何物でもなかった」
 何より、鎖で繋がれるのは罪人と決まっている。
「あの子は呆然とする私の手を取って、こう言った。あんな男が他にもいないとは言い切れない。いやきっと次々に出てくる。貴方には惑わされて欲しくないのです。汚されて欲しくない」
 懇願していた。
 すがるような瞳だった。
 分かってくれるでしょう?貴方ならきっとこの思いをすくい上げてくれるはずです。
 そう、あの子は無言で訴えていた。
「唯一の神なのです。そう……あの子は言った…」
 ひざをついて、私の手の甲を指で包んだ。
 崇めるように。祈るように。
 なんて恭しい態度。
 なんて恐ろしい言葉。
「目の前が真っ暗になった。何もかも壊れていく音がした」
 積み重ねてきたあの子との時間が、私に突き付けた現実だった。
「あの部屋は以前から私に信仰めいたものを見せていた人の一人が作った。あの子ともよく交流があって…私がいなくともあの子を支えてくれる人の一人だろうと思った」
 あんな形で信頼を見せるなんて思わなかった。
「私は今身体の中に悪魔を引き入れ、それと戦っている。必ず悪魔を打ち倒すだろう。けれど戦いはどうやら長引くようだ。身体の中にいるため、時折暴れるかも知れない。だから部屋に籠もる。悪魔が私の口から妄言を吐くかも知れないから言葉に耳を傾けてはいけない。あの子は部屋を改装した人にそう言ったらしい」
 悪魔のような所行をしているのはむしろあの子の方だ。
 いっそ悪魔が乗り移っているのならば良かった。悪魔を喰えば、あの子は正気になっただろうから。
 けれどあの子に悪魔など取り憑いてはいなかった。
 泰然と、己を正しいと信じて突き進んでいた。
 真っ直ぐ育つように、意志強く、自分を貫くようにと願い育てた私の気持ちがある意味芽吹いていた。
 悲しいまでに。
「そこで……時を過ごした。逃げようと思ったけれど、あの子は毎日私に会いに来て、嬉しそうに私の世話をしていた。かつて私があの子を育てたように」
 あの子にとっては穏和な時間だっただろう。
 優しい、柔らかな時間だっただろう。
 けれど私の心臓は毎日きしみ、押し潰され、血を吐くような思いだった。
「……どれだけ説得してもやはりあの子には伝わることがなく。私は飢えばかりが強くなっていった」
 腹が減っても喰い物はない。
 喰えるのは目の前にいる人間。
 あの子だけだった。
「腹が減る。喰い物が欲しい。けれど喰い物になるのはあの子しかおらず。私は自分と戦った。喰ってはいけない。喰えるはずがない。だが逃れられず。いつか、正気を失うと思った」
 狂って、あの子に手をかけるだろう。
 浅ましく貪るだろう。
 そんな恐ろしいことをするくらいならいっそ死にたかった。殺して欲しかった。
 それをそのままあの子に告げると、喰っても良いのですよと笑った。
 いいのです、それで。
 まるで望んでいるかのように囁く声。
 どこまで私は冷たい絶望に突き落とされるのだろう。どこが絶望の底なのだろう。
 何もかもが分からなくなりそうだった。
 気を抜いた次の瞬間には、足元にあの子の死体が転がっているのではないか。そんな想像に怯えるようになり、私は耐えられなくなった。
 そして誰を傷付けても、壊しても構わない。
 あの子が壊れることになっても構わない。
 せめて殺さずに、生かしたまま別れたかった。
 あの子の瞳から消えたかった。
「だから、喰らう前に、殺す前に、私はあの子を見捨てた。救うことも出来ずただ投げ捨てて、私一人逃げた」
 狂わせて、壊して。
 私は逃げたのだ。
 あの子から。
 自分を包んでいた全てから。



 男は黙って聞いていた。
 相づちもない。
 時々水を飲むくらいで、動きも少なかった。
