飢える慈悲   5




 充を介して、全く別の名前で信田に依頼をした。
 霊体を祓って欲しいという内容だ。
 これは前回も使った話だった。
 今度は近くの喫茶店ではなく、直接自宅に呼ばれることになった。
 霊体を祓った後に何かしらするためかも知れない。
 人目に触れることを拒んでいるのだろうかと考えてしまう。
 充の話を聞いてから次の日という、緊急事態並の速度で行動していた。
 指定されたマンションの一室を見付けだしインターホンを押した。
 すでに甘さは漂っており、熟れすぎた果実のような香りに螢は多少高揚を覚えていた。
 否応なく食欲がそそられる。
 出てきた信田は二人の顔を見ると驚いた後、苦笑して見せた。
 約束の時間に来たことから察しが付いたのだろう。
 螢は信田を見て、その身体の中に息づいているものを見て取れた。
 信田は二人が悪魔を専門にしていることを知っている。宿主の情報は取り憑いている悪魔にも共有されている。なので今信田の中にいる悪魔は螢が自分を排除しに来た者だと分かっている。
 けれど怯む様子はなかった。
 むしろ新しい刺激が来たことで笑っているような気配すらあった。
(だからおまえたちは喰われるんだ)
 怯えて隠れないから、螢は容易に悪魔を捕まえてしまう。
 そして突き墜として喰らってしまう。
 もっと警戒して、頑なになっていたのなら手間もかかることだろうに。悪魔たちはそんなことを考えもしない。
 危機感がないのだ。
 今まで害されたことが一度もないせいだろう。
「こんばんは」
 信田は玄関のドアを大きく開き、二人を眺めた。
 堂々とした態度だ。
 前に会った時に見せていた不安定さはなくなっている。
 空しいことだ。悪魔に取り憑かれることで不安定さを消したなんて。
 悪魔の囁きが自分に自信を持たせてくれるなんて、一瞬だけだということを、信田は気付くべきだった。
「今日も私に訊きたいことが?」
「ええ。貴方の元に来た人が次々と異常行動を起こしているようで」
「異常行動?」
 信田は首を傾げる。
 依頼者たちが異常な言動を取ることは分かり切っているはずだというのに、信田は本気で分からないという顔を見せた。
 だが彼が宿している悪魔は喜ぶように信田の周りに影をまとわりつかせる。
(……憑かれてるな)
 悪魔の声を聞き、自分の身体の中に悪魔を宿すことを了承したのだ。
 精神力があるもの、不動などのように特殊なものを持っているものなら悪魔に支配されることなく自我を持っていられるだろうが。どうやら信田にはそこまでの能力はなかったようで飲み込まれている。
(しかも面倒なやつに憑かれて…)
 悪魔は悪魔を呼ぶことが出来る。けれど自分が楽しければ良い、という悪魔たちは自分の玩具を取られることを拒む。
 なので同胞を呼ぶことはほとんどない。
「中に入って下さい。どうやら困ったことになっているようですね」
 おまえがな。とは黙っておいた。
 そう言ったところで信田が認めるわけもない、心を乱すこともないだろう。
「失踪、自己破産、殺人、自殺。ことごとく人格が崩壊したそうです」
   自殺という言葉に、信田は眉を寄せた。そしてそれは良くない、と呟いた。
「別人のようになった言われています」
 信田に案内されるまま部屋の中に入る。中は綺麗に整理されており、一ヶ月前に会った時の信田の印象を裏切らないものだった。
 ソファに座るようすすめらたが、螢も不動も腰をかけはしなかった。
 そして信田も座りはしない。落ち着いて会話をするような空気ではなかった。
「別人…それは本当でしょうか?」
 信田は薄い笑みを浮かべながら、どこか虚ろな眼差しで螢を見てくる。
 悪魔の意識が身体の中で影を落としてはうねっている。嗜虐的な牙をちらつかせているが、それを恐ろしいと思ったことは一度もない。
「周囲には見えていなかっただけで、それもその人の一面、最も深い部分だったとは思えませんか?」
 悪魔が笑んだ。
 甘ったるさを含んだ声音に、悪魔が信田の唇を借りて螢に誘いをかけてきたことが分かる。
 こちらを揺さぶりたいのだろう。
「最も深い?」
 悪魔が話したがっていることを察して、螢はそう尋ねる。
 人を突き落とすことが楽しいとしている悪魔に、同じことを返すのだ。
 機嫌を良くさせて、一気に恐怖に突き落とす。そうすると多少従順になるのだ。そして螢に喰われてくれる。
 実に性格の悪い手ではあるのだが、悪魔に同情する気は全くない。
「はい。人に見せることがない。最も深い部分であったとは思えませんか?」
「それを貴方が解放したのだと?」
「私が?」
 心外だという顔をするが、笑みが消えない。
 人の最も深い部分に隠されたもの。それはとても貪欲な感情だったのではないのか。
 悪魔はそれを見抜いた。そして囁いたのだ。
 それをさらけ出せばいいのだと。
 普段押さえ込んでいる貪欲さを露わにすることは楽しかっただろう。我慢せずにすむのだから、思ったことをそのままやれば良いのだから。
 けれど残されるのは悲劇だけだ。
「貴方です」
 おまえの中にいる悪魔がそれをした。
 その悪魔を呼んだのは、受け入れたのは、おまえだ。
 螢は冷淡な思いで信田を眺めていた。
「…そうかも知れませんね」
 仕方がない人だと言いたげに信田にそう言う。
 余裕を持って、螢を見下ろしているかのようだ。
「ですが私が直接何をしたわけではありません」
「ただ誘っただけ。囁いただけ」
 その悪魔の声で。
 人の意識に直接語りかけては毒を流し込んでいく。墜としては眺めている。
