偶像の鎖 2 連れて行かれた場所はどうやら男のアパートのようだった。 古びた、薄暗いアパートだ。階段もお世辞にも綺麗とは言えず、どうなってしまうのだろうかという不安をかき立てる。 けれど恐ろしいとは思わなかった。 自分以上に恐れられる存在などいはしないのだと知っている。 願えば、この男もすぐに殺してしまえる。 そんな生き物である自分以上に、おぞましい生き物などいないだろう。 冷たいコンクリートが足の裏にぴったりと張り付いてくる。 だがそれを不快だとはもう思えなくなっていた。ずっと素足で石畳を歩いていたのだ。 感覚が麻痺していた。 一つのドアを開けると、ぎぃと鈍い音を立てた。 男の部屋なのだろう。 中はとても簡素で、ワンルームにベッドとテーブル、キッチンといった生活に必要なものしか存在しない。 古びた外観と同じく、部屋の中も年期が入っていた。 隙間風を誘い込みそうなほど、窓の立て付けが悪い。ぱっと見ただけで分かるのだから相当なものだ。 「人の食い物は」 部屋に入ってドアを閉められると、ようやく男が手を離してくれた。 そして冷蔵庫を開けている。 「食べられる……」 普段は人と何の変わりもないように生活している。 だから人間に混ざっていくのは容易だった。容易だからこそ、自分と人間とのあまりにも違う部分が苦しくて仕方がない。 男は冷蔵庫から水を出して、グラスに注いだ。それを一つはテーブルに置く。 透明な水は微かに表面を揺らした。 もう片方は持ったまま、男はベッドに腰掛けた。 部屋は狭く、ベッドからテーブルまでは一歩しか離れてない。 そのテーブルの前には椅子が一つだけあった。そこに座れというように、視線で促してくる。 逆らう理由も見付からず、腰を下ろすと男が真っ正面から見つめてきた。 鋭い、意志を感じさせる瞳だ。 この男は自我が強いのだろう、そう思った。 「……貴方は…何?」 人間なのだろうか、けれど真っ当だとは思えない。 ずっと問われてばかりで相手のことは何一つまだ分からないままだった。 「日本人だ」 やっぱりそうなのかと微かな懐かしさが込み上げる。 あの地はどうなっているのだろう。 「お前は」 何なのだと尋ねられても、本当は答えられる言葉がない。 自分自身のことを、明白に示すことは出来ないのだ。 「……元々は日本にいた。五十年以上前のことだ。まだ戦をしていた頃の話」 この見た目では言っても信憑性はないだろう。 日本人であるなら二十を少し過ぎた頃にしか見えない。この国では未成年かと思われていたくらいの年頃の容姿だ。 信じて貰えないことを覚悟しながら、グラスの水を眺めていた。 男から漂ってくる香りに眩暈がした。だが今は誰かに自分のことを話してしまいたいという欲求があった。 抱え続けたこの思いをぶちまけてしまいたいのだろう。 話したところでどうなるわけでもないと知っているくせに。 だが指先は飢えに十分で、微かに震えていた。 手を伸ばすのを、我慢し続けているからだ。 「食い物がいるか」 異変に気が付いたのだろう、男はそう言ったが首を振った。 「この飢えは人間の食い物では満たされない」 人間の食事は気分転換のようなものだった。 それで、本当の腹が膨れるわけではない。 「魂とやらか」 「悪魔だ…霊体を喰っている」 魂なんて言い方をすれば、人間を喰っているかのようだ。だからつい言い返してしまった。 「そう転がっていないな」 「貴方がいる」 香りの濃さに、むせびそうになる。 目の前にいるのに喰ってはいけないなんて拷問だ。 禁じるくらいなら殺してくれ。 そんな浅ましい欲が首をもたげる。数分前には殺してくれと思っていたというのに。 「食い物じゃない」 「でも甘い」 悪魔よりもきっと甘い。こんな存在は初めてだった。 「貴方ならきっと少しで大丈夫」 「少し?」 唇を舌で舐める。 喰いたい。 精神が叫んでいた。 「殺さなくともすむ」 きっと。 