偶像の鎖   1




 素足で石畳を歩く。
 ざらざらとした道は足の裏に突き刺さってくる。
 けれどそんな感触に頓着は出来なかった。
 それよりもっと強い欲求があった。
 食い物が欲しい。
 喉を、腹を、精神を満たすものが欲しい。
 自然と呼吸は乱れ、指先は震えるようだった。
 今すぐにでもかじり付きたい。
 まして、食い物はあちこちに溢れていたのだ。
 今も、すぐ隣を過ぎ去っていく。
(駄目だ…)
 ふわりふわりと香る食い物の匂いに、つい手を伸ばしてしまいそうになる。
 通り過ぎる者の肩を掴んで微笑みたくなる。
 ほんの少し言葉をかければ、きっとそれは自らを差し出してくる。
 それはあまりにも簡単なことだった。
 以前主食にしていた、悪魔たちに比べれば人間を墜とすことなんて呆気ないほどだ。
 彼らは心地よい甘い言葉にとても弱い。誘惑すればあっさりと陥落する。
 それでも、やろうと決断は出来なかった。
 人間の命にまで手を出すことは禁断であると思っていた。
 自分と姿形が似ている者を食らうということは、同胞喰いだ。蔑むべき、愚かしく浅ましい行為だ。
 それは許されない。
 けれど、この身体は限界を訴えている。
「はあ……」
 影に紛れるようにして、街角の細道に入っては壁に背を預ける。
 もう歩く気力もない。
 身体は冷え始めている。腰を下ろして力を抜けば、そのまま朽ちてしまうかと思われた。
 けれどきっと死にはしない。ただ苦しいだけだ。痛いだけだ。
 記憶はないくせに、何故かそう確信していた。
(終わらせたい……)
 何もかも終わってしまえばいいのに。
 この存在は灰になって消えてしまえばいい。そうすれば過ちを繰り返すことはない。誰も迷わせずにすむ。
 そう願いながら、人目を恐れては息を潜めている。
 人の視線を浴びれば、きっと奇異の目で見られる。
 それか、もしかするとこの顔を知っている者であるのならあの子に連絡をされて、また檻の中に戻される。
 そして、また繰り返されるのだ。
 偶像への祈りが。
(逃げなければ)
 あの子の元に戻るわけにはいかない。
 いかないのだ。
 けれど、食い物がそう簡単に見付かるはずがない。
 悪魔など、簡単に転がっているものではないのだ。
 下手をすると、このまま飢餓感に自我を奪われて見境もなく人を襲い始めるかも知れない。
 それだけは嫌だ。それだけは。
 きつく目を閉じる。
 いっそ殺して欲しい。
 何もかも幻だったのだというように。
 現実を投げ出すと、不意に甘い香りが漂ってきた。
 人とは異なる。だが悪魔などのように、ただ精神だけで存在しているような儚さはなかった。
 きっと生き物だ。
 だが人間ではない。
 すっきりとした、まるで雪のような清廉さを感じる。
(懐かしい……)
 何十年も前に出てきたあの国には、この甘さがあった。清らかで、涼しく、それなのに深い甘さを持った魂が。
(日本……)
 あの土地が懐かしい。
 煉瓦で作られた建物の間に、潰されるように挟まっているこの身体はかつてあの地で生きていた。きっと、長い間あそこにいた。だからこの魂が覚えている。
 もうほとんど記憶は残っていないけれど、それでも郷愁が込み上げる。
 あの地にずっといたのなら、こんな悲劇も生まなかっただろうに。
(ああ……私はどこまで愚かなのだろう)
 何十年も前の選択を今更後悔しているなんて。馬鹿げている。
 唇を噛み締め、漂ってくる甘さに耐える。
 痛みで食欲を誤魔化していた。そうしていなければ動き出して甘言を流し込むだろう。
 それほどに香しい甘さだ。
 精神を揺らして、乾ききった喉を引きつらせる。
 脳裏には緩やかな川の流れが思い浮かんだ。そこに流れてくる、紅の花びら。透明な水と戯れるかのようなそれは視線を奪い、放さない。
(止めてくれ)
 香りは強くなる一方だった。
 甘く、柔らかく、蠱惑的な香り。
 欲しい欲しい欲しいと全身が訴えていた。だがおそらく人間だ。
 人間は、いけない。人間は加減をしなければ殺してしまう。今は加減が出来るとは思えない。
(駄目だ、駄目だ)
 お願いだからどこかに行ってくれ。
 貪りたいと望む身体を押さえつけていると、痙攣のように震え始めた。
 もうじっとしていられない。
 噛み締めすぎた口内から血の味がする。
 凶暴な欲を堪えているのに、香りはどんどん距離を詰めて最終的には目の前にまでやってきた。
 むせぶような甘さ。噛み締めていたはずの唇が自然と開き始める。
 誘われるように瞳を開けて香りを見上げると、そこには一人の男がいた。
(日本人……?)