 信田がそれを楽しんでいるかどうかは分からない。だがその中にいる悪魔は愉快で愉快でたまらないだろう。
「私は満たされないと嘆く人に満たされる術を教えただけです。そして各々が望むことをなしただけ」
 満たされないのです。
 そう憂いを見せていた人がとった行動が、悪魔だったとは。
 自分を売ってまでも、信田は他人に満たされて欲しかったのか。
(いや、自分の望みをかなえたかったのた)
 人を満たせない自分の無力さを変えたかったのだろう。
「幸せになるためには満たされることが望ましい。心が飢えていては何も見えません」
 同意出来るような台詞を吐いているが、やっていることは侮蔑の対象にしかならない。
 螢は口元に皮肉な笑みを浮かべた。
「幸せのために満たされるということは。欲のままに自分を解き放つことですか?」
「必要であれば。そうすることでしか幸せになれない者もいるのです」
 欲にまみれた幸せで満たされるなど浅ましい。
 そんな非道な言葉が喉元まで迫り上がってくる。
「それでは獣だ」
 欲望だけに忠実な生き物であるなら、人という名を捨ててしまえばいい。
 言語を捨て、地に四肢を付けて生きて行けば良い。
 そんなことすらもう出来ないのだろうが。
「畜生の身ぞ信深く」
 その言葉に舌打ちをした。
 あまりも忌々しい。
 信田のような者が口にするようなことではないだろう。だが螢が苛立つ資格はなかった。
「心素直なだけで、忍ぶこと一つも知らないけだものだろう」
 睨み付けると信田は肩をすくめる。
「けれど余計な煩悶ばかり抱くより満たされる」
 自分が満たされれば他人などどうでもいいのか。
 以前の信田ならそんなことは言わなかっただろうに。体内にいる悪魔に意識を取られているからだ。
「獣というのは大袈裟です。みな幸せになるために自ら動いただけです」
「自殺も?」
 信田の元に訪れた一人がマンションから飛び降りた。
 階が高かったため、即死だ。
 遺書はなかったが情緒不安定だったために、自殺だろうと判断されたらしい。
 信田に依頼をする前も霊のせいで多少精神的に疲れていたらしいが、信田に会った後は突然笑い出したかと思うと次は悲鳴のように泣き出していたらしい。
 自分で自分が支配できないと家族に漏らしていたほどだ。
「それは良くない。自殺などという行為はいけません」
 信田は明らかに渋い顔をした。
 自殺などということは最も悲しく、愚かなことだと信田は思っているのかも知れない。
「だが現に死んだ者がいる」
 悪魔がそうし向けたのだ。
 おそらくそれまでにも狂おしい感情に苛まれたことだろう。
「道を失ったのでしょう」
 哀れなことです。と信田は表面上は痛ましいと感じているような様子だった。
 けれど螢の元には哄笑が聞こえてくる。
 本当は、信田はこのことに悩んでいるのかも知れない。自殺者が出たということは本来なら避けなければならないことだ。
 けれど信田が悩んでいることすら、信田の中にいる悪魔にとっては面白いのだ。人の苦しい、悲しい、辛いなどの感情は全て愉快なのだから。
「貴方がそそのかしたのではなく?」
 悪魔を背負いながら誰かに憐憫をかけるなど甚だおかしい。
「私は決してそのようなことを認めません。自殺など、本当に悲しいことです」
 少しばかりうつむき、顔に影が宿る。
 以前会った時にも見たことのある光景だ。
 あの時は他人に対して随分思い詰める人なのだと思った。けれど今は失笑しか沸いてこない。
「笑ってますね」
「…誰がですか?」
「貴方の中にいるものが」
 歓喜を歌うようにその存在を主張している。
 まるで鼓動を刻むかのように影は一定の速度で大きくなったり小さくなったりしている。
 生き物を真似ているのだ。
 それが螢の気持ちを逆撫でしている。
 生命などとはほど遠いまがい物の分際で調子に乗っている。
「私の中?」
 信田が首を傾げる。
 何を言っているのか分からないと言いたいのかも知れないが、その視線の奥は螢を睨み詰める鋭さがあった。
 嘲笑している、悪魔の姿もちらついている。
「悪魔です」
「私の中にそんなものはいません」
 わざとらしいまでに驚く様を見せる。
 それに螢は笑んだ。
 分からないはずがない。
 感じられないはずがない。
 この身体の中から聞こえてくる甘い声を無視出来るはずがない。
 身体を支配しようとする自分以外の存在をなかったことになど出来るはずがない。まして信田は霊体を相手にしているのだ。
「気付いているでしょう?貴方も悪魔を知っているはずだ」
 馬鹿げた芝居は止めて欲しい。もうそろそろ声を出して笑ってしまいそうだ。
 茶番がしたいわけではない。
 言ってしまえばいい。悪魔を手に入れましたと。そうして満たされることを知りましたと。
 他人を満たしたいと言いながら、突き落とすことを覚えましたと。
 ふつふつと沸き上がってくる怒りに似た感情を抑えられなかった。
 何がそれほどまでに気にくわないのか、考えたくはない。
 だが立ち去ったあの場所に捨ててきた自分に、似ている部分があることは自覚している。
「だからこそです。私の中にあるものは、意志ですよ」
 意志?そう螢は呟き、信田の中にあるものを見つめた。
 それはとても歪んだ貪欲さで、蹂躙することしか知らないものだ。
 いつから人間は貪欲さを意志と呼ぶようになったのだろう。
 そう思ったが、そんなものは昔からだとすぐに理解してしまった。
 


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