 表情も変わらないものだから、聞いているのかどうかもよく分からない。
 語り終わったのでちらりと見上げると、視線が絡まる。
「どうやって逃げた」
 ようやく出てきた問いかけだった。
「そいつの隙でもついたか」
 それには緩く首を振る。
「あの子に隙なんてものはなかった」
 足首を鎖で繋がれているため、ドアを壊したとしても逃げられない。そしてドアや鎖の鍵はあの子が肌身離さず持っていたようだった。
 あの子に危害を加えて動けなくすれば鍵も奪えただろう。けれどそれはしなかった。
 たった一つ、かろうじて残っていた絆すら消えてしまいそうで。それだけは守りたかった。
 結局甘かったのだろう。
「あの子が勉学のためどうしても一日、部屋に来られない日が出来た。その時代わりに来たのかあの部屋を作った人だったから」
 あの子以外の人間が来る。そう知った時、その日しかないだろうと思った。
 逃げ出すのなら、その日だけだと。
「その人間に甘言を囁いた。心を惑わせて、操り人形のようにした」
 まるで悪魔のように。
 反吐が出るようなやり方だ。
 普段悪魔たちのそうしたやり方を責めていたくせに、切羽詰まれば自分も同じことをするのだから。
「そんなことが出来るのか」
「悪魔をも墜とすことが出来る。人間は容易なんだ。本当は…したくないけれど」
 人々の心の尊厳を完全に無視した形になる。だからしたくない。
 だがその時はそんな配慮など出来なかった。
「部屋の鍵は持っていたから、それを渡すように囁けば良かった。けれど足首の鎖を外す鍵は持っていなかった」
 必要がないから、あの子は渡さなかったのだろう。
 その鍵があれば部屋の鍵を奪われたとしてもつなぎ止められると思っていたのかも知れない。
「鎖を落としたのか」
「いや。そうしたら足首に輪が残っているだろう」
 素足に何もないことは、男の目にもはっきり映っているはずだ。
「その人は部屋を作ったと同時にあの鎖も作ったらしい。鍵は一つしかないと言っていたけど、新しく作らせた。時間はそんなにかからなかった」
 あの子は、そんなことが出来るとは知らなかったはずだ。
 人間まで惑わせるなんて、知らなかった。
「それを持って、私は逃げ出した」
「監禁した奴にも囁けば良かっただろう」
「あの子に甘言は通じなかった。あまりにも意志が強かった」
 強すぎて、この声など全く聞き入れなかった。
 並大抵の精神力ではない。
 甘言が通じればどれほど楽だったか。
 あの子の記憶を改竄して、盲目的になった瞳を晴らし、傷付け合うこともなかった。
 何もかも上手くいった。
 薄っぺらい言葉に支えられた、かりそめの現実であったとしても。
「それで、これからどうする」
 男は長かった話を聞いて、そう尋ねてきた。
 目の前で漂っている悲壮感になどさして気にしていないようだ。今はその方がありがたかった。
 同情も哀れみも、背負うべき責任を捨てて逃げ出した身にとっては何の価値もない。
「分からない」
 情けないことだが、そうとしか言いようがない。
 行くところも、やるべきこともない。
「ただ、ここにはいられない」
 あの子がいるだろう土地にはいられない。
 逃げなければいけない。
「日本が恋しいか」
 唐突な言葉に、瞬きをする。
 日本。何十年も前に出てきた地。
「…恋しい」
 するりと口から零れた。
 この国に来てから何度も日本のことを思った。だが今は戻れない、帰れないと思い続けていた。だがいつかは、あそこに戻りたいと。人間で言う、故郷のようなものかも知れない。
「今は…あちらでは何の季節だろう」
 ここと日本とでは離れている。時間も季節もきっと違うだろう。
 そもそも今が何月かすら知らないのだ。想像も出来なかった。
