偶像の鎖   4




 彼と会った時のことは覚えている。
 私を見て疑わしそうな視線を向けていたのだ。
 刺さるようなその視線は、私を闇雲に信じている人々が増えた中でとても鮮やかに感じられた。
 この国に来たばかりの頃はそんな視線ばかり浴びていた。そのほうがまだ良かったのかも知れない。
 そんなことをふと考えていた。
「彼は霊体を祓う職に就いていた人だった。私の噂を聞いて、詐欺ではないかと確かめに来たようだった」
 真っ向からそう言われた時は、思わず笑んでしまった。
「心霊詐欺というのはいつの時代も溢れているから」
 だから彼に言われても、憤慨しはしなかった。
 ただ確かめに来たとはっきりと言うなんて直接的な人間だと思ったくらいだ。
「詐欺かどうかはその目で知ると良いと言って私は彼に自分の有様を見せた。彼の誤解は、それからさして間もおかずに消えていった」
 詐欺でないのだから当たり前だった。
 私が言葉巧みに騙しているのは人間ではない。その中にいる霊体に対してだ。
「その代わりに私がただの人間でないことも分かったようだが。どうやら彼も少し変わった人種のようだった。霊体を祓うなんて職をしているのだから変わっていることは察してはいたのだけれど」
 まさか、人間ではない私を厭わないほどだとは思わなかった。
「私を恐れるでもなく、反対に崇めようとするわけでもなかった」
 人は己に理解出来ない、己には到底為しえることの出来ないものを間近にした時、恐れるかその恩恵を受けようとするかどちらかだと思っていた。
 今までは、そうだったからだ。
「特別視してこない彼が嬉しくて、私は時々彼と会うようになった。彼といる時の私は、偽ることなく少しだけ自然でいられる気がした」
 穏やかな時間だった。
 あの子と暮らしている時間も穏やかではあったけれど、私は自分を人間と同じ生き物であると思いこませなければならなかった。窮屈さがあったのだ。
 それはあの子に真っ直ぐ育って欲しいという気持ちからだったから、苦しくはなかったけれど。それでも抑圧を感じていたのだろう。
「それに、あの子も成長して大人に近付いていた。だからあまり手がかからなくなったというのもあった」
 もうじき、離れる時がくると思ったのだ。
 そして私はまた独りになるだろう。
 けれど彼がいれば、あの子を手放した後に少しだけでも慰められるかも知れないと思っていた。
「私は友人のような気持ちで彼と付き合っていました。けれど彼はそれ以上のものを欲した。恋人に、なって欲しいと」
 いつからそんな目で見られていたのだろう。
 告白された時はそう思って驚いた。
 同性だからという理由で、私は彼から向けられる好意を一切気が付かなかった。
「自分を分かってくれるのは私だと、彼は言っていた。きっと特殊な体質のせいで苦労をしてきたのだと思う。私はそれを気にしないから、彼にとっては嬉しかったのだと思う」
 私にしてみれば、彼の変わった体質など全く問題ではなかった。
 彼は人間だったから。
 私以上におかしなものではなかった。
「恋人になって欲しいと言われても私はそんな考えは持っていなかった。だから考えさせて欲しいと言った。嫌いではなかったけど、自分がどんな生き物であるのかまだ正直には話していなかったし。話すのが怖いということもあった」
 受け入れて貰える自信はなかった。
 いくら私がただの人間とは違うと知っていたとしても、人間を喰えるとまでは教えていなかった。
 ずっと年を取らないということも。
 隠したままで、穏和な時間だけを過ごしていたのだ。それを壊すのが怖かった。
「それからは友人とも違う、けれど恋人とは言えない。微妙な関係になった」
 くすぐったい関係だった。
 彼は自分の感情を隠すことなく私に伝えてきた。戸惑うばかりの私に優しく微笑んでは、時折指先などに触れてくる。
 焦れているのような、だが私を静かに観察しているような、相反する態度を持っていた。
