飢える慈悲 6 人がもがき苦しむさまを見ては楽しげに笑い声を上げるものを、信田は意志だと言った。 勘違いもここまで来ると薄ら寒い。 「人を満たしたい。幸せになって欲しい。私は悲しみに暮れる人ばかり見てきました。苦しむ人ばかり」 手をこまねいて見ていることしか出来なかった。 信田は切なげに告げた。 その部分だけは、本心のように聞こえてきた。 螢の目には、かつての信田はそのように見えたからだろう。 「貴方はそれを救っていた」 信田に会って、心が落ち着いた。悩んでばかりなのは止めた。 話を聞いてもらって嬉しかった。憂鬱だった気持ちが少し晴れた。そう関係者は言っていたらしい。 けれど信田はそれだけでは納得しなかった。 だからこうして心を乱して、歯車を狂わせた。 「けれど繰り返す。解決しない。救われないんです」 私は救いたい。 そう信田は口にした。 ずっとそればかり願っていたのだろう。 あの時吐露した心情は深さを思わせるものだった。 「貴方は誰より貪欲だ」 螢は信田に対して思っていたことを突き付けた。 人は欲が深い。そう嘆く瞳こそが、飢えていた。 「私、が?」 「貴方は人が満たされていなければ、幸せでなければ満足出来ない。自分が関わることによって、人々が満足して幸福でいなければ気に病んでしまう」 人が幸せでいるところを見るのが好きだ。それくらいの欲であるのなら、きっと信田は悪魔の声を聞かなかった。 幸せが広まればいい。その程度の思いなら平穏に暮らせた。 けれど信田はそれを以上を望んだ。全ての人が幸せでいられるように、争いがなくなるように。そしてそれを成そうと動いた。 だから信田は追いつめられたのだ。 改善しない状況、変わっていかない人々にどこかで苛立ちを覚えてしまった。 「けれど万人が幸せでいることは出来ない」 「何故」 「全ては連鎖しているから。幸せも不幸せも平等に与えられることはない」 誰かの幸せは誰かの不幸。 人が人は関わっている限り、そこに感情が入り込む限り、その連鎖は続いていく。 誰もが幸せで、平和に暮らせる時なんて存在しない。 愛することと憎むこと、どちらか一つだけを持ったまま生きることは出来ない。 「どうして」 語る螢に信田は問いかけを続ける。食い付くように見えたが、一方ではすがるようにも思えた。答えをくれ、どうしてなのか教えてくれ、そう求めているかのようだ。 悩み続け、袋小路に陥った人の悲鳴なのかも知れない。 「人は、いや、生き物は皆そうなのだよ。喰い、喰われる。何かを殺し、奪わなければ生きていけない」 何も奪わず、傷付けず生きていくことなんて出来ない。 螢は小さな子どもに諭すように告げる。 柔らかな声音で、信田にとって残酷なことを並べる。 「いえ、人は」 反論しようとする信田に、螢は切なげに微笑んで見せた。 「優しい人。その気持ちが貴方を飢えさせて満たさない」 螢は信田に近付く。 後一歩というところまで寄り、自分より僅かに高い位置の瞳を見つめた。 「幸せにはなれない」 その優しさがなければ、人の悲しみを自分のもののように感じなければ、無関心でいられたのなら。信田は救われたかも知れない。 「それが悲しくて苛立たしかったのでしょう。本当は貴方が一番満たされたかったのに」 慰めるように問いかける。そのたびに腹の中にいる悪魔の嘲笑がちらついた。信田の心が揺れ、もがくたびに悪魔はそれを嘲る。螢の言葉を見下す。 「いつまでそこにいるつもりだ。腹の中はさぞ居心地がいいだろう」 螢は柔らかな笑みを消し、剣呑な眼差しで信田を見据えた。唐突に変化した表情に信田は目を見開いた。 だが中にいるものは、自分に語りかけられていることを理解しているようだった。 「出てこないのなら、このまま食ってしまおうか」 螢は人として生きていた偽りを消した。 