「夏だ」
 男の答えに、脳裏で日本の蒸し暑さが蘇ってきた。
 うるさいほどの蝉の声。ぱかりと割ったすいかの赤。川に入って水しぶきに僅かな涼をとった。
 風鈴の軽やかな音で涼しさを得ようとする様は日本の情緒の在り方だろう。肌で感じるものではなく、耳や目からも温度を感じることが出来る。
 形が定かではないものを尊ぶ人々の深い姿勢だ。
「螢が、見られる」
 夏になればこの目を楽しませてくれる、一番のものは螢だった。
 暗がりに舞うほのかな光。幻想的な様は、悲惨な現実を僅かたりとも切り離してくれた。
 慰めのようなものだった。
「螢が見たいのか」
「あれは、綺麗だから」
 見たいと口にして、目の奥が熱くなるのを感じた。
 じわりと視界が歪む。
 帰りたい。
 狂わずにいられた日常へ。
 傷付け、傷付けられることでしか側にいられない日々ではなく。ただそこにいても良いと言ってくれる人が一人いるだけで安堵した、ささやかな時に。
 戻りたい。
 呼吸することすら悔やむような部屋ではなく。
 鎖に繋がれた足を引きずる檻ではなく。
 螢を見上げて、夜の星が落ちてきたと戯れを告げられる場所へ。
「かえりたい…」
 帰りたいと繰り返すたびに涙が落ちた。
 ぼつりぽつりと、頬を濡らしては喉を締め付ける。
「名前を聞いてないな。俺は笹淵だ。笹淵不動だ」
「ふどー……」
 どんな字なのだろう。
 涙を拭いながら、久しぶりに耳にする日本の名前を繰り返した。
「不動明王の不動」
「…良い名だ」
 それは、良い名前だ。
 雄々しい像の有様が思い出される。
 あのように強くいられれば、そう思ってしまう。
「私の名は……捨ててきた」
 あの子に呼ばれた名前は、もう名乗りたくない。
 責められているかのように感じる。
「日本にいた時は何て呼ばれていた」
「……もう覚えていない」
 遠すぎる。
 時間が経ちすぎて、もはや記憶には残っていない。名前なんて、その程度の価値しか見出していない。
 今までも何度も変えてきたようなものだ。
「不便だ」
 男は短く、それだけを言った。
「好きなように呼べばいい。今までもそうしてきた」
 呼ばれていると理解出来るなら十分だ。
 興味なくそう告げる。
 すると不動は「なら」とやはり表情を変えることなくこう言った。
「螢」
「ほたる……?」
「見たいんだろう」
 夜に舞う綺麗なあの光を名乗れというのか。
 相応しくない。
 綺麗でも、優しくもない。
 むしろ夜の暗がり、川に蠢いてる闇のような存在なのに。
「名前だけでも先に味わっているといい」
 好きに呼べと言った手前文句など言えない。良すぎる名前だという文句もおかしなものだが。
 しかし螢という名前を味わうというのも奇妙なものだ。
 変な人間だと改めて感じてしまう。
「飯は食えるか」
 変な人間はまた唐突にそんなことを訊いた。
「食えるけれど、必要というわけではない」
「迷惑か」
 不動はベッドから立ち上がり、キッチンに向かっていた。
 食事を作るということだろう。
「いや、そんなことはないけど」
 一人余分に作るのは手間ではないのだろうか。
 そう思ったのだが、不動は気にしないようだった。
「目の前に人がいるのに、一人で食いたくない」
 ご飯は誰かと一緒に食べた方が美味しい。
 かつてそうあの子に言ったことがある。
 小さな、育ち盛りの子に。
 記憶が刺激され、涙がまた込み上げてくる。
 だが唇を噛み締めて、堪えた。泣くことではない。
 どれだけ泣きたくとも、懐かしくて苦しくとも。それは投げ捨てたことなのだ。
 自分で望んで、捨て去ったことなのだ。
 だから泣いてはいけない。
 たとえ痛みに息が出来なくとも。



next 



TOP