 きっと、探っていたのだろう。
「人とは寿命が違う。死ぬかどうかも分からない。けれど一時だけでも、短い時間だけでも、彼と一緒にいることで幸せになれるだろうかと思った。救いに焦がれるだけだった気持ちを一瞬だけでも忘れられるかと。そう迷っていた」
 迷うほど、彼と一緒にいることは心地よかった。
 好意が嬉しかった。
「そんな時、彼が別れ際に一瞬だけ私に口付けた。とっさのことで私は驚いたけれど、その直後にもっと驚くことがあった」
 口付けられたことには驚いたとしても、彼はそうやって私に触れたかったのだろうと思うくらいで心は収まった。
 だがその次の瞬間に感じたものは、私の背筋を凍らせた。
「視線を…感じた。冷たく、刺さるような視線を。振り返るとあの子が、立っていた」
 眼差しで人を殺せるとすれば、きっとあの子は彼を殺していた。
 それほど憎しみの混ざったものだった。
 完全な殺意だ。
「私は悪魔から殺意を向けられることがある。憎悪も同様。悪魔たちは自分に何より素直だ。だからその憎悪もとても大きくて強い。だがあの子の視線はそれを上回っていると……感じた」
 人間に、あれほど強い視線を作り出せるのかと驚愕したほどだ。
「あの子は前々から彼との交流には反対をしていた。胡散臭い人間だと。私ほど胡散臭い者はいないよと笑うと、貴方は神に近い御方だから良いのですよと微笑んでいた。私にとっては、その笑みが最も辛いと知らずに」
 年月を重ねるたびに、私はあの子と相容れないものを感じていた。
「あの子が私に向ける信頼は、私の力に対する信仰は強くなる一方だった。成長すれば、世間が目に入れば、私の薄っぺらい慈愛にも気が付くと思ったのだが。あの子は盲目的になる一方で、それが正直恐ろしかった」
 信仰の瞳は、私の本心すら受け入れないと感じていた。
 自分の中に存在しているであろう私という存在だけを見つめ、実在している私をすでに見ていない。
「とても、嫌な予感がした……」
 あの子は私と目が合うと視線を外して歩き始めた。
 何事もなかったかのような足取り。だがその背中から憎悪が消えることはなかった。
「帰宅すると案の定あの子と大喧嘩だ。あんな男は相応しくない。貴方は特別な存在なのだから、あんな男と付き合うなんてとんでもない」
 神なのだから。
 あの子は最後にはそう言った。
「私は神なのだから。自らを貶めるようなことを止めて下さい。あの子はそう私告げた」
 嘆いていた。
 己を見失わないで下さい。
 盲目的になり私を見なくなったあの子が、目の前にいる私の心に気付きもせずにそう言った。
「私は耐えられなくなった。狂信的なあの子に。もう現実を突き付けるべきだと思った。成人を目の前にして、あの子を助けてくれる人も多くできている。最初は私を主とした繋がりだったけれど、あの子は頭が良く、周囲の人間たちからも認められていた。きっと私がいなくなっても、あの子を助けてくれる人はいっぱいいる。だから」
 私は、耐えられなくなって。
「あの子に全てをぶちまけた。私が人間ではないこと。悪魔を祓っているのではなく、本当は喰っていること。そうすることで自分を満たしていたこと。年を取ることもなく、ずっと生き続けていること」
 感情は震えていた。
 隠し続けていた事実だ。
 拒絶されることが怖くて、あの子と切り離されるのが嫌で、偽り続けていたことだ。
 きっとあの子はもう私に微笑んではくれない。向かい合って食事をとったり、じゃれるような料理をしたり、幸せだった時間は、柔和だった関係は戻ってこない。
 泣きたかった。
 あの子との繋がりは時折私の心を締め付けた。
 けれどそれよりもずっと私は微笑む回数の方が多かった。楽しいと笑っていた時間の方が長かった。
 小さな子どもが育ち、自分の足で立てるようになるまで支えている立場は、頼られている感覚は、とても嬉しかった。
 それが崩されていく。終わっていく。
 だがこれが良かったのだと。いつまでも嘘を重ねてあの子を騙すより、真実を見せて蔑まれたほうがいいと。