 この国では滅多に見ない人種だった。
 せいぜい観光客ぐらいだろう。
 黒い髪、しっかりとした顔立ち、一重瞼で少し目つきが悪い。
 体格は良く、おそらく前屈みになっていなくとも見上げる羽目になっただろう。
 人間だ。だが人間じゃない。
 この男の香りは、雰囲気は人から外れている。
 何者なのだろう。
 だがそんなことはどうでも良かった。これは美味そうだ。
 ゆったりと手を伸ばして、男の腕を掴んだ。
 甘すぎる香りは皮膚からも吸収出来るのではないかと思ってしまう。
 唇は緩み、おそらく笑みを形取っている。
 男は何もせず、こちらを眺めていた。冷静さがこの欲求を更に後押しする。
 笑んだまま、男の唇を塞いだ。
 唇から流れ込んでくる濃厚な甘さ。清廉な香りから想像していたものよりずっと甘い。それなのに粘るようなしつこさはなく、内蔵まで一気に染み渡ってくる。
 かっと意識は一瞬で灼熱に達し、真っ白に薄らぐ。
「っ!」
 気を失うのではないかと思う味に酔っている精神を正気に戻したのは、男の力だった。
 身体を突き放され、壁に叩き付けられる。
 一重瞼の瞳はこちらを睨み付けていた。
 自分が喰われていたとに気が付いたのだろう。
 ただの人間なら、自分が喰われていることなんて気が付かず、微笑に見入っては喰われるままになるというのに。
 やはりこの男は常人ではない。
「……は…」
 叩き付けられた背中が痛い。
 ろくに食事をとっていなかったせいだろう、骨と皮ばかりになっている。
 死にかけていた身体。
 それでも無意識のうちに喰いものを求める。手を伸ばす、そして貪る。
(まだ…生きるのか)
 苦しんで、苦しめて、傷付けて、傷付いて、それでもなお生きるのか。
 何のために、誰のために。
 どうして。
 こんな思いばかりするなら、させるくらいなら、いっそ。
「死んで……死んでしまいたい」
 いなくなってしまいたい。
 双眸は潤んで大粒の涙が足元に落ちる。
 石畳に出来る小さな雫の跡。
 からからに乾いている心なのに、魂なのに、それでも涙は出るのだ。
 何年も生きて、流し尽くしたはずなのに。
 いつまでも弱く、愚かなままだ。
「…お前、何だ」
 男は淡々とした声でそう尋ねた。
 この状況でもさしたる動揺が見られない。
 日本人のような気がしたが、言語はこの国のものだった。少し拙い。
「化け物だ」
 自嘲を込めてそう答えた。
 人間ではない。動物というには言語を使いすぎた。鬼と言うには人の肉も喰わず。霊体でもなく、また他に言い表す言葉を知らない。
「それにしては随分変わっている」
 この男は化け物と呼ばれる者を知っているのだろうか。
 血肉の匂いをさせることがない有様に疑問を抱いているのかも知れない。
「この世で唯一の生き物だから」
 自分の同類に会ったことがない。
 誰もが自分とは違う。似ていたとしても、在り方が違う。
 だからどこに行っても、どこまで行っても、独りだった。
「人を喰うのか」
「喰える。魂だけ、だが」
 誤魔化す必要なんてない。
 この男はさきほどの衝動を感じて、この存在が異常であることを知った。だからただの人間のふりをすることも、無害な生き物を装うこともしない。
「けれど…人など、喰いたくはない」
 喰いたくない。
 呟くとまた涙が落ちた。
 喰いたくない。
 貴方たちはとても姿が似ているから。言葉が通じるから。感情が伝わってくるから。
 だから苦しめたくない。本当は笑い合いたい。
 傷付けたくない。
 だって傷付けられたくないから。
 そのためにずっと、霊体だけを喰ってきた。それで生きてこられたのだ。
 それが、一層人間との隔たりを作ったとしても。
「他には何か喰えるのか」
 男は立て続けに問いかけてくる。
 恐ろしくはないのだろうか。
 気味が悪いと思わないののか。
 喰われたばかりだというのに堂々とした声しか聞こえてこない。
「…悪魔や、霊体を……」
 知ったところでどうするつもりなのか。
 だが男の思考などもはやどうでもいい。
 その甘さに頭が狂いそうだ。
 微かに飢えが満たされたとはいえ、満腹とはほど遠い。
 喉がからからに乾いている感覚に苛まれては、己の強欲に吐き気がする。
「なるほど」
 何に納得をしているというのか。
 それよりもうここからどこかに行って欲しい。
 ずっと一緒にいれば、また手を伸ばしてしまう。
 そしてきっとまた突き飛ばされるのだ。
 拒否されて、切り離されて、そんな記憶はいらない。
「それで、今は何をしているそんなところで」
「逃げている」
「何からだ」
 どこからと聞かれ、思わず笑みが浮かぶ。
 何から。
 そんなもの決まっている。
「全てから」
 生きていることから。死ねないことから。
 自分を包んでいた全ての人から。環境から、逃げている。
 戻れない。戻れば壊すだけになってしまう。
 自分が壊れるだけならばいい。けれど今度壊してしまうのは。
 きっと自分以外のものみんなだろう。
 帰れない。どこにもいけない。
 だがここにいてはいけない。
 心は立ちつくしているのに、身体は歩き続けなければいけない。ずっと、彷徨わなければならないのだ。
「なら、持って帰ってやろうか」
 予想もしていなかった言葉に顔を上げ、男を見つめる。
 偽りを言っているようには見えない。
 しかし真実だとも思えなかった。どうしてこんな生き物を持って帰るなんて言えるのか。
 数分間のやりとりを考えると、関わり合いにならない方がいいということは痛烈に感じられるだろうに。それなのにどうしてこの男はそんな酔狂なことを。
「持って……」
 私を、持ってる帰るなんて。
 唖然としながら呟くと、男はこの手を掴んだ。
 あたたかな手だった。



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