いつの間にか椅子から腰を上げていた。そして香りに誘われるまま、男に近付く。 きっとこの唇は笑んでいるだろう。獲物を墜とす時のように、柔らかく、優しげな形をしている。 「だから」 座っている男の両肩に手を置いた。顔を見つめては甘言を囁く。 その身を差し出せと墜とす。 「まずいと思えばお前を殺すぞ」 男は誘われていることに気が付いているのだろう。 だが動揺も見せることなく、冷静にそう言った。 この男に殺せるのだろうか。 誘ってはいるけれど、甘言を流し込んではいるけれど、完全に墜ちている素振りはない。むしろその逆だ。これほど揺さぶりがきかないのであれば、勝てるかどうか分からない。 純粋に物理的戦いに持ち込まれてしまえば、体格の差で負けるだろう。 殺されるかも知れない。 死ぬことが出来るかどうか分からないけれど。むしろ、死なないような予感があるけれど。 だが殺されることになっても。 それはそれでいい。 「ああ、殺して貰って構わない」 むしろ殺して欲しいくらいだ。 そう思いながら、身体は意志に反して男の唇を奪っていた。 弾力のある唇から、流れ込んでくる味。 さきほどは一瞬だけはしか味わえなかったが、はっきりと味合えるほど重ねていると頭がおかしくなりそうだった。 髪の先から足の爪まで、甘さに満たされていく。いや、満たされるというより犯されているような感覚だった。 清水のように涼やかな味であるはずなのに、麻薬のようにこちらを惹き付けて放さない。 求めるままに舌を差し入れると、男は拒まなかった。 口内を探るようになぞると、舌を絡め取られる。 「っん……ふ」 今まで口付けは数え切れないほどしている。 官能的だと思えるものも、何度もしてきたというのに。 これほど刺激的で、快楽を引きずり出すものは今までなかった。 身体が灼熱ら焦がれていくようだった。 もっと、もっとと欲しがって夢中で貪る。溢れてきた唾液が顎を伝うがそんなもの気にしている余裕などない。 喉から上がってくるのは嬌声じみていて、だが唇が塞がれているために音にはならない。 情事であっても、これほどの悦は得られたことがなかっただろう。 「っ……!」 舌を軽く噛まれて、唇を放す。 全身が痺れてろくに動けない。 これ以上続ければきっとこの男の魂を抜きだしてしまう気がした。 だからもうこれで終わりだ。終わりにしなければならない。 しかし、まだ飢えは満たされていないのだ。 「……下を」 唇から甘さを喰うのは危険だ。 普段悪魔も霊体も取り憑かれた人間の唇から引きずり出している。 唇は魂を出すのに友好的な箇所だ。 だからこれ以外から喰わなければ。 「下を舐めてもいいか」 男の目は見られなかった。 口付けただけでも申し訳ないのに、まさか下肢を口にくわえたいなど到底受け入れられるものではない。 気持ち悪いと一蹴されるに決まっている。 だが小さな希望にかけた。 「そうして喰うのか」 ここまで泰然としたままだった男も、さすがに戸惑いが声に滲んだ。 「唇から喰っていたら、魂に触れる。でもここなら魂には関係ない。生気だけを喰える」 安全だと言いながら男の足元に膝をついた。 そして許し乞うように頭を下げた。 なのに、やっていることは男の履いてるジーンズのフロントをくつろげてそれを手にすることだった。 執拗な口付けのせいか、少しだけそれは硬さを持っていた。 指で包むとどくりとまた少しだけ大きくなったようだった。 男に止められるだろうかと思った。だが男は何も言わずに好きなようにさせてくれている。 許されている。そう勝手に判断して、それを唇に含んだ。 こんなことをしたのはいつぶりだろう。 今まで付き合ってきた相手は女が圧倒的だったから、こんな経験は滅多にない。 記憶に残っていないのだから、何十年もしていないのだろう。 先端を舌で舐めると、男の呼吸が乱れた。 根本の双球は手で包み、ゆるりと撫でる。 