飢える慈悲   7




 貴方が私の神です。
 この手で触れることの出来る、奇跡なのです。
 そう言って彼はこの手をそっと掴んでは目を伏せた。
 その手が、振り払えなかった。
 あまりにも己の信念を突き付けてくる様に、突き放すのが怖くなった。
 そしてこの身体は、この心は縛り付けられた。
 離すまい、離れるまい、と願う人の言葉に息が止まりそうだった。
 彼か、この心か、どちらかがじきに壊れる。
 この心が壊れるのなら構わない。もう十分に生きた。
 けれど彼が壊れるのは、彼の心が壊れるのは嫌だった。
 真っ直ぐ未来を見つめていた、キラキラとした瞳が壊されるなんて見たくなかった。
 だから逃げ出した。
 彼の元から、逃れた。
 一緒にいることで生まれるものは何もないから。壊すことしか出来ないから。
 そして、離れることで終わったのだと思っていた。
 彼は現実を見るだろうと思った。
 もしくは、本当の神を求めるだろうと。
(…そんなはずがない…彼のはずがない)
 違う。そう思いながらも、どこかで確信していた。
 彼が日本に来たのだと。そして螢を忘れることなく、探し求めているのだと。
 血の気が引いた。
 口からは否定する言葉も出てこず、ただ乾いた吐息が零れる。
「…知り合いか」
 硬直した螢を見て、悪魔はにんまりと笑った。
 人の心の隙間を見逃すはずがない。
 彼のことを思い出して動揺している螢に牙を向けてくる。
「悪魔をばらまいている男と知り合いだなんて、皮肉だな」
 おまえは悪魔祓いだろう?と侮蔑の言葉が投げられる。
(そう…悪魔なんて…)
 彼にとって悪魔などというものは最も憎むべきものだ。
 そんな穢れた者と契約をするなんて有り得ない。
 けれど、契約をするなんて有り得ないと思われるべき人物が現に悪魔に身体を支配されている。
 螢の目の前であがいている。
「もしかして協力関係か何かか?あの男が悪魔をばらまいて、おまえがそれを祓う。それで」
 悪魔は浅ましい考えを述べる。
 そうして金もうけをしているのか、と言いたいのだろう。
 けれど螢にとって悪魔とは金になるものというより食事だ。
 これには全く当てはまらない。
 するすると悪魔の言葉が心をすり抜けていく。
(神を望む彼が……でも、けれど…)
 彼にとっての神は、今ここで悪魔に食い付こうとしているおぞましい化け物だ。
「……おまえ、あの男の探していた神か」
 どん、と身体を押されたような衝撃を感じた。だが実際には、悪魔は一歩も動いていない。
 息が、止まりそうだった。
 そんなはずがない!と言いたかった。違うのだと。
 だが悪魔はもう見抜いていた。螢の心を。
 哄笑を上げようとしたのだろう。醜い顔で優越に浸った表情を浮かべた。
 しかしそれはすぐに苦悶へと変わった。
「っ!貴様ぁ!」
 不動が素早く動いて信田の首を片手で掴んだのだ。
 いつの間にかこの腕にはまっていた数珠は外されている。
「ぎ、あぁぁぁぁぁぁぁ!!」
 首を掴んだ不動の手から煙のようなものが上がっていく。
 悪魔が入った身体は不動の体質には合わない。おそらく焦げは激痛が走っていることだろう。
 生きながらにして焼かれる経験はないので、螢には分からないが耳をつんざく絶叫は酷いものだ。
 悪魔の言葉に与えられた衝撃から少し立ち直るが、不動を止める気力はなかった。
 焼かれる苦しみから悪魔は四肢を振り回しては不動の手から逃れようとする。体格の悪くない男に暴れられると、いくら力のある不動でも抑えきれない。
 面倒だと思ったのか、不動はそのまま信田の身体を壁に叩き付けた。
 どすんと重い音がして、信田の身体が人形のようにぐったりと壁に貼り付けられる。
 不動は怒っている。
 ぴりぴりとした空気が周囲に漂っていた。
 それに威圧されたのか、悪魔は怯えた顔で不動を見上げた。
「おまえ人じゃないのか!!」
「人だと名乗った覚えはない」
 ひっと息を呑んだかと思うと表情を失う。身体から出ていこうとしたのだ。
 現に信田の中でずっとよどんでいた影が頭の先からするりと出ていく。
 常人であるのならそれは見えないだろう。けれど不動と螢がただの人であるはずもなかった。
 不動は影を殴った。
 端から見れば壁を殴ったようにしか見えないだろう。
 けれど螢の目には、悪魔を殴ったのだと分かった。単に悪魔が消えたので、壁まで殴る羽目になっただけだ。
 痛い痛いという悲鳴が部屋中に響いた。
 だがゆっくりと小さくなっては、聞こえなくなった。
 信田は意識を失っているのか、床に倒れ込んでいる。
 首には不動が掴んだ掌の跡が付いていた。
(あの子が……)
 彼がいるかも知れない。
 その事実に螢は言葉も出なかった。