自分が人でなく、もっと歪な存在であることを身に纏う気配で教えた。 大抵の悪魔ならここで怯むものだが、その悪魔は嘲笑を止めただけだった。 そして信田の顔から表情が一瞬消える。意識を失ったかのようだ。 だが、螢はそれが悪魔が人間の身体を支配して自ら表に出てくる前兆だと知っていた。 (力はあるのか) 螢を見ても逃げず、また正気を失うこともない。確固たる意識がある悪魔なのだろう。 だからこそ信田も飲まれてしまったのかも知れない。 「満たされたいのはおまえもだろう。寂しい目をしている」 声から甘美な甘さが溢れていた。 悪魔がようやく自分の言葉を発するらしい。 「そうだな。満たされたい」 「満たしてやろうか」 悪魔は螢が欲を持っていることを、自分にとって優位だと思ったのかも知れない。 だがその欲には、悪魔を食いたいという気持ちも含まれる。所詮螢にとって悪魔とは誘う者である以前に食い物でしかいないのだ。 「私は満たされない」 苦笑を浮かべて、螢はそう告げる。 信田にこの言葉は届いているだろうか。 この世にはどうあがいても満たされない者がいるのだと。 「どうして」 そんなはずがないと悪魔は言いたげだった。得意げな顔が一層無様だ。 「諦めたから」 「よく言う。諦めた者はそんな顔をしない」 どんな顔だ。そう笑いたくなる。 寂しい、辛い、そんな顔をしているだろうか。それなら元々だ。 もうずっとそう思い続けて、この顔が定着してしまった。 望んでも仕方がないと知っているくせに。 「満たされたいのはおまえたちだろう?」 螢は苛立ちを消して、精神の揺らぎをなくす。 平淡な感情へと意識を抑え、悪魔を見つめる瞳に意識を向けた。 さあ食おう。 これは食い物だから。 墜として、手に入れて、終わりにしよう。 「快楽しか知らない。それを求め続け、けれどすぐに飽きてしまう」 喜怒哀楽、全てを知っていれば悪魔たちも様々な方法で感情を揺らして刺激を得ただろう。 けれど悪魔にあるのは快楽だけだ。それ以外、誰も与えてくれるものはいなかった。 だからいつも同じことの繰り返しになる。 「飽きても次がある」 この悪魔はまだこの世に発生してから時間が経っていないのかも知れない。 螢の言葉に揺れなかった。 まだまだ新しい、楽しいことが溢れていると思っているのだろう。 「人は腐るほどいるからな」 「けれど数をこなせばすぐ飽きる」 人の数だけ楽しめる。そんなことはまやかしだ。 大抵恐怖に陥った人間の行動など限られてくる。螢は人波にもまれながら、どこであっても人の根本はさして変わらないということを学んだ。 きっと、時代が変わってもそうだっただろう。 「もっともっとと欲しがっても。新しい刺激が与えられなくなる。いつか快楽も底を尽きる」 「尽きるはずがない!」 説得しようと思ったわけではない。ただの事実として淡々と言っただけだ。 それが悪魔にとっては信憑性を感じざる得なかったのかも知れない。声を荒らげてそう怒鳴った。 (やっぱり若いな) 誰かの言葉に心を乱すなんて悪魔らしくないことだ。 まだ自制が上手く出来ないのだろう。 「人は皆そう変わりない」 「おまえが見た数だけの話だ。人はどれも面白い」 この悪魔は螢がどれだけ生きてきたのかを知らない。 見た目通りの歳月しか過ごしていないと思っているのだろう。 覚えていられないほどの年月を流れてきたなど、到底考えていないはずだ。だからこそ余計浅はかな台詞に聞こえた。 「この男とて愉快だった」 悪魔は怒鳴ったことなど忘れたように、口角を上げては歪んだ笑みを作る。 「神父が悪魔を背負っているはずがないというのに耳を傾けて。自分の感覚を歪めた。そして悪魔の誘いに身をゆだねた」 「神父?」 また神父だ。 悪魔たちの間で流行っている戯れ言なのだろうか。 だが彼らは独自のネットワークなどない。