男のものなんてくわえるくらいなら悪魔や霊体を求めて彷徨った方がいい。飢えていたほうがいい。そう思っていたというのに、この男に対しては何の抵抗もなかった。 それだけ飢えが酷いのだろうかと思っていたのだが。きっとそれだけではない。 甘すぎる。 唇から味わったものほどではないが、これも甘さを感じさせる。 大抵苦さと甘さが混ざったものになっているのだが、男の場合は圧倒的に甘い。 そのせいか舌を使うのも、指で愛撫するのも何の躊躇いもなかった。 必死になって男のものなんてくわえているこの姿を、冷静さを持っていた男はどう思っているだろう。 浅ましい獣だと思っているかも知れない。 それでも止まれなかった。 「ん……ぅ」 育ち始めたそれは口の中だけで奉仕するにはややや辛くなってきた。 なので先を唇で包み、他は手で上下に擦った。溢れてくる雫を舌で舐め取る。 体液を蜜などと思うのは人間では理解出来ない感覚だろう。だがこの身体にとっては、蜜としか思えない。 粗くなった息を頭上で感じながら、頭ごと動かして口の中のものを吸い上げた。 「っん!」 口内で唐突に爆ぜたものが喉の置くまで流し込まれ、一瞬えづいた。けれど零すこともなく必死で飲み込む。 微かに妙な味が混ざっているようだったが、気にはならなかった。 唇の端から少しばかりそれが零れてしまうと、男の指が拭ってくれる。 その優しい手つきが、無性に恥ずかしかった。 飢えが満たされた分、自分がどんなことをしたのかを突き付けられ手、居たたまれない。 「いつもこうして喰ってるのか」 男は萎えたそれをジーンズにしまう。 食事を終え、視線は床に落とした。 甘さが身体の中を巡り、活力をくれる。だがその分気分は沈んでいく一方だった。 「喰わない…人は滅多に喰わない」 「霊体ばかり喰っていたのか」 こくりと頷く。 「人は、近すぎる」 たとえこの生き方が違っても、食事が違っても、見た目が酷似しているというだけで罪悪感を強く持っていた。 まして普段は人間と一緒に、人間のように暮らしているのだ。 「腹は満ちたか」 侮蔑は感じない声だが、どう思っていることか。気になって上を向く。 「満ちた…半年も喰ってなかったから」 ちらりと見ると男はやはり何の表情も浮かべていない。 とても表情が乏しい男のようだ。 こちらを警戒しているという顔すらないのだから。 「どうして……拾ったんだ」 訳の分からない存在だろうに。 人間は訳の分からないものは厭う。遠ざける。 それなのに男はこの手を掴んで、連れてきてくれた。 「興味がわいた」 ただの興味本位であったのなら、魂を喰われそうになった時に冷静になりそうなものだ。自分の身を危険にさらしてまで好奇心を満足させたいものだろうか。 「恐ろしくないのか」 「大抵のものは始末出来る」 自信すら男は感じさせない。それはもう事実のようなものであり、男にとっては当然のことなのだろう。 どんな生き方をしたきたのか、予測が出来ない。 「何者?」 「半分は人間だ」 「もう半分は?」 人間であって、人間ではない。そう分かってはいたけれど。その半分は何なのか。 「人ではないものだ。それで、おまえは何だ」 男は自身を明らかにすることなく、問いかけを返す。 生気を貰い、腹を多少なりとも満たした。その恩恵を無視してはいけないのだろう。 溜息を一つ付き、男を見つめ返す。 「話すと、長くなる」 「構わない」 「気分の良いものでもない。嘘みたいな話だ」 人間にとっては、本当に嘘のような生き方だ。だがそれ以外知らないのだから、ありのままを話すしかない。 「俺も嘘のような人生を歩んできている。構わないから話せ。喰われた代償だ」 食事代と言いたいのだろう。 甘さばかりが残る唇を噛んだ。だが黙っていたところでどうにもならない。 立ち上がってテーブルの上にあった水を手にする。それを喉に流し込むと、少しばかり頭の中が冴えるようだった。 next |