 不動の唇を奪う。
 荒い呼吸はまだ整っていない。
 けれど欲しいという気持ちに歯止めがかからず、螢は口付けを求めた。
 舌を差し出すと絡み付いては吸ってくれる。
 喉が乾き、張り付くほどの焦がれに清水が流し込まれていくかのようだった。
 甘さを含んでいるのに、どうしてこれほどまでに清らなのか。
 この男は不思議だ。
 まして螢が上に乗って情欲を貪ったばかりなのだ。
 まだ後孔では不動のものを飲み込んでおり、中で出されたそれは少し腰を揺らめかせれば濡れた音を立てるだろう。
(もっと)
 螢にとって不動との情事はただの性欲処理ではない。
 むしろその意味は薄いくらいだった。
 不動の生気は美味いのだ。絶え間なく魂を喰えれば腹はずっと満ちている。けれどそうそう悪魔が転がっているわけはない。なので不動の生気を少しばかり分けてもらっていた。
 その質の良さに満腹感より高揚してしまう。その上に情事で快楽を得ているのだ。
 麻薬のような男だった。
 だが螢は喰い過ぎることはない。ある程度満足すれば欲張らないのだ。
 限界以上のものを求める必要がないせいだろう。
 それなのに、今日は不動をいくらでも欲しいと思った。
 あふれるほどに。
(欲しい)
 自分でもこんな風に思うことはおかしいと分かっていた。
 だが不安なのだ。
 じっとしていられない。
 全てを失ってしまいそうで、だがどう動いていいのか分からない。
 おそらく、混乱しているのだ。
 一度離れてしまった唇を再び塞ぐ。
 そして腰を動かそうとした。
 けれどそれを不動に止められた。腰に手を回され、固定される。
「がっついてるな」
 すでに一度螢の中に出した人は冷静さを取り戻そうしているようだった。呼吸が整ったばかりの螢とは違う。
「今日の悪魔、不動に取られたから」
 力がある分、味の良さそうな悪魔だったのだ。
 香ってくる甘さも心惹かれるものだった。それを不動に取られたから、だから腹が減っているのだ。
 そう言い訳をした。
 本当は何ヶ月も悪魔なんて喰わなくても平気だった。
 けれど冗談めかして、身体の飢えをごまかしていた。
「終わりだ」
「もう一回」
 不動は性欲がそんなに強い方ではないようだった。
 一晩で何度も交わることはなかった。けれど一度だけで止めることもあまりなかった。螢が欲しいと言えば二度は付き合ってくれるのに。
 どうして今日に限って拒むのか。
「螢」
 駄目だと告げるように名前を呼ばれ、螢は俯いた。
 そしてゆっくりと腰を上げた。
 中から不動が出ていく感覚に息を呑んだ。
 溢れ出てくるそれが内太股を伝って落ちる。少し気持ちが悪かった。
 もっと触れていたかった。
 そうすれば少しは精神が凪ぐかと思ったのだ。けれどそれは退けられた。
 心細さに自分を抱き締めたくなる。小さくなったところで何も変わらないと分かってはいるが、平然としていられない。
 今日は一人で寝た方がいいのだろうか。そんな寂しい予測までしていると不動に手を取られた。
「こういう時、どうすればいいのか知っているか?」
「何が…」
 突然の台詞に、螢は首を傾げる。
 こういう時とはどういう時か。もう一度抱かれたいのに、それを断れた時の対処だろうか。
「しがみついて泣けばいい。おまえがしたいのはそういうことだ」
「不動?」
「抱かれることじゃない」
 絶句した。
 薄い闇の中でも不動の眼差しは刺さるように螢に向けられる。
 この心が悲鳴を上げたがっていることくらい、不動はもう知っているのだ。感じているのだ。
(違う…違うんだ)
「泣きたいわけじゃない……」
 目の奥が緩むけれど、泣きたいわけじゃなかった。
 だがそう告げた声は震えていた。
「怖いんだ……ただ怖い」
 不動に掴まれた部分からあたたかさを伝わってくる。それに後押しされるように螢は自分の気持ちを口にした。
「逃げられると、思ってた…あの国を出て、日本に戻って」
 この国の土を踏んで、忘れようと決めたのだ。
 何事もなかったかのように、過去を斬り捨てて別人の顔をして暮らそうと。
「このまま時間が流れて、あの子は俺より先に逝くだろうから」
 今までそうして多くの命を見送ってきた。
 人間は螢より先に死んでしまった。
 例外など一人とていない。
 そして螢は、ずっと独りきりだった。
「あの部屋から逃げて、そこで断ち切れたと思った…」
 思っていたんだ。
 螢は静まり返った中、ぽつりぽつりと恐れを零していく。
 不動はただ黙って聞いていた。
 手を握ったまま。
「悪魔って…もしかすると…あの子が」
 螢を探しに来て、その執念を悪魔に見られたのかも知れない。そして囁かれた際、意志の強さを見せて取り憑かれはしなかったものの、契約を促されたのかも知れない。
「事実かどうかは確認が取れていない。悪魔の戯れ言の可能性も十分残っている」
 不動は手を引き、螢の身体を抱き寄せた。
 こうして肌を密着させて鼓動を聞くと慰められているように感じられた。
 さっきまで繋がっていたのに、こうしている方がより近くに感じられる。奇妙な感覚だ。
 きっと、螢はこうして欲しかったのだろう。
 抱かれるんじゃなく、抱き締めて、包まれたかったのだ。
 事実は分からない。
 そう言われて螢は頷いた。けれどきっとあの子だろうという予感があった。
 神なんていない。
 そう何度も教えた。まして螢は神などとはほど遠いのだと。けれど彼は聞かなかった。
 目を、閉ざしてしまった。
 そして今もその目は開かずにいるのだろう。
 この夜の下で。







TOP