 いつまでも一緒にはいられないのだから。
「あの子は……真実をうち明けた私に怯まなかった。それでこそ……神である証だと……微笑んだ」
 あの時の絶望感は、この心に突き刺さっている。
 伝わらない。
 どうしてもこの気持ちはあの子には届かない。
 そう感じた。
 どうしてこれが神なのか。どうしてこのおぞましい身体が神になるのか。
 悪魔を喰うのだ。人をも喰うのだ。年も取らず、人の間を彷徨っては独りで寂しさだけを噛み締めている。この生き物のどこが神だというのか。
 叫びたかった。
 泣き叫んであの子に訴えたかった。
 何が神なのか。
 生きているという実感もわかず、独りきりで放浪しては苦痛ばかりを味わって、時を得ることも、安息を得ることも出来ず。ただ救いだけを求めている者の何が神だ。
 誰を救おうとも思わない。私自身が最も救われたいのだから。
 そんな利己的な者の何が神か。
「決して……分かり合えないと知った…。分かり合う時は来ないのだと」
 なぜなら私の言葉も瞳もあの子の中に入ることは出来ないのだから。
 同じ部屋にいて、同じ空気に包まれている。
 だが見つめている場所は、あまりに違いすぎた。
「それから二日後。私に付き合って欲しいと言っていた彼が、事故で亡くなった。ブレーキが切れていたと…」
 車のブレーキが切れているなんて異常だ。
 衝撃を受けて真っ白になった頭の中で、ぼんやりとあることを思った。
 故意で誰かが切ったのではないのか、と。
  「信じられなかった…」
 だって二日前は私の目の前にいたのに。
 そんな陳腐な台詞を呟いたように思う。
「あまりにも呆気なくて、突然で、私は理解出来なかった。死体を見たわけでもなかった…。けれど新聞にまで載っていて…」
 文字にされると認めざる得なかった。
「けれど悲しみが押し寄せる前に、あの子が私にこう言った。貴方におかしな欲を抱いた罰ですよと」
 笑っていた。
「……もしかするとあの子がやったのかも知れない。その時、そんな思いを抱いた。けれど警察が車などを調べても証拠が何一つ出てこない。ブレーキは切られたというより弾けたようだと言っていた。だが火薬なども検出されない。一体どうやったのか首を傾げていた」
 それから彼の件がどうなったのかは、私は知らない。
 知ることが出来なくなった。
「あの子がやった証拠が出ないことにほっとしながら、でも疑惑を払拭出来ず。あの子を信じ切れなかった…。もうここにはいないほうがいいだろう。一カ所に長くいることは良くないのだと知っていたのに、名残惜しいものに目を奪われてそれを無視していた私に対する、これが結果なのだと思った」
 人ではない。いくら人と同じに見えても、中身は大きく異なる。まして年を取ることも出来ない生き物が一つの場所に長く留まればその場は歪んでしまう。
 私はそれを知っていた。
 きっと生きてきた中にそうして悲惨な結末を迎えた過去があったのだろう。
 覚えてはいないけれど、胸の痛みが経験を物語っていた。
「離れようと、そう思っていた矢先。あの子が私を外に連れだした。鬱ぎ込み部屋に籠もっていた私を見かねたのだろうとその時は思っていた。そして私はここから出ていく、遠くに行くと伝えようと思って、あの子についていった」
 何も知らなかった。
 機嫌良さそうにしているあの子の心の内など、私には察せられるはずがなかった。
「案内されたのは一つの部屋だった。その時住んでいた部屋よりずっと狭い。けれど綺麗に整った落ち着いた雰囲気の部屋。私はそこに足を踏み入れた時、あの子が一人暮らしでも始めるのかと思った。なら私は出ていくのに丁度良いだろうなんて、愚かしいことまで考えていた」
 今思うと、本当に私はあの子のことを何も知らなかったのだ。
「そこは、私の檻だった」



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