互いに干渉し合うことなどなかったはずだ。 「その男のことか」 だとすれば妙な話になる。言っていることが無茶苦茶だが、悪魔に理路整然と話せというのも無理なことかも知れない。 だが悪魔というのは言葉で人を墜とす。そのため口が達者なはずだが。 「まさか。日本人じゃなかった」 螢の問いを馬鹿にしたように否定した。 「これと同じ飾りをつけて悪魔と契約をしていた。笑える話だろう。この飾りは神の僕という意味じゃないのか」 悪魔は信田に取り憑いている。そのため信田の知識も共有している。 だからこそ、そんな皮肉が出たのだろう。 首からぶら下がっている銀色のそれを摘んではせせら笑っていた。 (装飾で使われていることの方が圧倒的に多いだろ) もはやその飾りは信仰を現すものとは言い難い。ファットションとして随分広まっているからだ。 悪魔の勘違いだと思いたいのだが、信田がそれを信仰の証だと思ったからこそ悪魔もまたそれを嘲笑しているはずだ。 「自らを神の僕だとも言っていた」 (それは罪だろう…) 信仰しているというのに悪魔を背負っているなど、決して許されないことだ。 正気を失っているのだろうか。 どんな者なのかは知らないが、物騒な生き物がいるものだ。 しかし日本人ではないと言われ、さっさに振り払ってきた人が思い出された。 心がざわつく。 「悪魔を背負っているというのに随分悠然とした態度だった。こいつよりよほど落ち着いた、優しげな男だった。悪魔に取り憑かれているのに、おかしくなっていないことが気になって、近付いたのがこいつの終わりだ」 悪魔に取り憑かれたわけではなく、契約した状態であるなら、もしかすると悪魔を支配する側に回っているかも知れない。 欲が多い人間にそんなことが出来るのかどうかはあやしいところだが。 「神を信仰している者が悪魔と共にいるはずがないというのに。心の弱い哀れな生き物」 信田は幸せそうに微笑んだ。 悪魔はそれを喜んでいるからだ。 心の弱い者を好み、苦しみにあがくものを慈しむ。 そしてじわりじわりと更に追いつめて壊していくのだ。 「幸せが欲しいと願い続けながら、なれるはずもないのだと知っていた。それでもすがった」 甘言にしがみついた。 悪魔は恍惚とした表情を見せる。 今、その身体の中にいるだろう信田は、どんな気持ちなのだろう。 おそらく激しい感情に狂いそうになっているのではないだろうか。 生き生きと語る悪魔を見るとそう推測出来る。 「その神父は、信田に何を言った?」 「幸せになれる方法を伝えただけだ。この男はそれに対して真面目に耳を傾けた。たかが金色の髪が日に透けていただけだというのに、それを後光のように感じていたらしい」 馬鹿なことだと甘く囁く。 日本人の髪は黒い。日光に透けることはない。そして純粋な金髪というのも螢は日本であまり見かけることがなかった。 信田もそうだとすれば、雰囲気に飲まれている状況ならそれを神々しいと思うかも知れない。 「青い目で見つめられると食い入るようにして眼差しを向けてきた」 金髪碧眼の人間がこの世に何人いることか。 日本に限定されているだけ、探すのはまだ手間のかからない方だろうが。 (充に頼まないと) 放置しておける者ではない。 「そいつはこの国で神を探していると言っていた」 「かみ…?」 どくりと心臓が鳴った。まるで悲鳴のように。 「悪魔を持って神を探す神父だなんて、素晴らしいだろう!人間は面白い!」 飽きることなんてない!と叫ぶ悪魔を双眸は見ていた。けれど螢の頭の中には全く別のものが蘇ってきていた。煉瓦造りの町並み。異国の言葉。金色の髪。螢だけを見つめてくる瞳。重すぎる信頼。 もはや、一つの迷いも受け入れない真っ直ぐすぎる思い。 (神…) 螢を見上げ、そう口にする男の顔が思い出された。 next |